第1話 お父さんの事情
松宮修司は、とある女子大で英文学を教えていた。ダンディな教授として人気もあったが、年齢の事もあり、引退し、年金生活に入った。
娘は成人し、自立していた。夫婦二人で、ようやく老後生活を送るつもりだったが、去年、妻が亡くなった。病気であっという間の出来事だった。
それからは大変だった。
修司は一人暮らしをした事はなく、大学卒業後に妻と即結婚した経緯があった。とにかく家事が全くできない。物がどこのあるのかも分からない。長年妻に家事を押し付けていた結果だったので、仕方がない。他人のせいにもできず、しばらく家事と格闘していた。
一人娘の咲子にサポートして貰い、どうにか掃除や洗濯はできるようになった。
問題は料理だった。修司のスキルではとても自炊はできない。カップ焼きそばすら作れない有様だった。
掃除や洗濯はどうにか出来るが、料理だけは、どう頑張っても出来ず、自然と外食やコンビニ、スーパーの惣菜に頼るようになってきた。
最初はそれでも問題無いだろうと思っていた外食やコンビニもそこそこ美味しいし、味に関しては不満はない。むしろ、食後の後片付けもないのが便利だった。自分と同じような高齢者がコンビニで惣菜を買っていると「同志よ!」と握手したい気分になり、全く問題無いと思い込んでいた。
ただ、そんな不健康な食生活は長くは続かなかった。
夕食時、スーパーで買った唐揚げとメンチカツを食べ、缶ビールを啜っている時、突然胸の痛みに襲われた。
「うぅ、気持ち悪い!」
胸だけでなく、胃もキリキリと痛みはじめ、座っている事も出来ない。
恥だと思ったが、救急車を呼んだ。昭和生まれで、大学で教授をやっていた修司にとっては、誰かに頼るのは恥だと認識していたが、命には変えられなかった。
死ぬかと思ったが、命には別状はない。胃の病気でしばらく入院する事になり、主治医に怒られて。
「お酒もしばらく禁止ね。あと、野菜もしっかり食べて、自炊しなさい。運動も出来ればやってね。というかやりなさい」
そうは言っても、今更自炊なんて……。
「お父さん、一人分の食事ぐらい、自分で用意しなよ。不摂生なんてダメじゃん」
一人娘の咲子にも怒られた。大学教授だった修司のプライドは、ボロボロだった。ご自慢のグレイヘアも、病気とストレスで酷い有様だった。
それに料理なんて女のする事だ。どちらかといえば、男尊女卑思想の修司は、料理なんて恥ずかしい。
それでも自炊をしなければならないようだった。退院後、山と出された薬を見ながら思ったりする。
「ふ、料理なんて簡単さ」
プライドが高い修司は周囲に強がっていた。
「っていうかお父さん、ご飯炊ける? 炊飯器の使い方、教えてあげようか?」
咲子の忠告も無視し、書店で料理本をたくさん買い、さっそく料理をする事にした。
「何、大丈夫さ!」
修司は、そう胸を張る。さっそく料理本を見ながら、肉豆腐を作る事にした。
「あれ? 調味料はどこだ? うん? なんだ?」
しかし、修司の買った料理本は初心者向けでも、一人暮らし用でもなかった。
「なんだ、どうしてこうなるんだ???」
強火で温められた肉豆腐は、鍋にこびりつき、焦げ臭かった。豆腐もボロボロに崩れ、原型を留めていなかった。
結果は、大失敗だったが、修司は何が悪いのかわからなかった。簡単に見える料理も舐めていたのだが、その事すら全く気づいていなかった。