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一人旅

「お帰りなさいませ。今日はどちらに?」


「ああ、ただいま。今日も稽古に行ったよ。あそこの道場は質が高いからついて行くので精一杯さ。ところで何やら外が騒がしいな」


「ええ、どうやらお隣にお大名家の方がお泊りになるとかで、先触れがあったようですよ。ああいったご身分の方をお迎えするのは気骨が折れますからね」


「へえ……隣って本陣だったの?」


「ええ、でもここいらは大井川の関係で本陣が何軒かございますのでね、そのうちの一つなんです。私たちは三番さんって呼んでますよ」


「へぇ、そうなんだ。確かにここ島田宿にはたくさん旅籠があるよね」


「ええ、一番さんからうちのような一般宿、木賃や部屋貸しもありますね。この町のものは、ほとんど大井川様で食べてるんようなものですから」


 この宿の女中達は何くれとなく世話を焼きたがる。

 裏の井戸で褌を洗っていると、自分が洗うといって取り上げられたこともあった。

 妻以外に洗濯物をさせるわけにはいかないと言ったら、泣いてしまって困ったものだ。

 

「今日のお夕食は胡麻豆腐と煮魚ですよ」


「そいつは嬉しいな。ここの胡麻豆腐は天下一品だ」


「先にお風呂に入られますか?」


「うん、そうしよう」


 部屋に戻ると板塀の節穴から隣の様子を伺った。

 山名家の宿泊とは言っていたが、次男だとは限らない。

 しかも抜け荷をするなら本陣宿を使わない可能性も高い。

 だが、新吉原の三朝太夫の話が本当なら、取引のために正晴が直々に来るはずだ。

 あとは宇随の情報を待つしかないと久秀は腹をくくって湯殿に向かった。


 ゆっくりと湯に浸かりながら、ここに来ることになった日のことを思い出す。

 和ませ屋久秀を呼び寄せるために、かむろや下働きの者たちの分まで弁当を注文してくれる三朝太夫は、いわゆるお得意様だ。

 柳屋が出入りしている見世の主人たちは、久秀が絶対に女に手を出さないと知っているので和ませ屋久さんの出入りをむしろ喜んでいた。


「いやぁ、久さんが来るようになって太夫たちの機嫌が良くて助かるよ。以前はあれは嫌だこいつは嫌いだと我儘三昧で手を焼いたものだが」


 話を聞くだけで喜ばれ、弁当の売り上げも伸びるのなら安いものだと久秀は思っていた。

 部屋に招き入れられても、特に何をするわけでもない。

 女たちは久秀の頭を膝に乗せて、鬢を指先で撫でながら延々と愚痴を溢すのだった。


 女たちは確かに不幸な過去を持っている。

 親に売られたとか、夫婦約束をした男に連れてこられたとかの話は聞き飽きるほどだ。

 確かに不幸ではあるが、そんな過去を話す女たちはなぜか生き生きとしている。

 久秀は思った。

 本当に悲しいことや苦しいことは口にしないのだろうと。

 そんな女たちは、時々久秀が探している話を溢す。


「ねえ、久さん。嫌な客なんだけれど、どこやらのお大名家の腰巾着が入れ上げてくれてね、こんなものをくれたんだよ。これって石じゃないだろう? きれいだけれどどう使えば良いのかねぇ」


 久秀の肩に寄りかかりながら、女が懐から出して見せたのは紛れもない黄金真珠だった。

 心臓が跳ねあがり、ガバッと体を起こした。


「三朝ちゃん、それって貰ったの?」


 太夫たちは久秀に〇〇ちゃんと呼んで欲しがるのだ。


「そうなのよ。こんなもの握らせて咥えろって言うんだもの」


「咥え……ああ、そうか。辛い仕事だね。しかしその腰巾着ってのはどこのどいつだ?」


 そう聞きながら鼓動が激しくなっていく。


「駿河湾の魚を扱っている富士屋っていう店の大番頭さ。本店は焼津にあるらしいのだけれど、江戸の店は任せれているんだって自慢してたよ。時々お大名の息子っていう人と一緒に来ることもあるんだ」


