第2話 炊きたてご飯
「臭い、焦げ臭いわ!」
失敗した肉豆腐は、流しにぞんざいに捨てられていた。キッチンは、めちゃくちゃで、焦げ臭い臭いが漂う。
何事かとお隣の鈴木美加子がやってきた。美加子は、修司と同じ歳の未亡人だった。年金もあまり貰って居ないらしく、あとこちでパートをやっているらしい。それでも何故か悲壮感も無く、ゲラゲラと明るく笑っているような女性だった。大学教授だった修司にとっては、どことなく下品で苦手だった。こんな風のどかどかとキッチンに入ってくるのも、どうなんだろうと思ってしまう。
「修司さん、どういう事? 料理でもしようと思ったの?」
「そうなんだ。肉豆腐を作ろうとしたんだが」
「肉豆腐? これが?」
美加子は、流しに捨てられたソレを見ながら目を丸くしていた。プライドが高い修司は、料理を失敗したなんて、口が裂けても言えない。恥ずかしくて、思わず下を向きたくなってしまう。
そんな修司のプライドの高さは、美香子は敏感に感じ取り、とりあえず片付けを手伝ってやった。今はそうしてあげるのが、優しさだろうと思った。
「料理だったら、簡単なものから始めるのがいいわよ。私だって産後に職場復帰した時は、スモールステップで頑張ったわ」
「そうですか」
修司はキッチンを片付けながら、美香子に励まされていると感じた。恥ずかしくて仕方ないが、料理を失敗してしまった事実は消せない。大学教授時代は偉そうにしていたが、今は何もできない爺さんだと思うと、より恥ずかしい。思えば大学で研究していた日本文学や作家論など、何が生活に役立つのだろうかとも思い始めてきた。
しばらく無言でキッチンを二人で片付けていた。お皿やコップもダメにしてしまったのもあるが、仕方ない。妻が大事に使っていたものと思うと、罪悪感は刺激される。
「まず、ご飯から自炊やりましょうよ。おかずは惣菜でもいいじゃない。ご飯さえ一人で出来れば、自信がつくって」
すっかりキッチンが片付き、美加子さんはそう言い残して帰って行った。
確かにそれは、一理ある。修司はまず、白いご飯から自炊する事に決めた。プライドが高く人の言うことを滅多に聞かない修司にとっては、これでも大した成長だろう。
確かキッチンのそばにある食糧棚に、炊飯器が入っていた。使い方がわからず、妻が死んでから一度も使っていないものだった。確かに一人暮らしで、釜いっぱい炊くのは、コスパが悪い。
これでも修司はネットを使うのは、得意だった。ご飯の炊き方などを調べると、レンジで出来るらしい。100円均一でレンジ専用の一合炊き茶碗も売っているという。
さっそく修司は近所に買い物に行き、一合炊き茶碗と米を買ってきた。
ネットで書いてあるように米を洗う。しかし、洗っているうちに何故か米がボウルから溢れる。だんだんと面倒になってきて、ろくに洗わずに浸水させた。洗剤石鹸で米が洗えないかとも考えたが、さすがの修司でも、それは危険だと気づく。
三十分浸水させ、一合炊きの茶碗に移し替える。
「あれ? 水ってどれぐらい入れるんだ?」
ただ、濡れた手でスマートフォンを操作して調べるのも面倒で、水は適当に入れ、そのままレンジで温める事にすた。
時間を設定して、ボタンを押すだけだ。
「なんだ、楽じゃん!」
思わず口笛を吹きそうになった。あとはレンジで温めるだけだ。
しかし、五分が経過した頃だろうか。レンジから爆発音がし、中で水と米が溢れていた。
「あぁ、どういうことだ!」
今度こそ修司は、頭を抱えてしまった。レンジの中は悲惨で、片付ける気力も失せてきたが、このまま放置するわけにいかない。
これから、どうしようか。再び美香子を呼ぶのは、恥ずかし過ぎる。困った修司は、結局一人娘の咲子を呼んでいた。今日は土曜日の昼間だし、向こうも家にいるだろう。咲子は2年前に結婚し、車で二十分ぐらい離れた所に住んでいた。まだ子供は生まれていないが、旦那は単身赴任で海外で働いていた。恥ずかしいが、こうなってしまったら以上、仕方ない。改めて料理というか自炊は難しいと実感していた。さすがの修司もプライドは砕けてきた。
「は? お米が爆破?」
咲子は呆れながらも、家にやってきた。悲惨な電子レンジを見ると、盛大にため息をつく。
「お父さん、レンジでご飯炊くのって案外難しんだよ。炊き加減とか」
