秘めた思い
道場から帰った咲良は大急ぎで夕食を作り、徹夜して久秀の着物を縫い上げた。
帯の他にも下着を数日分揃え、竹かごに詰める。
ここまで長く留守にするのは初めてだが、これまでも何度か数日家を空けることはあったので、必要最低限の道具は揃っている。
「どうぞご無事で」
そう何度も呟きながら、咲良は久秀の準備を整えた。
東の空が明るくなってきた頃、久秀を起こそうと部屋に入る。
「あらあら……ふふふ」
秋も近づき朝晩は肌寒いせいだろう。
二人は同じ布団でくっついて眠っていた。
くっついているというより、久秀が新之助の布団に潜り込んだという感じだ。
「旦那様、そろそろ明けますよ」
「ん……ん? 咲良? ああ、咲良。もう起きたのか?」
「今日は出立でございましょう? ごはんも炊けましたのでそろそろ起きてくださいな」
「そうか……」
半身を起こした久秀の寝間着がはだけ、鍛えられた胸筋が露わになっている。
咲良は急いで視線を反らし、立ち上がった。
「早く支度をして下さいませね」
欠伸をしながら布団を出た久秀は、のろのろと支度を始めた。
「父上?」
ごそごそしていたせいで、新之助も目を覚ましたようだ。
まだトロンとした目の新之助の頭を撫でた久秀は、まだ寝ていろと言い、横にならせて布団を掛け直してやった。
台所に行くと朝食とは思えないほどの品数が揃っている。
朝からこれほどの準備をするのは大変だっただろうと思ったが、久秀は敢えて口にはしなかった。
そういえば咲良と二人きりの時間は初めてだと思った久秀は、この瞬間がものすごく愛おしく感じられた。
「ああ、俺はどうやら相当に腑抜けているようだ」
台所で握り飯を作っていた咲良が振り向く。
「え? 何か仰って?」
「いや、独り言だよ。それよりまた苦労を掛けるね」
今日からは毎日柴田道場に通うことになっているのだ。
「いえ、苦労などとは思いません。私より旦那様です。ご苦労様でございます」
「うん。かなり行きたくはないんだ。でも今回はかなり有力な情報でね。行くしかない」
「そうですね……寂しいですが、しっかり留守は守りますので、どうぞご安心なさってくださいませ」
久秀が箸を止める。
「寂しい? いま寂しいって言ったの?」
咲良が頬を染めて返事をしない。
「うれしいなぁ。俺がいなくて寂しいと思ってくれる人がいるってだけで、こんなにうれしいものなんだね。こりゃ我武者羅に頑張って早く帰ってこなくちゃ」
「そうですよ? でもご無理はなさいませんようにお願いいたします」
「いや、無理しちゃうよ? だって俺も寂しいもん。でも今回は確認だけだから、危険はないはず?」
「絶対にご無事でお戻りくださいね」
「ああ、約束しよう。それと着物、ありがとう。大切に着るよ」
咲良はにっこりと笑って頷いた。
梅干を入れた握り飯を竹皮で包み、油紙で巻く。
用意していた竹筒にお茶を入れ、腰からぶら下げられるように紐を掛けた。
「では行って参る」
咲良は着物の袖で指を隠して直接触れないようにしながら久秀の愛刀を渡した。
「道中のご無事を祈っております」
玄関を出た久秀が数歩歩いて振り返った。
「ねえ、咲良。手紙を書くよ。お土産も買って来るね」
武で名高かった三沢家の剣術指南役といえば、山名藩でも屈指の剣士ということだ。
それなのにまるで町人のような口をきくこの男は、生まれながらの人誑しなのだろうと咲良は思った。
大通りまでの間に何度も振り返る久秀に向かって咲良は小さく呟いた。
「久秀様、お慕い申し上げております」
もう見えなくなったにもかかわらず、その場に立ち竦んでいた咲良の耳に、自分を探す新之助の声が届く。
「もう起きたのですか? お支度が整いましたら朝餉にいたしましょう」
すでに朝は明けきっており、田畑には人の姿も見受けられる。
今日からの稽古は厳しいものになるだろうと思った咲良は、新之助のために味噌汁を温めなおした。
「父上は?」
「もうご出発になられましたよ」
「ええっ! お見送りをしたかったのに」
「父上が起こすなと仰ったのです。その代わり寝ている新之助の頭を、何度も撫でておられましたよ。それと、今日からの稽古も頑張るようにとの事でした」
「はい。頑張ります」
頷く新之助の無邪気な笑顔に、なぜか咲良は胸が締め付けられるような思いがした。
準備を整えて道場に向かう。
子供の成長は早いもので、始めの頃は歩いていくだけでも精一杯だった新之助も、今では大きな道着袋を背負い、自分で竹刀をもってずんずん歩いている。
頼もしいと思う反面、刻一刻と決戦の日が近づいていることに戸惑いを覚える。
「待って。新之助、足が速いです」
まるで時間を止めようとするかのように、咲良は新之助の歩みを止めた。
「母上?」
不思議そうな顔をする新之助に言う。
「母はどうやら新之助よりも足が遅いようです。もう少しゆっくり歩いてくださいな」
「あ……すみません。気付きませんでした」
「いいえ、それだけ新之助が成長したという証です。母は嬉しく思いますよ」
「ありがとうございます」
歩調を緩めた新之助は咲良と並んで歩き出す。
「夕刻までにはお迎えに参ります」
「はい、わかりました」
新之助の返事に頷きながら、駿河の方角はどちらだろうかと考える咲良だった。