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ヨリデュインの人魚の歌  作者: 猫洞 文月
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 伯父たちになんと言ったらいいのか、夜になってもノルスは思いつかなかった。話せば止められるに決まっている。ここに来てから幾度、夜の海は危険、知らない女の子には気をつけろと言われたことか。まして魔物の世界へのいざないである。自分だって誰かが行くと言えば止めるだろう。

 じっとノルスは伯父たちの会話を聞きながら黙って考えていた。そして日が暮れる前に、宿の周りをぐるりと見回ってみた。

 泊まっている部屋は三階。下の階にも窓があり、上の窓に手をかけて下の階の窓枠に足を載せれば抜け出せないことはなさそうだ。飛び降りるところはすこし狭いが、今のうちに積んである箱をどけて足場を整えておけば、気づかれずに抜け出すことができるだろう。天気はよさそうだ。今夜は月も明るいにちがいない。

 伯父もジリオンも彼と同室なのだが、実はノルスは彼らがいつ寝所に帰ってきていつ眠りについているのか知らない。早く寝なさいと子供のように追いやられて、不満を抱えたまま床につくのだが、いつのまにか眠ってしまって気づくと朝の光の中で伯父たちが寝坊をしている姿を見ることになる。

 もし伯父たちが帰った時、自分がいなかったら、あとで咎められるだろう。といって約束をたがえるわけにもいかない。たかだか旅先で出会った少女との約束だ、本気にすることはないと言われそうだが、どうしてもノルスは行きたかった。行かなければならないような気がした。


 夜更けが来ても、それ以上の策は思いつかなかった。初夏の気候は温かく、すこし開けた木窓から月明かりが光の形を床におとす。満月が中天にさしかかる時刻になっても伯父もジリオンも戻っては来ない。

 ノルスは服を着たまま入っていた床を出た。もし、今二人が帰ってきてもどのみち止められるのだ。いないうちに抜け出してしまえば、すくなくとも邪魔立てされずにすむ。昼のうちに計画しておいたとおり窓を大きく開けて足から外に出た。

 ノルスの右手は幼い頃から義手だが、片手だけで乗馬もできるし、特別にしつらえた弓で弓射もできる。左手で窓枠に捉まり身体を支えながら一歩一歩足場を探す。壁のわずかな段差に片足をかけ、下の階の窓枠の上部に足をかけた。身体をかがめて今度は二階の窓枠に手をかけつつ足を落とす。下手をすると義手が抜けるので気をつけなければいけない。こんなところで片手を落としていったら人が驚く。

 二階の窓からは一気に飛び降りた。羽織ったマントが建物脇の灌木をかすめた音が意外と大きく、誰かに聞かれたかと一瞬、その場に身を潜めたが、周りから物音はしない。宿の一階からはまだ灯りが漏れ人の気配がする。一階は倉庫になっているので誰かが荷物を見に来ているのかもしれない。

 辺りを見て坂を下って駈け出した。海への道は幾度も昼のうちに通って知っている。夜の街角は勝手が違うが、坂を下ればどの道も海へ行き着くのはわかってきていた。月は煌々と道を照らし、家々は眠りについている。一度、目の前を横切る猫につまづきそうになったが、かろうじて転ばずに走り続けた。


 駆け下りて海辺にたどりつく。見回して一瞬、迷った。浜辺はたしか船着き場の左、南側にあったはず。今いるのはどのあたりなのだろう。探すともなしに海のかなたを見やり、はっとして足を止めた。

 月明かりの砂浜が昼より小さくなっている。海には満ち潮引き潮というものがあるとヨリデュインに来て教わった。

『満ち潮の時刻を覚えとかねえと、いつのまにか海じゃなかったとこまで海になっちまうんでさあ。よくお気をつけくだせえ』

 訛りのあるヨリデュイン語で船長が教えてくれていた。海じゃないところまで海になるというのはどういうことだかわからなかったが、今こうして浜辺が小さくなっているのを見るとわかる。海はもっと迫ってくるのだろうか。一度ウィージュに聞きたい気持ちもあったが、自分の無知を晒すのは恥ずかしい気もした。

