接吻
夕餉を終え布団をくっつけて川の字になるとすぐに、新之助の寝息が聞こえてきた。
「咲良、ちょっと良いだろうか」
「はい。お部屋を変えますか?」
「ああ、咲良の部屋で良いか?」
新之助を起こさないように気をつけながら部屋を出る。
洗い髪を肩の下でゆったりと結んだだけの久秀からは、零れるような男の色気があった。
「今回は島田宿を拠点にしていろいろと探ってきた」
「ご苦労様でした」
「いや、あそこには修行時代の先輩がいてな、なかなかに厳しい稽古をつけていただいたよ」
「稽古ですか? 旦那様が?」
「うん、どうやら相当に鈍っていたようで、先輩に……宇随義正という方なんだが、酷く怒られちゃってさあ。でも代稽古の仕事を下さったから相当に助かった。咲良が用意してくれていた金でずっと宿で眠れたし。本当にありがとう」
「い……いえ、旦那様こそ私たちの暮らし向きのためにたくさんのお金をご用意くださいましたので、私どもも何も困ることなく過ごしておりました。お嶋様も柴田様もなにくれとなくお気に掛けてくださいましたし」
「そうか、それなら良かった。それでね……思わぬ人物と遭遇してしまって。まあ結局は取り逃がしたのだけれど、むしろ今後を思うとそれで良かったと思っているんだ」
「思わぬ人物でございますか?」
「うん、我が剣の師である景浦光政様の仇だよ。名を五十嵐喜之助という」
「まあ……左様でございましたか」
「うん、こいつが腐れ外道正晴の護衛をしている。卑怯な剣を使う奴で油断も隙もないんだ」
「正晴の……それは難儀でございますね」
「でもね、師の仇ということは宇随さんにとっても仇なんだよ。この宇随さんという人はとんでもなく腕が立つ人でね、一緒に仇討ちをすると言ってくれたので百人力を得た思いさ」
「それはようございました。その宇随様という方も江戸に?」
「いや、預かっている道場のこともあるからね、代わりの師範代を見つけたらすぐに向かうと言っておられた。生まれは美濃の方なのだが、今は島田宿におられる。妻帯はなさっていないが、おそらく来年辺りには身を固めるのではないかな。芸者のお市という女性でね、なんとも気風の良い人だったよ。おそらく江戸の人ではないかな……口調がそんな感じだったんだ。もしかしたらこの辺りで芸を覚えたのかもしれない」
「この辺り……そうですか。この辺りといえば、旦那様をご贔屓にして下さっていた三朝太夫さんが身請けをされて大門を出て行かれました。私と新之助でお礼かたがたお見送りをいたしました」
「うん、お嶋さんからの手紙に書いてあったね。あれは咲良が代筆したのだろう? 返事を貰えて本当に嬉しかったし、新之助の字も上達したようで安堵した。でもね……」
咲良が小首を傾げる。
「もう少しさぁ……何というか……嬉しかったけれど少し寂しかった。会いたいとかさぁ、寂しいとかさぁ。そういうの無かったの?」
久秀が真っ赤な顔で苦情を言った。
咲良も負けないほど赤い顔で言い返す。
「それを言われるなら旦那様のお手紙も素っ気なかったですよ? 私も少しだけ拍子抜けしたのですから」
「素っ気なかった? でも思いはたっぷり込めたんだよ?」
「それを言われるなら私もでございます」
「ははは……お互い様か。いやいや、そんな話じゃないんだ。三朝太夫を引いた富士屋又造っていう男が、あの腐れ外道の腰巾着でね。今回の旅も三朝太夫からの情報だったんだよ」
「まあ! それは存じませんで……」
「うん、言ってないもん。俺は他言無用の約束をしてしまったけれど、咲良にはいろいろ察して欲しいとは思っているんだ。俺たちが追わなければならないのは正晴と富士屋又造、そして富士屋の若旦那ともう一人だ」
