第3話 初めての味噌汁
「よし!」
朝、六時過ぎ。キッチンに修司の機嫌の良い声が響いていた。
鍋からは、ホカホカと湯気が漂っていた。今朝はフライパンでご飯を炊いてみた。ネットで見た方法を試したが、意外とこれはうまくいった。レンジでご飯を炊くのは失敗したが、ガスコンロで火加減を調整したら、意外にも上手くいった。キッチンには、良い香りが漂い、修司の表情は緩んでいた。大学教授時代は、ダンディなおじさまと生徒に言われていたが、その面影はない。紺色のエプロンに頭のは、三角巾。下はジャージ。少々情け無い格好だが、フライパンで炊くご飯がうまくいき、表情は満足していた。
「あとは十分ぐらい蒸らすだけだな」
ご飯を蒸らしている間、スーパーで買った卵焼き、ポテトサラダを小皿の盛り付ける。本当はこれも自炊した方が良いんだろうが、まだまだ自炊初心者だ。まずは、ご飯炊くというファーストステップを登れただけでも、修司は満足していた。
小皿の盛り付けが終わると、お湯を沸かし、インスタント味噌汁の用意をした。小袋に入った味噌を器に入れ、お湯で溶かすだけのものだ。
そうこうしているうちに、ご飯が蒸し上がり、茶碗によそう。ふわふわと優しい香りが湯気と混じりあう。
残った分の後は、ラップに包み冷凍庫へ。これで、明日の朝ぐらいまではあるだろう。このフライパンでお米を炊く方法は、意外と簡単だったので、毎朝炊き立てを作っても良いかもしれない。ずっと料理が失敗続きだった修司は、初めてご飯が炊けた成功体験に満足していた。
食卓に作ったものを全部並べ、写真に収めると、SNSにアップした。まあ。フォロワーは咲子しかいないアカウントだが、構わない。毎日作った料理をSNSで記録すると、ヤル気に繋がるというので、ゆるくやっていた。もちろん、毎日は記録していない。上手くできてと思った時に記録していただけだが、意外と楽しかった。
「いただきます!」
修司は、さっそく朝食を食べ始めた。ご飯にはふりかけをかけたが、炊きたてでモチモチした米だ。何もかけなくても美味しいだろう。炊きてのご飯は、別物のようにおいしかった。
そう言えば妻が作った朝食も、いつもご飯は炊き立てだった。当時は何とも思ってなく、当たり前の事としてスルーしていたが、今思うと大変な事だった。ご飯を噛み締めながら、妻の料理を思い出す。
「しかし、味噌汁は味気ないな」
妻が作った朝食を思い出そながら、味噌汁のしょぼさが目につく。インスタントなので仕方ないが、具材のワカメがしょぼい。味は普通においしかったが、妻が作った味噌汁はもっと具材がゴロゴロしていた。そう思うと、次は味噌汁を作るステップに入ったと思う。
朝食を食べおわった修司は、さっそく妻が残したレシピブックを開いてみた。味噌汁のレシピもたくさん書いてある。野菜、海藻はもちろん、ソーセージの入った洋風のものや沖縄風のレシピも書いてある。どれも手書きでイラストも丁寧に描いてあったが、出汁の取り方が書いていない。毎日料理をやっていた妻にとっては、省略するステップだったらしい……。
「うーん、困ったね」
修司はリビングの方へ行き、以前買ったレシピ本を見ていたが、出汁の取り方など基本的な事はさらっと省略してあった。塩少々とか、ひとつまみとか、お好みでというレシピ用語が全く意味がわからない。宇宙語に見える。
そうなったらネットで調べるしかない。削り節や昆布で出汁をとる方法が出てきた。何回かステップがあり、難しそうだ。しかし、元々プライドが高い修司はきこで負けるわけにはいかない。
今日はスーパーへ行き、出汁の材料を買う事にした。
・昆布
・削り節
さっそくメモ帳に書く。
それが終わったら、朝食の後片付けだった。
「おぉ、こびりついてるぞ」
お米を炊いたフライパンは、焦げた米がこびりつき、なかなか落ちなかった。簡単に上手く炊けたと満足していたが、思わぬ落とし穴だった。
「くそ!」
修司は、しばらく格闘しながらフライパンの汚れを落としていた。こんな後片付けが面倒だったとは。やはり、フライパンでご飯を炊くより、炊飯器を素直に使おうと心に決めた。
それが終わると洗濯、掃除と家事に追われた。庭には雑草がびっしりと生えていた。雑草を抜くだけでも汗が流れた。
こうして慌ただしく洗濯や掃除を終えると、近所のスーパーに向かった。開店十分前でも客が並んでいた。チェーン店でもない小さめな店舗だ。一階建てで駐車場も広くはないが、近隣の客が集まっているようだ。
「何か安いんですか?」
列に並びながら、目の前にいる主婦らしき女性に声をかけた。たぶん四十歳ぐらい。子供は連れていないが、化粧っ気もなく、大学教授時代では見たこと無いような人種で、思わず声をかけた。
「今日は、ニラが安いわ。私の家は今日はニラ玉にするの」
「へえ。ニラか」
「あなた学校の先生だったりする?」
探偵かと思うぐらい、主婦は鋭かった。
「大学教授やってたんです」
「あらあ、エリートね!」
女性は修司の肩をバシバシと叩く。いかにもおばさん臭い。確かにこんな人種は初めてあう。
「ニラは冷蔵庫の野菜室で保存しね。もやしは、タッパーに水入れて保存するといいわ」
