初めての便り
今日も新之助を道場に送り、買い物をして帰った咲良が、仕立て仕事を始めようと準備をしていた時、玄関からお嶋の声がした。
「はぁい、ただいま」
毎回そう返事はするが、言い終わる前に上がり込んでくるのはお嶋の常だ。
「仕事かい? 精が出るねぇ」
「はい、旦那様も頑張っておられるのですから、私もできることはしませんと」
「なるほどね。はい、これ。今朝届いたんだ」
お嶋が油紙に包まれたものを懐から出した。
「手紙。久さんから」
「えっ!」
咲良の心臓が一瞬で騒がしくなる。
お嶋からそれを受け取って、そそくさと懐にいれ茶の準備を始めた。
「何もございませんが、今お茶を」
「そうかい? 茶うけなんか気を遣わないでおくれよ」
咲良がニコッと微笑んだ。
「小金屋さんの切漬けがありますよ?」
「えっ! 小金屋の? そりゃ嬉しいねぇ。あれで飲む茶が一番さ」
貧乏とはいえ武家の娘だった咲良にとって、漬物で茶を飲むよいうお嶋の言葉には驚かされたものだが、郷に入っては郷に従えとばかり、今では菓子よりも漬物を出すことが多い。
小金屋というのは本所の橋の側にある小さな漬物屋で、ここを教えてくれたのもお嶋だ。
年寄りと若夫婦の四人で切り盛りしているが、なかなかの味だと評判になっている。
「間引き菜と山椒の実の浅漬けですって。お醬油はお嶋様が掛けまわしてくださいませね」
お嶋は江戸っ子らしく漬物に少量の醬油を垂らして食べるのを好む。
そのために、漬物は一度水を通して余分な塩を抜いてから固く絞って食卓に乗せるのだ。
「さすが咲良さんだ。あたしの好みを知っていなさる。うちの旦那は上品ぶっちゃってさぁ。こうやって醬油とおかかをまぶした漬物をアツアツのおまんまの上に乗っけるのが一番旨いってのに、下品だなんて抜かすんだよ」
確かに上品とは言い難い食べ方ではあるのだが……
「美味しいのにねぇ」
「うん、美味しいのにねぇ」
新しい水でサッと流し、固く絞った上に鰹節を振りかける。
「お醬油はお嶋様にお願いしますね」
「ああ、そうしてくれるとありがたい」
準備した漬物と小皿に注いだ醬油をのせた盆をお嶋の前に置く。
お茶はじっくりと蒸らした濃い目がお嶋の好みだ。
「それにしても久さんはいつ戻るのだろうね。さっきの手紙に書いてやしないかい?」
どうやら手紙の内容が気になっているようだ。
「今読んでも良いですか?」
「うん、そうしてちょうだい」
咲良が懐から油紙を取り出し丁寧に解いていく。
久秀から届いたのだと思うと、雨除けのこの油紙でさえ愛おしく思える咲良。
表書きには大きく『咲良殿』と書かれ、裏には『久』という一文字だけ。
お嶋の視線に気付かぬふりで、咲良はぱらりと手紙を広げた。
『咲良へ
なかなか便りが出せず心配をかけたが、こちらはなんとか終わりそうだ。
途中で用を済ませながら江戸に戻るので、あとひと月は掛かると思う。
路銀は心配しなくて良いので、どうかそちらも不自由の無いように。
こちらではいろいろなことがあったが、私は無事だ。
そちらはどうだろうか。
あと十日ほどは島田宿の三堀屋という宿にいる予定だが、返事は無理に
送らなくてもよい。
くれぐれも新之助を頼む
久秀』
嬉しいような拍子抜けしたような気分で咲良がお嶋の顔を見た。
「あとひと月後には戻ると書かれていました。ご無事とのことで安堵いたしました」
「それだけかい? 二月もなしの礫でさぁ。本当にそれだけ?」
「旦那様もお忙しいのでしょう。でも便りをいただけて嬉しゅうございました」
「あたしは字が読めないから手紙のありがたみが良く分からないけれど、あんたのその嬉しそうな顔を見ただけで良かったと思えるよ」
「よろしければお読みいたしましょうか?」
「え? 良いのかい? 夫婦の内緒話じゃないのかい?」
「いえいえ、そのような艶めいたことなど一文字もございませんよ」
そう言って咲良は畳の上に手紙を広げて、声に出す文字を指先で示しながらお嶋に聞かせてやった。
「それだけ? 好いているとか会いたいとか無いの?」
「無いですねぇ。残念ながら」
咲良が苦笑いのような顔を浮かべる。
「でも返事はいらないなんて格好つけているけれど、欲しくてしょうがないってのがありありと伝わるじゃないか。あたしらの前じゃあのらりくらりと暖簾のようなお人だけれど、やっぱり奥さんの前だと良い恰好をしたがるのだねぇ。ふふふ」
