第二話 記憶(前編)
少女はジオフロントにしてはやけに清潔で綺麗な家に入ると、「ただいま」と言った。
「あら、お帰り。学校で何かやってたの? ずいぶん遅かったわね」と台所の方から母親の声がした。
「何でもないよ」と言って少女は自室へ入る。電気もつけないで、銃の入ったケースを床に置くと、ベッドに体を投げ出すように寝転んだ。
私は長時間かけて地上の学校に通っている。地下には学校がないから仕方ない。
まだ何もしてない、準備の段階なのにこんなに疲れるなんて。
腕を額に当てながら、ぼんやりとこれからのことを考える。だんだん気持ちが暗くなってくるのがわかる。私にあなたがいれば……。やがて少女は寝息を立て始めた。
それは夢の中の出来事だった。それに過去の記憶でもあった。
少女はぼろ布を着ていてまだ幼く。ひとりぼっちだった。このころは空気が有毒だったため、よく咳をしていた。家族も仲の良い友達もいなかった。ただ学校のようなところで衣食住の面倒を見てもらっていたが、お世辞にも良い環境とは言えなかった。
当時は竜と呼ばれるモンスターが地下都市を荒らしており、都市が業火の炎に包まれるのを少女も目撃した。
竜は西洋のおとぎ話に出てくるような姿をしていた。爬虫類に似て緑色で、大きな羽があり、固い鱗に覆われている。
ジオフロントは、地上との行き来に使うエレベーターを兼ねる超巨大ないくつもの柱によって、大きな洞窟のようになっており、その空間を竜は自由に飛び回るのだ。
でもある日、竜が都市を襲って金銀や食糧をさらって行った時に、誰にも助けてもらえず逃げ遅れた少女は何故か竜に連れて行かれた。
飛びながら少女を優しく掴む竜の前足に、恐怖と同じくらいの安心感を何故か感じていた。空高くから見下ろす地下都市は、自分が地上にいるときには考えられないくらい綺麗だった。家々の光を見下ろす少女の髪の毛は強風で乱れていた。でも、そんなことは気にならないくらい気持ちが良かった。今までの生活とはおさらばして新しい人生が待っている。竜に連れ去られるという絶望的な状況なのに、心は空高く舞い上がっていた。
不思議なことに少女は竜とともに過ごすようになった。
パイプとダクトと謎の機械が入り乱れた廃工場が竜の住処だった。
とぐろを巻いて座る緑色の竜の肌は鱗で覆われていて、冷たいのかと思いきや手で触ると温かかった。
竜は知性のある生き物で、地下の廃墟をうろつきまわっているモンスターとは一線を画す存在だった。
このとき既に、少女は竜に対してこれまで感じたことのない感情を持っていた。それは頼りになる大人に対する尊敬のような感情だった。
「ねえ、なんで都市を襲うの?」少女は疑問に思ったことを竜に尋ねた。
少女の何百倍も大きさのある竜は黄色い目を少女に向けた。
「生きるためだ」
「人と一緒に生きることはできないの?」
少女の純粋な質問に竜は口から息を吐く。その息は竜が集めてきた宝石と金をいくつか吹き飛ばした。
「私にはかつて人類にほぼ根絶やしにされるまで栄えていた竜族としての誇りがある。それに金を集めるのは自分の意志でやめることのできないことなのだ」
「そうなんだ。他の生き物と一緒にいられないって悲しいね」
「そうだな」
竜の黄色の目に映っていたのは、ぼろ布に代わり竜が奪ってきた白いドレスを着た少女の姿だった。
それまでひとりぼっちだった少女にとって竜は良い話し相手であり、竜はよく物語を聞かせてくれた。しかし、そのどれもが悲しい結末ばかりを迎えるので、少女は物語を改変し、幸せな結末に作り替えた。少女が物語の結末を変える度、竜は鼻から息を吐き、表情は読み取れなくとも喜んでいるだろうことが少女にはわかった。
少女は竜に一度聞いたことがある。何で私を襲わないのかと。
その答えとして竜は、たわむれだと言ったのみであった。
たわむれなら竜の気が変わるかもしれない、でも竜と長い時をかけて交流を深めてきた少女にとって、そんなことはないと確信するほど、既に竜を信頼していた。
竜は少女の頼み事を何でも聞いてくれた。有毒な空気から幼い体を守る空気清浄機を真っ先にどこからか持ってきてくれた。美味しい物を食べたいと言ったら必ずどこかへ出かけて行って何か持ってきてくれた。それが美味しいかどうかはその時々だったが、竜の気持ちは嬉しかった。ただ、外へは絶対に出してくれなかった。
竜と過ごす日常はどれくらい続いたか少女にはわからなかった。
でもある日、終わりがやってきた。
三人の勇者が表れたのである。
ぽっかりと天上の空いた廃工場の最奥の鉄扉を開けて三人の武装した人間が現れたのである。幸せな時間が音を立てて崩れ去ろうとしていた。
「ついに住処を突き止めたな」中年の男がライフルで竜に狙いをつけながら言う。
「真由美、サポートは頼んだ」レーザーソードと盾を構えた若い男が言う。「俺はあの少女を救う」
人間たちの行動は早かった。竜は少女を侵入者から守ろうとして行動が遅れた。
杖を持った真由美と呼ばれる女性は頷くと、何かを小声で唱え始めた。同時に銃声がした。竜が耳をつんざくようなうめき声をあげて、身をよじった。そのとき、意図せず、のたうち回る竜の尻尾が少女を薙ぎ払い、体が宙に飛んだ。衝撃で骨がいくつか折れたかもしれない。空中に放り出された少女を黄色い目で見た竜は怒り狂って炎を人間たちに向かって吐き散らしたが、すぐに我に返って少女を受けとめようと飛び出した。
だが、投げ出された少女の体を抱きとめたのは若い男だった。
その時から、竜は抵抗をすることがなくなった。ただライフルで撃たれ魔法に苦しめられ、レーザーソードで鱗ごと焼き切られた。
竜は穴だらけ切り傷だらけになり、息絶えた。
息絶える寸前に、何とか聞き取れた小さな声で、これで良かったのだと言ったように少女は聞こえた。
これで良いなんてことあるものか!
痛みに意識が遠のきながら少女は思った。絶対にかたきを取ってあげる。あいつの、名前のない竜の!
レーザーソードで焼き切られた竜の傷口から肉の焦げるこおばしい匂いがする。
「薫! ごはんよ」
母親の声と同時に肉の焼ける匂いが居間から漂ってきた。
薫と呼ばれた少女は全身汗まみれになりながら目を覚ました。
夢か……。
嫌な夢を見た。でもこれからやることを考えると決意が固くなった気がする。
薫はベッドから起き上がった。