 中天の満月が波に無数の光を落としている。その光の真ん中に、ひときわ大きい輝きがある。はじめは月が水面に映り込んでいるだけかと思った。けれども、それはまるで水の中に大きな月が隠れていてそれ自体が発光しているように見える。

 心を持って行かれるような光景に、ついぼうっと見とれてしまっていたノルスは待ちわびていた声にどきりとした。

「ノルス」

「ウィージュ。ここでよかったんだね」

 ふり向くと少女は風のように笑ってノルスの腕をとって身を寄せてきた。

「見える? ウディロンの宮殿がおかに一番近くなってる」

 言われてまた先の光の場所を見る。

「あれが?」

 目を凝らすとやはり、月光の反射にしては光が強すぎる。

「そう。歌も聞こえる?」

「歌」

 意識していなかった。風の音かと思っていたそよぎが、本当は微かな歌声であることに今はじめて気がついた。そう思って聞けば、夢を見るような美しい旋律がある。森で精霊たちが歌うように涼やかな声に聞こえる。

 言葉もなく歌声に聞き入っているノルスに、ウィージュが光を指さしながら言う。

「あれが人魚の歌。本当の歌ではないんだけれど」

「本当じゃない? どういうこと?」

「本当の歌を聴く頃には命を失っているものだから」

 ひやりとしたものが頬をなでた心地がした。ウディロンは本来、海で死んだ男が連れて行かれるという人魚の宮殿だと聞いた。そこで世界の終わりの日まで永遠に暮らすということは、エルシノア人の信じる死後の楽園ルミリス・ミロ・シェントル(黄金の宮殿

)には行けないことになる。もともとヨリデュインはエルシノアからすれば異教であるうえに、ウディロンは魔物の世界である。

 黙ってしまったノルスを気遣うようにウィージュはとなりから見あげた。

「大丈夫よ。あなたはまだ生きているもの。そして生きて帰ってほしいから」

「そんなこと心配してないよ」

 こんなことを恐れていると、女の子に同情されたくない。自身の不安を払拭するようにノルスは笑って見せた。

 ウィージュは無数の光を浮かべる海に駆け込んだかと思うと、いつかの巻き貝を波間から拾い上げた。貝には白く泡立つ液体が満たされている。

「飲んでおいて。あなた、まったく泳げないんでしょ? 真珠酒の効果は長くは続かないけど、もし水に入ってしまったときにはすこしは助けになると思うわ」

「うん」

 まったく泳げない。それは事実なのだが、妙に悔しい気がした。けれども本当に海に沈んでしまったらどうにもならない。ノルスは巻き貝を受け取ると真珠酒を口に含んだ。

 ふわりと広がる潮の香りを含んだ清涼な液体が溶けるように馴染んで咽喉に広がる。

 白い手がノルスの顔にすっと伸びてきて、走って乱れた顔の横の髪をかき上げた。月の光を宿した藍色の瞳がじっと彼の目を見つめる。

「魔族に本気で想いを寄せるのは馬鹿よ。知ってる?」

「ぼくだって魔物の血を引いてるんだ、仲間だって言ったじゃないか」

「あなたは魔族じゃない、人間だわ」

「ウィージュ」

 言って彼女の顔に手を当てようと思った。でも、その手もすり抜けて少女はまた光のような笑みを見せて走り去る。沖へ沖へと――。

 今はノルスも真珠酒の力で溺れないとわかっているのだろう、平気でウィージュは海の深いところへと泳いでいってしまう。膝までの深さでノルスは一度ためらった。前に来たときはここで進むのを止めてしまった。でも、今なら泳げるんだろう、それをわかってウィージュはわざと逃げてみせているんだ。