「え? 大名の息子? 大名家とも取引があるの? そりゃ大店だ」


「うん、なんだかそうみたいだね。わっち達は外には出られないからどんな店かは知らないけれど、良いものを着てるよ」


 久秀ははやる気持ちを落ち着かせようと冷めきった茶をグッと飲み干した。


「その息子ってのも三朝ちゃんの客なのかい?」


「ううん、違うよ。その人と一緒の時は別の店に上がるんだ。でもわっちと馴染みを契っちまっただろ? 宴席が終わったらこっちに来るのさ。律儀なこった」


「それだけ三朝ちゃんに惚れてるんだろうぜ?」


「止めとくれよ。気色悪い。ああ、せっかくいい気分だったのに思い出しちまった」


「何をだい?」


「今度そのなんとかっていうボンボンと一緒に焼津に帰るのだそうだよ。なんでも大井川近くの宿で珍しいものを取引するらしくてね。戻ったら南蛮の菓子を持ってくるって言ってたんだよ。そんな菓子程度で今度は何をやらされるのかと思うと気分が悪いよ」


「へぇ、そりゃまた難儀だね。でも南蛮の菓子ってのは食ってみたいもんだ。いつ頃なんだろうね?」


「なに、もうすぐだよ。この月の十日だとか言ってたねぇ。三月ほど来れないとか? あまり聞いちゃいなかったけど、確かそう言ってた」


「そうかぁ、ではその間は少し楽だね。実は俺も三月ほど江戸を留守にするんだよ。ちょっと国に帰らなくちゃいけなくてね」


「そうなのかい? お国はどこなの?」


「私は志摩だよ。志摩といっても端っこにある大田舎だ」


「へぇ、遠いのかい?」


「遠いね。行くだけで半月は掛かる。途中で雨に降られたらもっと掛かるさ。三朝ちゃんもお伊勢参りって知ってるだろ? あれとほぼ同じ道中だ」


「ああ、お伊勢参りなら知ってるよ。客がよく話すもの」


 それからは伊勢参りの話になり、時間切れとなった。

 十日といえば三日後だ。

 急がねばならない。

 今度ばかりは真偽を確認する時間も惜しい。

 そう考えた久秀は、柳屋の戻るとすぐにお嶋に相談した。


「そうかい、わかったよ。女房子供は?」


「置いていく。悪いがお嶋さん、気にかけてやってくれ」


「任せておきな。咲良さんは人気者だからね、悪い虫がつかないように目を光らせておこうじゃないか。路銀は?」


「なんとかするさ」


「じゃあこれを持ってお行き。あんたの給金だから遠慮はいらない。ちいと色はつけたから、必ず帰ってきてまた稼いどくれよ」


 そう言うとお嶋は三両の金を懐紙に包んだ。


「ありがたい。助かるよ」


 多すぎるとは思ったが、お嶋の心意気を無下にもできない。

 仕事仲間に留守にすることを告げ、久秀は急いで家に帰ったのだった。

 咲良に留守を告げ、当座の生活費だと三両を差し出すと、咲良は笑って受け取った。


「ありがとうございます。では私からはこちらを。これは針仕事でいただいたものです」


 咲良が小引き出しから出してきた袱紗を開くと三両の金がが出てきた。


「いや、これは……」


「私は旦那様の妻でございます。旦那様が辛い旅をなさるのは妻の名折れというものでございましょう。どうぞ私に恥をかかせないでくださいませ」


 久秀は改めて女たちの強さを思った。


「うん、ありがとう。では頂戴するよ」


「はい。でも旦那様ひとつだけお約束をして下さい」


「なんだね?」


「必ずここにお戻りくださいませ」


 久秀はわざわざ立ち上がり、愛刀を持ちだした。


「誓おう」


 愛刀の鍔を鳴らすと、咲良は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。


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