「四人でございますか」
「そうだ。そしてその門前を固めているのが師の仇である五十嵐喜之助さ」
「旦那様、もう一人というのは?」
「わからない。こいつがどうやら黒幕のようなのだが、尻尾を出さないんだよ。こいつを探り出さないと正晴たちの悪事をお天道様の下に晒せない」
久秀は『正晴』という名を口にするだけでも嫌なようで、その度に顔を歪めている。
「三朝太夫は名をお朝と改められ、本所南町に移られました。時々は遊びに来ると言われていましたので、何かお話しを聞けるかもしれませんね」
「そうか。でも俺は富士屋又造とも五十嵐喜之助とも顔を合わせてしまったからなぁ。近づきにくい」
「それなら私がお話を伺いましょう。お料理やお裁縫を教えて欲しいと言われましたので、訪ねても不思議ではございますまい」
「なるほど……でも咲良は俺の妻ってことになっているから拙くないか?」
「そうかもしれませんが、それほど珍しい苗字もございませんし、バレたらバレた時のことです。虎穴に入らずんば虎児を得ずですわ」
久秀の肩が揺れた。
「いや、俺としては咲良に危ないことはしてほしくない。でも情報は欲しい……困ったな。俺が女装でもしようかな」
咲良がプッと吹き出した。
「大丈夫でございますよ。お嶋様にも一肌脱いでいただけますでしょうから」
「ああ、お嶋さんと一緒なら少しは安心だが……無茶はするな。これだけは守ってくれ」
「旦那様?」
「俺はね、自分の命は捨ててかかっているからどうでも良いのだ。でも咲良と新之助には絶対に生きていて欲しい」
咲良が悲しそうな顔をした。
「私は安藤久秀様の唯一の同志だと自負しております。蚊帳の外には出とうございません」
「でも俺は……」
「安藤久秀! 大義を忘れてはなりません! しっかりしなさい! 大事の前では全てが小事と仰ったのはあなたでしょう!」
「は……はい。ごめんなさい」
「でも私は、そんな旦那様が……」
久秀が顔をあげる。
「旦那様が?」
プイッと横を向いてしまった咲良の手を久秀が引き寄せた。
「俺は咲良を愛おしく思っている。この三月というもの、ずっとお前のことを考えていた。正直に言うとすぐにでも抱きたい。咲良の全てを俺だけのものにしたいと思っているんだ……でもできない。俺は……いや、俺たちには為さねばならぬことがある」
咲良が久秀の胸にしなだれかかった。
「久秀様、咲良もお慕い申し上げております。今すぐにでも本当の妻にしていただきたいと身を焦がしております。でも……仰せの通り、私達には絶対の使命がございますれば……」
久秀がギュッと咲良の体を抱きしめた。
「全てが終わったら祝言をあげよう。俺は咲良しかいらない。咲良だけを好いている。ねえ咲良……こっちを向いて?」
顔を上げた咲良の唇を久秀が吸った。
「嫌だった?」
咲良がプルプルと首を横に振る。
「ああ咲良……でもだめだ。これ以上は我慢がきかなくなる。必ず夫婦になろうな。そのためにも俺は生き残ってみせるから」
「はい、ずっと……ずっとお待ち申し上げております」
「うん」
久秀がもう一度咲良を抱き寄せ、唇を深く重ねた。
「ああ拙い。俺はちょっと風に当たってから寝るよ。咲良は先に眠りなさい」
「はい……すぐに来てくださいましね?」
「うん」
思いを振り切るようにして咲良の体を離した久秀が立ち上がる。
障子を開けて振り返った久秀が言った。
「咲良の唇は甘いね。美味しかったよ」
パタパタと廊下を進む久秀の足音を聞きながら、咲良は小さな声を出す。
「抱いて下さればいいのに……」
その声は闇に溶け、行灯の仄かな火を揺らしただけだった。




