第12話 推しパクチー
今日の朝刊、スーパーのチラシがたくさん入っていた。朝食の後片付けを終えた修司は、チラシを一枚一枚チェックしながら、安い食材を探していく。
せっかく自炊や節約も続けている。ここで辞めてしまうのは悔しい。毎朝のチラシチェックも日課になりつつあった。もっともチラシに載った安い食品だけをピンポイントで買うには難しく、スーパーの戦略にまんまと乗っているわけだが。
「お? 業務系スーパーがオープンだと……?」
ふと、一枚のチラシが目に止まった。近所に激安で有名なスーパーがオープンとある。しかも今日オープンで各種セール中とのこと。納豆やうどん、厚揚げなどがスーパーより三割ぐらい安く、思わずチラシを見つめてしまう。今日はこの激安スーパーの行こう。激安だけあり、ポイントカードなどのサービスは無いようだが、安いに越した事はない。
さっそく買うものをメモし、家事を終えた激安スーパーに足を運んだ。一見倉庫のような建物のスーパーで商品も床に無造作に積み上げられていたりするが、多くの客で混み合っていた。
売っている商品も普通のスーパーと少し違う。冷凍食品はほぼ中国製、調味料やお菓子も外国のものが多く、なんだか異国情緒みたいな怪しい雰囲気も漂っている。子供は外国のお菓子を見て嫌がったりしていたが、値段は安く、修司も手に取ってみてみる。
イギリス製のクッキーやグミは意外な事に無添加で材料もシンプルそのものだった。この歳になっクッキーやグミを買うなんて恥ずかしいとも思ったが、値段の安さに惹かれてカゴにイン。
他にも外国の天然塩やオイルサーディンなどもポイポとカゴにイン。予定外の買い物だが、値段の安さに気も緩む。
「何だこれ、米粉麺か?」
麺類のコーナーに行くと、パスタの安さに目が丸くなる。その上、タイ製の米粉麺もかなり安く、心が揺れる。
米粉麺なんて食うか?
一旦水につけて戻して茹でるのも面倒そう……。それでも値段の安さや物珍しさに負けた。パスタとどっちを買おうか迷ったが、結局米粉麺をカゴにイン。
スーパーの袋いっぱい日本買い物してしまったが、千円ちょっとしかかからなかった。レシートを確認したが、間違いではない。騙されたような気分だが、安く買えたのだから悪くないはずだ。
ただ、この激安スーパーは生野菜がほとんど売られていないのが欠点だった。カットキャベツは売られていたが、人参や玉ねぎ、じゃがいもなどは置いていない。冷凍野菜でも良かったが、せっかく自炊をやっているのだから、そこは頼りたくない妙なプライドがあった。
二度手間だとは思ったが、いつも使っているスーパーへ出向き、野菜を買うことにした。激安スーパーの攻略法は、もう少し練った方が良いかもしれない。
せっかく米粉麺を買ったので、フォーでも作ってみようか。スーパーの野菜コーナーの隅にありハーブコーナーを見てみると、パクチーが売られていた。確かフォーは妻のレシピブックでもあったし、作れない事は無いだろう。妻はなぜか素麺でフォーを作っていたが、今日は米粉麺を買ってある。ちょっと優越感も持ちながら、レモンも買い、自宅に戻る。
買ったものをとりあえず冷蔵庫にしまい、手を洗い、エプロンをつけて、さっそく昼ごはんを作る事にした。
まず米粉麺を先に水につけておく。その間にレモンやパクチーを切ったり、スープを作った。パクチーの匂いが強烈だ。嫌いな人がいるのもわかるが、修司は嫌いではなかった。
妻が生きていた頃、食欲不振や胃の調子が悪くなった時、パクチーを食べたら調子が良くなった。妻によるとパクチーは、消化促進や胃にも悪くないハーブらしかった。お陰で修司にとってパクチーは健康に良い食べ物という印象だった。まあ、癖が強いハーブなので嫌いな人がいるのも理解できる。
その後、米粉麺をゆで、スープに盛り付ける。トッピングにどっさりとパクチー、レモンも飾る。こうして見ると、日本にいる気がしなくなってきた。パクチーの独自の香りを感じながら、心はベトナムやタイにトリップしていた。もっともベトナムやタイには行った事はないので、修司の頭の中での妄想だったが。
さっそく食卓に出来上がったパクチーを持っていき、食べる事にした。まず、櫛形のレモンを絞る。パクチーとレモンの香りが混ざり合い、さらに修司の脳内はベトナムやタイにトリップしていた。
「いただきまーす!」
こうしてフォーを食べ始めたが、パクチーとレモンの香りに多幸感に包まれていた。確かに独自の香りだが、この香りを嗅いでいると健康になれそうだった。
「うま!」
米粉麺はつるりと滑らか。スープもあっさり鶏だし。ちょっと食べるだけでも癒しと健康が同時に手に入りそうだった。
「うまー」
