我が家
「ただいま」
途中で雨にあったのか、汗と埃が泥のようにこびりついた久秀が戻ってきた。
大門に続く土手八丁の行燈に火が入ろうかという時刻。
「父上!」
「お帰りなさいませ」
新之助が駆け出し、咲良も嬉しそうな声をあげる。
板の間に荷物をおろし久秀は新之助を抱きしめた。
「父上……臭いです」
「ああそうか。そりゃすまん。咲良、風呂は?」
「ご用意しておりますよ」
笑顔で頷いた久秀が一歩、咲良に近寄った。
「会いたかった。ずっと会いたかったよ、咲良」
一瞬で全身の血液が顔に集まったような表情の咲良の頬を、掌でするっと撫でた久秀。
「さあて、垢をこすり落としてきますか。でないと咲良にまで臭いと言われてしまう」
撫でられた頬に自分の指先をあて、咲良はギュッと目を瞑ってから湯の温度を確かめに走った。
どうやら新之助もついて入ったようで、楽しそうな笑い声が外まで聞こえる。
「こらっ! 新之助。そんなにばしゃばしゃと湯をかけるな」
「だって父上、頭から黒い汁が垂れてます」
「え……ホント?」
「髪も洗わないと母上が近寄ってくれませんよ」
「それはまずい。ちょっと待ってくれ、元結を切るから」
「父上の元結……黒いんですね」
「黒い……うわぁ! 砂が出てきた! 新之助、湯だ! 湯をどんどん掛けろ」
「はいっ!」
どうやら湯が足りなくなりそうだと思った咲良は、水を汲むために井戸に向かった。
湯殿の小窓を開けて声を掛ける。
「旦那様、水桶をお渡ししますので湯桶に入れてくださいませ。火を強くしますのですぐに沸くと思います」
久秀が顔を出した。
総髪を解いた久秀を初めて見た咲良は、目を丸くしてしまった。
「すまん。思ってたよりめちゃめちゃ汚れてた。これでは新之助まで汚れてしまいそうだ。あがらせるから体を拭いてやってくれ」
「大丈夫です。そのまま手伝わせてください。新之助は旦那様が無事に帰って下さったことが嬉しくて仕方がないのです。後で体を拭いてやりますのでお気になさらず」
「そうか? 新之助は喜んでくれているのか……だったら咲良は?」
咲良はギュッと口を引き結んだあと、俯きながら答えた。
「も……もちろん嬉しゅうございます」
「ん? 聞こえなかった。もう一度言ってくれ」
「ちょける(ふざける)のも大概になさいまし。ほんにいけず(いじわる)なお方やわぁ」
「おっ! 伊勢弁かぁ。懐かしいなぁ……ほんに咲良は可愛い女やに」
「もう! 旦那様!」
「ははは、で? 咲良は嬉しかった?」
「……あい。ほんにうれしおした」
咲良が上目づかいで窓を見上げると、真っ赤な顔をした久秀と目が合った。
「早く洗ってしまってくださいな。夕食が冷めてしまいます」
「お……おう。わかった」
何度か水桶を渡し、新しい薪をくべた咲良の頬が真っ赤になっていたのは、火の番をしていたせいだけではない。
台所に戻り大鍋で湯を沸かした咲良は、風呂から出てきた新之助の体を清めてやる。
濡らした手拭いで体を拭かれながら新之助が楽しそうに言った。
「糸瓜で擦ったら、父上の体から何やら胡麻のようなものがたくさん出てきました」
「きっとそれだけご苦労なさったということです。ゆっくり休んでいただきましょうね」
「はい、やっと三人で並んで眠れますね」
「そ……そうですね」
湯からあがった久秀の髪を梳いてやると、まだまだ油が浮き出てくる。
「旦那様、こちらで御髪を洗いましょうか」
「え? まだ汚れてる?」
「ええ、せっかくですから。ね?」
咲良がコテンんと首を傾げると、久秀に逆らう術はない。
「うん、よろしく頼む」
土間に降りて大きな桶の前で屈んだ久秀のうなじは、思っていたより日に焼けていた。
何度も梳っていると、流れる湯がだんだん汚れなくなってくる。
お嶋に貰ったふのりで丁寧に洗い、真新しい手拭いで水気をとった。
「ああ、さっぱりした。頭が軽くなったような気がするよ」
「それはようございました」
三人で囲む久々の食事は、久秀の土産話でおおいに盛り上がった。
久秀が二本目の銚子を空けた後、すと立ち上がって紙に包んだものを取り出す。
「新之助にはこれを」
「ありがとうございます」
「咲良にはこれだ」
「まあ、私にまで。ありがとうございます」
新之助には小ぶりな印籠で、咲良には鼈甲の飾り櫛だった。
「さあ、咲良。つけてやろう」
咲良の手から飾り櫛を取り上げて手を伸ばす久秀。
照れる二人をニマニマと見ている新之助の顔は幸せで満ちていた。
どこから見ても幸せな三人家族だが、それぞれの胸の中には『仇討ち』という重い楔が打ち込まれている。