「暖簾のような? 旦那様が? まあ! ふふふふふふ」
「返事を書いたら持っておいでな。特急便を頼んでおくから。こっちから知らせたいこともあるから、一緒に包んでも良いかい?」
「はい、もちろんです。よろしければ代筆しましょうか?」
「そいつはありがたい! 是非に頼むよ」
頷いた咲良は立ち上がって新之助が使っている机を持ってきた。
「ああ、使って下さっているのだねえ」
「はい、ありがたく。新之助も大変喜んであります」
押し入れから巻紙を出してきて、丁寧に墨をする。
できれば新之助にも一筆書かせてやりたいと思ったが、どうやら時間が無さそうだ。
「では先にお嶋様の御用を済ませましょう」
「うん、伝えたいことは二つだよ。ひとつは久さんを贔屓にしていた大黒屋の三朝太夫がひかされて富士屋の大番頭の妾になることになったこと。もう一つはうちと取引の無かった肥後屋から弁当の注文が入るようになったことさ。肥後屋ってのは大見世なんだけれど、板場も抱えていたから、今までは注文なぞ来なかったんだよ。それがさぁ、太夫たちが久さんの噂を聞いて会いたがってねぇ。それで弁当っていう話さ。だからなるべく早く戻ってほしいのだと書いておいてくれないかい?」
聞きながらさらさらと筆を動かす咲良。
「でもね、咲良さん。久さんの心配は要らないよ? あの人はあんたのことを大好きだと公言して憚らない。だからどの太夫も久さんを呼んでも体の関係は要求しないんだ。それをしちまうと久さんが二度と来ないって知っているからね。それにしても咲良さん、あんたとんでもない人誑しにぞっこん惚れられたもんだ」
咲良は笑いを嚙み殺すように俯いた。
惚れるも何も、自分の片恋で、久秀のは演技なのにと咲良は思った。
「はい、旦那様は本当にお優しくて。太夫さんたちの心の助けになっているのなら重畳でございます。そのお陰で私も息子も恙なく暮らしているのでございますもの。大黒屋の三朝太夫といえば、時々息子に菓子を届けて下さる方ですよね? そうですか。身請けですか」
「ああ、その三朝太夫さ。話によると相当嫌がったらしいけれど、こればかりは通じない。中の女は商品なんだ。身請けすると言われればお大名様でも赤髪の鬼でも行かなくちゃならないんだよ。脱げと言われれば脱がなくちゃいけないし、踊れと言われたら踊るのさ。女なんて悲しいものだよねぇ」
「本当に……どうか三朝太夫の先に少しでも安らぎがあることを祈るしかありませんね」
「ああ、妾なんて飼い犬と同じだからね。飽きたらどこぞに売られるか捨てられるか……」
二人は口を噤んだ。
手紙を書き終えた咲良は、自分の返事に取り掛かる。
秘めた思いを悟られないように、新之助の様子を淡々と書き連ねた。
無事に帰ってきて欲しいという一文に万感の思いをのせて筆を置く。
お嶋は自分で急須を使い、漬物をポリポリと嚙みながら大人しく待っていた。
「お待たせしました。本当なら息子にも一筆書かせてやりたいのですが、間に合わないといけません。ですからこれを……」
咲良は新之助が手習いで書いたものを一枚丁寧に畳んだ。
「新ちゃんの? なんて書いてあるんだい?」
「これは新之助が練習しておりますもので、書いてあるのは私達の名前でございます」
「へぇ……なんていうか……きれいだねぇ」
「ありがとうございます」
『安藤 久秀』『安藤 咲良』『安藤 新之助』
半紙に何度も何度も書いてあるそれらの文字に、久秀は何を思うだろうか。
御家流と呼ばれる崩し字は、風にそよぐ柳の枝のように嫋やかだ。
新之助は『藤』という字が大きくなってしまう癖がある。
自分のと新之助のは一緒に包み、別に包んだお嶋の手紙と一緒に油紙に巻く。
表書きには『島田宿 三堀屋泊 安藤 久秀様 御元』としたため、裏書には『久秀 内』と書いた。
「どうしたんだい? 顔を真っ赤にして」
「いえ、なんでもございません」
久秀内と書くことに、これほどまで高揚するとは思っていなかった咲良は動揺している。
思えば無理やりついてきたあの日から、久秀に手紙を書くのは初めてだ。
それは久秀も同じだろう。
自分の思い人はどのような心持ちで筆を取ったのだろうかと、手紙をもって帰っていくお嶋を見送りながら、咲良は旅立つ日に見た久秀の逞しい胸筋を思い出していた。