修司の表情もとろけていた。パクチーが嫌いな人間なんて人生の半分を損してる。その上、消化や胃にも良いなんて、食わず嫌いはもったいない。
その翌日、すっかり気分を良くした修司はゴミステーションの掃除当番も頑張ったこなしていた。そろそろ梅雨が近づき、暑くなってくる頃合いだったが、昨日食べたパクチー効果が続いていた。
ご機嫌で掃除をしていると、近所に住む美加子から声をかけられた。今日もジョギング姿でランニングにでも行くらしかった。
「ちょっと、修司さん。あなた、少し変な臭いがしない?」
「え、そうですか?」
てっきり生ゴミの匂いかと思ったが、美加子はパクチー臭いと言い始めた。
「私、パクチー苦手なのよね。カメムシの臭いしない?」
そう言われてみれば、カメムシの匂いとも言える。パクチー入りのフォーで気分良くなっていた修司だが、こんな所にアンチがいるとは。
「まあまあ、いいじゃないですか。人の好みは人それぞれです」
「そうだけどねー。嫌いなものは、嫌いなのよ」
意外だった。美加子は何となく圧が強いし、怖いもの知らずだと思い込んでいた。
「そんな私だって苦手なものとか、人はいるわ」
「え、人も?」
それも初耳だった。
「ええ。羽田さんとかね……」
羽田瑠美は、最近近所に越してきた未亡人だった。確かに髪の毛は薄紫に染め、ちょっと占い師のような外見だった。最近越してきたばかりなので修司はよく知らないが、美加子は苦手意識を持っているようだった。
「まあ、私だって苦手なものはあるわよ。じゃーね!」
美加子はそう言い残し、ジョギングに行ってしまった。
あの気が強そうな美加子が嫌う羽田瑠美とは、どういう人間なのだろうか。修司は少し気になってきた。
そんな事を考えていたせいだろうか。スーパーからの帰り道、近所の公園に瑠美がベンチに座っているのが見えた。小さな公園で遊具も少ない公園だったが、木陰もあり、少し休憩するのにピッタリな場所だった。
一人でベンチに座っている瑠美は、少し頬が赤くなっていた。ハンカチでおでこを拭っていて暑そうだ。今日は曇りの日で、そんな暑くは無いはずだが。
「瑠美さん、こんにちは」
思わず声をかけてしまった。
「あ、こんにちわー」
瑠美は挨拶すると、ため息をついていた。修司は瑠美の隣に座り、雑談でもする事にした。理由はわからないが、何となく気になってしまった。髪の毛を紫に染め、どことなく癖の強そうな人物だが、一人で公園に座っている姿は、悪い人には見えなかった。凛子の件もある。一方的によく知らない人を嫌うのは、人として違う気がした。
「一人で散歩ですか?」
「ええ。病院の帰りよ」
「どこか悪いんですか?」
「実はねー」
瑠美は更年期障害があり、体調が悪いのだという。メンタルも悪化し、ご近所に住む美加子にも冷たい態度をとってしまったと告白。道理で美加子が瑠美に苦手意識を持っていたわけか。理由がわかり、ホッとする。やはり、単に癖の強い人ではなさそうだった。
公園には若い母親と子供が入ってきて、少し賑やかになっていた。
そういえば妻のレシピブックには、パクチーは更年期障害に良いとメモが書いてあった事を思い出す。胃や消化にも良いが、女性ホルモンを調節する栄養素もあったと記憶していた。
余計なお節介かとも思ったが、瑠美にパクチーの事を伝えた。
「えー、パクチーですか。癖が強いですよ」
「まあまあ、騙されたと思って一度食べてみてくださいよ。私もパクチー食べて、胃や消化によかったですから!」
パクチーを推している修司の熱意に押され、瑠美も一度試して見ると言っていた。
「確かにそうね。食わず嫌いはもったいないかもしれない」
「そうですよ、意外と美味しいですよ」
「あなたやけに詳しいわねぇ。自炊でもやってるの?」
「ええ」
瑠美とは料理のことで盛り上がってしまった。瑠美はお菓子作りが好きでクッキーや蒸しパンなどのレシピを教えて貰う。
そんな風に盛り上がっていると、瑠美への誤解もすっかり解けてしまった。
後日、瑠美と美加子が一緒にジョギングしている姿を見かけた。
瑠美は更年期障害の症状も落ち着きはじめ、美加子とも誤解が解け、仲良くなったらしい。
「勝手に食わず嫌いしてたわ。よく話すと瑠美さんも悪い人じゃなかった」
珍しく美加子はしゅんと反省していた。そんな美加子を見ていると、修司は思わず苦笑してしまう。
「パクチーも食わず嫌いかもしれませんよ。実はパクチーの栄養素は……」
ここぞとばかりに修司は、美加子にパクチーを推しまくってしまった。気分は営業マンのように推す。営業職なんて経験はないが、推していると楽しい。癖が強く嫌われもののパクチーだからこそ、推すのが楽しい!
「そうね、一度ぐらいは試してもいいわね」
いつになく熱心にパクチーを推す修司に美加子も苦笑していた。