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甘えて下さいませ、旦那様

作者: 樫本 紗樹

「只今戻りました」

「おかえりなさいませ」


 今日も旦那様は不機嫌そうに見えます。毎日お仕事お疲れ様です。


「夕食は鴨肉のコンフィですよ」


 そろそろ疲労が溜まってくる時期ですからね。料理人にお願いして旦那様の大好物を用意して貰いました。あら、予想外に旦那様の表情が晴れません。


「そうですか。夕食の前に少し話をしたいのですが」


 あらあら。これはとてもお疲れですね。私にとってはご褒美ですが、それは内緒です。


「わかりました」


 旦那様の表情が不機嫌極まりないままなので、使用人達がそわそわしています。ここは大丈夫ですよと微笑んでおいてあげましょう。そして心配せずに持ち場に戻って欲しいと目配せも。せっかくの機会を邪魔されては困りますからね。


 旦那様は上着を執事に預けて歩いていきます。旦那様のお部屋でお話ですね。えぇ、二人きりでないと困りますもの。思わず微笑んでしまいそうですが、使用人の前なので無表情を取り繕いましょう。旦那様は気難しい事で有名です。その妻が夫を軽んじているなどと思われてはいけませんからね。


 旦那様は部屋に入られるなりソファーに腰掛けます。使用人がうっかり開けたりしないように静かに鍵を閉めておきましょう。

 振り返ると旦那様は腕を広げています。あぁ、可愛いですね。これは応えなければいけません。

 旦那様に近付くと腕を引っ張られてしまいました。あらあらあら。本当にお疲れなのですね。旦那様を跨ぐような形になってしまいましたけれど、抱きしめられてしまったので身動きが取れません。

 旦那様が顎を私の肩に乗せているので表情はわかりません。少しでも表情が和らいでいるといいのですけれど。


「殿下が視察に行くと言い出しました」

「いつからでしょうか」

「五日以内には出立したいそうです」


 旦那様の不機嫌の原因がわかりました。いつも思い付きで出掛けられる王太子殿下には困ったものです。その手配をするのは側近である旦那様の役目。ただでさえ予算案をまとめるのに忙しい時期ですのに、これは大変です。


「貴女と離れたくありません」

「遠方なのですか?」

「片道三日の距離です」


 それは私も寂しいです。そして心配です。旦那様はこうして私に甘える事で息抜きをされていらっしゃるので、視察中の周囲の方々が不憫でなりません。間違いなく八つ当たりをされますね。ですが、王太子殿下の視察旅行に私がついていくわけにも参りません。


「貴女を連れて行きたいです」

「私も離れたくはありませんけれど、致し方がありません」


 もし同行を許可されとしても行きませんけれども。この可愛い旦那様を見る事が出来るのは私だけの特権なのです。誰にも知られたくありません。それに、万が一王太子殿下に見つかるような事があれば、間違いなく揶揄われます。最悪嫌がらせで仕事量が増やされ、帰ってこられなくなるかもしれません。それは非常に困ります。

 王太子殿下も御結婚されれば宜しいと思うのですけれど、周辺国との関係性を考えると難しいそうです。だからと言って旦那様の結婚を妬んでいい事にはなりませんけれど。


 と、考えていたら私を抱きしめていた旦那様の手の動きが怪しくなってきました。まだ夕食前です。このまま流されてはいけません。


「旦那様、夕食は鴨肉のコンフィですよ」

「それは聞きました」

「料理人が腕によりをかけた逸品です。私はお腹が空きました」


 旦那様の手が止まりました。旦那様も空腹を思い出してくれたでしょうか。私は旦那様と触れ合いたくないわけではありません。むしろ触れ合いたいです。ただ、夕食と入浴を先に済ませたいだけなのです。

 旦那様が顔を上げられたので、視線を合わせて無言で訴えてみます。旦那様の表情は不機嫌そうですが、先程とは種類が違います。私は拒否などしていませんよ、わかって下さい。そもそも食事は大切です。旦那様が栄養失調で倒れては、私が悲しむと思い至って下さい。


「そう、ですか」


 旦那様の歯切れが悪いです。余程お疲れのようです。大好物より私を求めて下さるのはとても嬉しいのです。それでも、空腹のままではいけません。


「続きは夕食と入浴を終えた後、寝室でしましょう」


 旦那様に伝わるように微笑みます。あぁ、少し旦那様の表情が和らぎました。伝わったようで嬉しいです。旦那様は頷くと私を立ち上がらせてくれました。文官なのに力があるのが不思議です。以前尋ねたら、王太子殿下の側近は体力が必須なのだと不機嫌そうに教えてもらいました。今回のように突発的な視察に対応するには必要という事でしょうか。

