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剣友

 そんな暮らしを続けて半年が過ぎ、夏も終わろうという頃。

 いつものように暗くなる前に戻ってきた久秀は、珍しく新之助を風呂に呼び一緒に入った。

 外から湯加減を聞く咲良にも聞こえるように、久秀が声を出す。


「ちょっと江戸から離れることになった。早ければ二月、長くても三月ほどの予定だよ」


「どちらに行かれるのですか?」


 新之助の声が湯殿で響いた。


「ちょっと駿河までね。その間は咲良と新之助だけで留守番だ。できるかな?」


「はい。私は母上の言いつけを守って、必ず生きて父上のお帰りをお待ちします」


「うん、そうだ。必ず生きていなさい。そういえば稽古を増やすことは伝えた?」


 外から咲良が返事をする。


「柴田様からは了承のお返事をいただいております。追加のお礼をお渡ししたのですが……」


「受けない?」


「はい……旦那様からもお願いしていただけませんか」


「うん、わかった。明日は休みだから俺も一緒に行こう」


「ありがとうございます」


 久秀が『和ませ屋』を始めてから、咲良の耳には様々な噂話が届いている。

 いれ、どこそこの見世の大夫が入れ上げているとか、こっちの見世の大夫は夕方まで離さなかったとか、その手の話なら枚挙に暇がない。

 しかし咲良は全てを笑って受け流していた。

 自分を唯一の同志だと言った久秀を信じているからだ。

 そんな話が耳に入るたび、咲良は笑いながらこう言った。


「旦那様は大変お優しい方ですので」


 あるものは出来た妻だと咲良を褒め、あるものは騙されていると眉を顰める。

 しかし二人の中には絶対に成し遂げると誓った大義があるのだ。

 何が一番大切なのかを知っていれば、後のことは取るに足らない小事だと新之助に言い切った久秀の言葉を思い出す。

『生きてその日を迎えることだけに集中する』

 それさえできれば他はどうでも良いことなのだ。


「ん? どうしたんだ? 咲良」


 ふと振り返った新之助が咲良の方に手を伸ばした。


「いえ、なんでもございません。そろそろ袷を仕立てようかと考えておりました」


 追いついた咲良が新之助を挟むように並ぶ。


「ああ、もうそんな季節だね。早いものだな……気ばかりが急いて仕方がない」


 その言葉に頷きながら、ずっとこのまま三人で平和に暮らしたいと心のどこかで思っていた自分を恥じた。

 柴田道場につくと、新之助は着替えに向かう。

 咲良は手土産を妻女に渡すと言うので、久秀は道場の外廊下に座った。


「いらっしゃいませ」


 久秀に気づいた彩音が挨拶をすると、稽古を始めていた者たちも一斉に声をあげる。

 懐かしいと思いながら手を上げて挨拶を返していると、柴田が奥から出てきた。


「久しぶりだな。着流しが板についたもんだ。腕が鈍ったんじゃないか?」


 久秀が嬉しそうに笑った。


「打ち合いはしていないが、素振りは欠かしていないよ」


「久しぶりにやるか?」


「おっ! 良いねぇ。お前と手合わせするなど何年振りだろう」


 久秀はそのまま道場に上がり、作法通り神棚の前に正座した。

 その間に柴田は門人たちを壁際に並んで座らせ、よく見ておくようにと伝えている。

 着替えて入ってきた新之助は、彩音の隣に正座した。


「これを借りるぞ」


 壁に掛かっていた竹刀をブンブンと何度か振り、手ごろなものを選んだ久秀。

 二人は中央で蹲踞した。

 道場に流派特有の甲高い掛け声が響き渡る。

 互いにじわじわと動きながら隙を探しているのか、派手な動きは無いが途轍もない緊張感が漲っていた。


 柴田の妻女とおしゃべりをしていた咲良が異変を察知して道場を覗く。

 何事かと声を出そうとした妻女を手で制し、二人は正座して事の成り行きを見守った。

 竹刀の先が触れ合うような掠れた音が数度、先に打ち込んだのは柴田だった。

 スッと間合いを詰めて鍔迫り合いを挑み、押し返そうとする久秀の力を利用して面を打つ。

 しかし、そこは長年共に稽古をした仲だ。

 久秀も読んでいたようにそれを受けた。


「相変わらずじゃ」


「お主こそ」


 次に仕掛けたのは久秀だった。

 大上段からの流れるような胴打ちは、目にもとまらぬほど早い。

 まるで久秀だけが動いているようなその景色に、咲良は息をのんだ。


「まだまだ!」


 寸でのところでよけた柴田が挑発するように何度も声を出す。

 その声は、大きな鳥が襲い掛かってくるような錯覚をさせ、見ている者の恐怖心を煽る。

 ドンという踏み込みの音がして、二人の剣客がすれ違った。


「そこまで」


 声を発したのは柴田だった。

 久秀も柴田も肩で息をしている。

 中央で正座をし、互いに礼をした二人は、ほぼ同時に気を抜いた。

 道場の空気が一瞬で色を取り戻す。


「いやぁ、相変わらず鋭いな」


 柴田の声に久秀が破顔する。


「だめだな。鈍ってるよ。時々来るから稽古をつけてくれ」


「望むところだ」


 柴田は立ち上がり、弟子たちに稽古の再開を命じ、自身は久秀と一緒に縁側に座った。


「いやぁ、譲ってもらって助かったよ」


「何を言うか。お主の剣先の方が先に届いている。ほら」


 そう言った久秀が袂を広げて見せる。

 微かに擦ったような汚れがあり、麻の布地が少しほつれていた。


「それを言うならお主の方が深いだろ。ほれ」


 柴田は道着の脇を指先で示しながらお道化て見せた。

 紺色の道着に僅かだが竹刀の剣先にかぶされている皮の痕がある。

 それには返事をせず、久秀が声を落とした。


「なあ、柴田。あと三年である程度まで何とかしてくれんか。突きだけで良いから躊躇なく踏み込めるようにし仕込んで欲しいんだ」


「突き? あ……なるほど」


「刀は重たいからな。手首も鍛えておかないと。俺なんて今日久しぶりに腰に佩いたら体が傾いたような気になったよ。昔は逆だったのになぁ」


「進展があったのか?」


「いや、ガセネタに振り回されているだけだ。明日から三月ほど空ける。すまんが気にかけてやってくれ」


「今度は長いんだな」


 頷いて眉尻を下げる久秀。


「そういえば小耳にはさんだが、今度は河岸を大門の中に変えたそうじゃないか」


「はははっ! そりゃいいや。河岸もなにも俺はただボーッと生きてるだけなんだがなぁ」


「咲良さんを泣かせるなよ?」


「大丈夫だよ。あれはわかっているし、俺なんかよりよっぽど強い人だ」


「抱いたのか?」


「いや」


「なぜ?」


「俺は……たぶん死ぬからな」


 そう言うと、話は終わりだとばかりに久秀は空を見上げる。

 柴田はその横顔を見ながら心から惜しいと思った。


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