「えー? そうだったんかい?」
「そうよ」
咲子は呆れながらも、レンジを手際よく片付けた。まだ二十代後半の咲子が、急に頼もしく見えてしまい、修司は再び恥ずかしくなってきた。
「お父さん、ご飯ぐらい炊けるようにしよう。おかずは、市販のものでいいから」
それは美香子も言っている事だった。
「ご飯さえたければ、サラダ、味噌汁、カレーとか市販のもので乗り越えられる」
「でも、塩分が。身体に悪く無いか?」
「栄養バランスは、もう少し慣れた頃からやろうよ。ご飯さえ炊ければ何とかなるよ。一人で頑張ろう。もうお母さんはいないんだよ」
完全に娘と父という立場は逆転していた。キッチンで二人で立ち、米の測り方、洗い方を咲子から教えて貰う。
ボウルに米と水を入れ、優しくかき混ぜ、水を捨てる。それを数回繰り返し、最後にザルに米をあげ、水気を切った。咲子は米の研ぎ汁は洗い物に使えると、桶に溜めておいた。
「そんな落ちるのか? 研ぎ汁で?」
「お母さんが言ってたからね。主婦の知恵だよ」
修司は全く知らない世界だった。大学教授時代は聞いた事もみた事もないトピックだった。こうして米を浸水させ、炊飯器の釜に移し、水をいれ、ようやく炊飯器のスイッチを入れられた。
炊き上がったら十分蒸らし、ようやくお米が炊き上がった。
気づくとキッチンから見える窓の外は、夕方になっていた。米が炊ける良い香りに、修司は目を細めていた。
「しゃもじに水つけて。それからご飯よそって、お父さん」
「ああ」
咲子に言われた通り、しゃもじで米をすくい、茶碗によそった。
ようやくホカホカの炊き立てご飯が完成した。余ったご飯は、一食ずつラップにくるみ、冷凍保存した。
ご飯を炊くだけだったが、かなり長い道のりだった。おかずは鯖缶、インスタ味噌汁で良いだろう。ご飯の上に生卵と醤油をかけ、食べる事にした。咲子と一緒に食卓につき、久々に親子での食事だった。
あれだけ苦労して炊いたご飯は、ツヤツヤでもちもちで美味しい。咲子と二人であっという間食べてしまった。
「うまい。ご飯がちゃんと出来れば、他のおかずも自分で作りたくなるな」
「でしょう? ご飯さえ出来れば大丈夫。もうお母さんはいないんだから、一人で料理ぐらい作らないとね、お父さん」
ご飯はおいしかったが、もう妻がいない事を実感し、少し泣きたくなってきた。
「これ、お父さんにプレゼント」
「なんだ?」
咲子はカバンから、一冊のノートを取りだし、修司に渡した。ノートの表紙には、「レシピ帳」とある。妻の文字だった。
「嫁いだ時、お母さんから貰ったの。主婦業でずっと纏めていたノートみたいね」
「おぉ」
修司は関心しながらノートをめくる。家庭料理のレシピが纏めていたが、妻のコメントも綴られていた。どれも「修司さんが喜んでくれた」とか「咲子も残さず食べてくれた」という喜びに満ちたコメントばかりだった。修司もよく覚えているレシピもあり、鼻の奥が痛くなってきた。もう、妻の料理は食べられない事実をどうしても実感してしまった。
「ここにあるレシピ作ってみたら?」
「でも難しくないか?」
「後ろの方のページは、私が料理初心者の時に作ったものだし、案外できるよ」
咲子は修司を安心させるように笑っていた。完全に親子関係が逆転し、修司は肩をすくめてしまう。
「お父さん、次は、味噌汁だよ。ご飯と味噌汁があれば、どうにかなるわ」
「そうか」
「うん」
咲子は、レシピ帳を残して帰って行った。妻が残したレシピを再び見ると、また彼女の料理が食べたくなってきた。
そう言えば、妻には料理のお礼など数回しかした事ない。いつも当たり前だった。味や量について文句を言った事も少なくなく、再び泣きそうになってきた。自分で料理を作る前は、簡単な事だと侮っていた。
「ごめん、悪かった」
妻の笑顔を思う出しながら、つぶやいていた。そうだ、もう妻はいない。しかし、このレシピを再現する事はできる。
「自炊、頑張ってみるよ」
誰とでもなく、宣言した。妻がいない事は寂しいが、新たな目標ができた。
このレシピを再現しよう。また、失敗するかもしれないが、もう修司の中にはプライドはなかった。失敗しても悪く無い。チャレンジする方が大事だ。
「よし!」
前向きになったところで、茶碗や箸を洗う。いつもだったら面倒だったが、今はヤル気にみちていた。