「へえ」
「ベビーリーフなんかはビニール袋に入れて野菜室に入れるのよ」
待っている間、女性からは、野菜の保存法などを教えてもらい。メモ帳持ってくれば良かったと後悔するぐらい役立つ情報を教えてくれた。キノコは冷凍した方が栄養素が上がるらしい、白菜も黒点がある方が美味しいらしい。そうこうしている内にスーパーは開店し、客達は野菜売り場に流れていく。
元々だし汁の材料と昼食べる惣菜しか買う予定はなかったが、修司も客の流れを見ていると、野菜が欲しくなり、ついついニラを買ってしまった。
ニラ玉はハードルが高そうだが、とりあえず玉子もカゴに入れた。味噌汁にニラと玉子を入れたら良くないか?確か妻が残したレシピブックにもそんな味噌汁のレシピが載っていた。
無計画に見えたスーパーでの買い物だったが、意外と修司の頭は動いていた。
次は昆布や削り節を探す。玉子売り場から、それらを売っている場所を探そうとするが、どこにあるかわからない。
「すみません!」
玉子コーナーの近くにいた店員に話しかけた。しかし、店員を良く見ると、お隣さんの鈴木美加子だった。いつもと違うエプロン姿で店員をやっているとは気づかった。
「あら、修司さん。お買い物?」
「そうなんです」
「何探してるの?」
「味噌汁の出汁を取ろうと思いまして。昆布と削り節はどこに?」
そう言っただけだが、なぜか美加子は大笑いしていた。
「そんなわざわざ昆布や削り節から出汁とってる人なんていないわよ」
「えー?」
衝撃的だった。料理というと、出汁を丁寧にとっているイメージがあるのだが。
「味噌汁作るだけだったら、粒状の和風出汁、あとは出汁パックで十分よ。白だしでもいいしね。味つきの味噌使ってもいいじゃない?」
「そ、そんな」
修司の目が丸くなる。そんな裏技があったとは。手品の種あかしを見せられた気分だった。妻もおそらく出汁は、この手品を使っていたのだろう。だからレシピにその方法が書いてなかったのか……。
驚いている修司だったが、美加子に案内され、とりあえず支配の和風出汁をかごに入れた。顆粒だしと言われているものだった。
「まあ、栄養素を気にしたら、昆布と鰹節で出汁とった方が良いわ。でも、最初はこれで作ってみて、上手くいったら、次は出汁パックでやってみたら?」
「そうですね」
「何事もスモールステップよ。小さな成功体験を積み重ねましょうよ」
美加子に励まされてしまった。確かにその方が良いかもしれない。修司はプライドが高い。それゆえに高い目標を掲げがちだが、小さな成功体験の方が魅力的に見えた。
こうして、惣菜コーナーでコロッケを買い、家に帰ると、さっそく味噌汁を作り始めた。
妻のレシピを見ながら、まずニラを洗った。適当にざく切りをする。レシピにもざく切りろとしか書いてないが、この辺りは適当で良いだろう。余ったニラは袋のまま、テープで留め、冷蔵庫の野菜室へ入れた。
そして鍋を水を入れ、火にかける。
鍋の水が煮立つまで強火。顆粒だしも入れ、煮立つと同時に良いいもしてきた。たぶん、昆布や削り節よりは香りは落ちるだろうが、これでも悪くは無い。くつくつという音も悪くない。
煮立ったら中火にし、切ったニラを入れる。二分ぐらいたつと、玉子を一つ投入。玉子の白身が固まってきたら、軽くひっくり返す。このまま一分煮込んだ後、弱火にし、味噌を溶かす。おたまと菜箸を使って味噌を溶かすが、さすがにこの工程ぐらいはテレビで見た事があり、修司でも綺麗にできた。
味噌の良い香りに、修司の目も細くなってきた。
「できたか?」
ちょっと不安はあるが、香りも見た目も問題は無さそうだった。玉子を崩さないよう丁寧に器によそう。
あとはご飯を温め、スーパーで買ったコロッケを皿にもる。昨日買っておいたカットキャベツの余りを全部皿に投入。
ちょうどご飯も温まり、茶碗にもった。こうして昼ご飯の準備も完了。
さっそく食卓につき、写真をとる。今回はスーパーの惣菜を使ったので、SNSにあげるのは辞めておこう。
「いただきます!」
さっそく味噌汁から飲む。ニラと玉子の相性はバッチリだった。意外と味噌の甘さとも合う。柔らかく玉子をほぐし、黄身がトロッと溢れる。今日は惣菜の力を借りてしまったが、もっと具を入れれば、これだけでも食事になりそうだ。この味噌汁もご飯を入れて、ねこまんまみたいに食べるのも悪くなさそう。
「うーん、うまいな」
初めて作った味噌汁は、成功と言っても良いだろう。顆粒だしを使ってしまった事は、チートだったかもしれないが、味は全く問題はなかった。
そう言えば美加子は、「次は出汁パックを使ったら?」と言っていた。この様子だったら、出汁パックも使えそうだ。今日買った顆粒だしが使い終わったら、次は出汁パックだ。
次の目標も決まり、お腹も満たされ、修司の目はいつになく明るくなってきた。
「次は、どんな味噌汁作ろうかね」
食べ終わったら、妻の作ったレシピブックを開く。
ご飯と味噌汁が作れるというスキルをゲットした。基本的な事だが、これでようやく日本人としての必須スキルをゲット出来た気がした。