 とりあえず夕食にしましょう。私も夕食後が楽しみです。




 わかっていました。わかっていましたとも。


 旦那様は多忙で、最近お戻りが遅かったのです。空腹が満たされて、入浴で気分がすっきりすれば睡魔に襲われるのは当然です。私の入浴時間が長かったのもいけなかったのでしょう。しかし先に旦那様にお湯を使って頂くのが道理ですし、私も入念に磨きたかったのです。


 旦那様が安らかな寝顔なのがせめてもの救いでしょうか。いえ、あまりにも安らか過ぎてむしろ不安です。このまま永眠されては困ります。

 あぁ、大丈夫でした。旦那様の胸から鼓動が聞き取れます。せっかくですからこのまま、旦那様の鼓動に耳を傾けて眠りましょう。素敵な旦那様と触れ合っていたいと思うのは、はしたなくはないはずです。


 しかし昔の私は本当にいい仕事をしました。

 優秀だけれどいつも不機嫌な同僚がいる。誰かいい人が居るといいのだけれど、という兄の言葉を私は素直に受け止めました。そして兄に紹介されて一目でこの方だと思ったのです。


『お仕事は大変でしょうけれど、私は貴方を支えたいのです。甘えて頂ければ嬉しいです』


 世間知らずな私の言葉を旦那様が受け止めてくれたのは奇跡です。兄の存在が多少役に立ったのかもしれません。兄も優秀な王太子殿下の側近ですから、断って関係が悪くなるのは困ると思ったのかもしれません。

 それでも何度もお会いするうちに徐々に心を開いて下さって、今では私の前でだけ甘えて下さる旦那様。このような素敵な方を紹介して下さった兄には頭が上がりません。

 兄にも働きやすくなったと感謝されていますが、私は自分の気持ちに正直に生きているだけですので、感謝は不要です。それでも感謝をしているのなら旦那様の仕事を請け負って欲しいのですが、それは断られました。兄が忙しい事も知っていますので、仕方がありません。


 旦那様の鼓動が心地よいです。こうして毎晩眠りにつきたい所ですが、暫くお預けになります。その寂しさはとりあえず忘れて、今夜は幸せな気持ちで眠りにつきましょう。




 あぁ、至福の時間というのは過ぎるのが早いですね。夜が明けてしまいました。旦那様の温もりを常に感じていたい所ですけれど、そういう訳には参りません。


「おはようございます」


 目の前には少し気まずそうな旦那様の表情。わかりますよ、先に眠ってしまった事を後悔されているのでしょう。しかし仕事の為には体力が必要です。睡眠時間は本来削ってはいけないのです。


「おはようございます。昨夜は申し訳ありません」

「いいえ、旦那様がゆっくり休めたのなら問題ありません」


 旦那様の健康管理は妻である私の大切な役目です。そもそも旦那様の健康は最重要事項です。万が一過労で旦那様が倒れられたら、私は何を楽しみに生きていけばいいのかわからなくなりますから。

 しかし旦那様の表情は晴れないままです。不機嫌そうではなくなりましたが、このままではお仕事に集中出来ないでしょう。


「まだ早いですから朝食前に散歩を致しましょうか。お庭の薔薇が見頃ですよ」


 この家の庭園は素晴らしいので、出来れば旦那様と一緒に観賞をしてみたいと思っています。しかし旦那様はあまり乗り気ではなさそうです。そうですね、散歩では旦那様の希望は叶いませんから。私は旦那様が甘えてくれれば喜ぶのですけれど、どうも旦那様は未だに遠慮がちです。それも可愛いのですけれど。


「貴女が望むのならそうしましょうか」


 どこか残念そうに言われて私が喜ぶと思っているのでしょうか。旦那様は私の愛を軽く見過ぎだと思います。


「私は常に旦那様が甘えて下さる事を望んでいます」


 旦那様の瞳の奥が揺れています。欲望と理性が争っているのでしょうか。正直夫婦の寝室で理性は不要だと思います。夜でなければいけないという訳でもありませんから。


「私は貴女に甘えすぎて、いつか嫌われたりしないでしょうか」

「私は旦那様に遠慮される方が嫌です」


 旦那様は甘えすぎだと言っていますが、私からしてみれば全然足りません。もっと甘えて下さっていいのです。そう何度もお伝えしているのに、どうにも伝わらないのがもどかしいです。真面目に自分を律して生きてこられた方ですから、仕方がないのでしょうけども。


「今から、その。触れ合ってもいいのでしょうか」

「勿論です。愛を語らいましょう」


 旦那様の迷いがなくなるようにと笑顔を向ければ、旦那様も笑顔を返してくれました。久しぶりの笑顔が素敵です。その笑顔に再び惚れ直してしまいます。この方の妻になれて私は本当に幸せ者です。

 幸せそうな旦那様の顔が近付いてきました。瞳を閉じれば唇が重なります。これからより幸せな時間を過ごせると思うと胸が高鳴ります。視察旅行までは毎日こうして触れ合う時間を作りましょうね、旦那様。

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