 羽織っていたマントと上掛けを脱ぎ捨てて浜へ投げた。短剣をいたベルトもはずして砂浜へ放った。ゆるい膝上の下着だけになるとノルスは思いきって一歩一歩海へ入っていった。

 泳ぐ、ということが、どういうことだか知らない。川を訪れた時、村の子供らが泳ぐのを見たことはある。うまく水から顔を出して、腕と足を動かしてすいすいと進んでいた。同じようにすれば泳げるのだろうか。

 ノルスは慎重に、まだ足の着くところでそっとしゃがんで水をかいてみた。思いきって足を水底から離してみる。苦もなく進んだ。なんだ、簡単じゃないかとノルスは安堵した。 幼い頃片手を失ってから、父母も兄姉もノルスをひどく丁寧に扱ってくれていた。いろんなことを、危ない危ないと止められていたけれども、五つ年上の兄だけは母の目を盗んでこっそり剣術や弓術を教えてくれた。やってみれば、恐れるほどのことはなく意外と簡単にできてきたものだった。泳ぐのもそれと同じで、ただ怖がっていただけなのかもしれない。

「待って、ウィージュ。さすがにそんなに早く泳げないよ」

 海の上を近づいてくるノルスを、ウィージュははじめ驚いた顔で見つめた。でもすぐに笑って彼の方に戻ってきた。

「すごいじゃない! ほんとに今まで泳いだことないの? こんなに早く沖まで来れるとは思わなかった」

 戻りましょう、とウィージュは落ちついた声で言うと、浜の方へと泳いで進む。

「大丈夫だよ」

 言ってみたが、ウィージュは笑って、足の届くところの水中に立ちあがった。

「来てくれてありがとう」

 追いついて、となりに立ったノルスの、両肩に手をかけてウィージュは真正面から笑顔を向ける。胸が高鳴るのを気取けどられないように、わざとノルスは落ちついた声を出した。

「わかってほしかったんだ。ぼくの気持ちは遊びじゃない、本気なんだって。今はここで別れることになっても必ずまた来る。故郷に戻っても君のことを忘れないよ」

 そのまま彼女の身体に両腕を回して抱き寄せようとした。でもウィージュはその手もまたするりと抜け出して笑って逃げる。まるで水中で魚を捕まえようとしてるみたいだと思う。今、彼女の脚は、人魚のひれになっているんだろうか。水面みなもに輝く光で、水の中までは見えないけれども。

「どうかしら。嘘つきの男は嘘つきの女と同じぐらいいっぱいいるから」

「嘘じゃない。どうしたら信じてくれる?」

 答えはなくただ弾けるような笑い声だけが水面をなでる夜風と共に渡ってきた。

「ウィージュ」

「見て。ウディロンが月に近づいてる」

 唐突に少女は沖に浮かぶ黄金色の光の塊を指さした。目の前の光の輝きがますます強くなってきている。それはもう、水の中ではない。水上に島のようにぽっかりと光の塊が浮かんでいる。

「月に近づいている?」

「今夜はとくに月が大きいでしょう。引っ張り合っているのよ」

「なにが?」

「海と月とが。こんな夜には宮殿も海より上に出てくるのよ」

 自分自身も空へ引っ張り上げられているような不思議な重力のなさを感じる。自分の中の魔物の血が、夜の天空を支配する月の光に魅了されているのだろうか。

 光がさざめくように動いている。目が慣れてくると、それは光の宮殿に人魚が出入りしているのだとわかった。宮殿の正面に噴水のように水が湧き出しているところがあり、一人の人魚が椅子に腰掛けるようにその上に座って恍惚とした表情かおで歌っている。柱と柱の間に人々が憩うのが見える。

「あれが船乗りの魂……」

 顔までは見えないが人魚の形ではなく、人間の男たちに見える。人々は祝事ほぎごとのように飲み喰いして楽しんでいるようだ。美しい人魚たちが酒をそそいでは身を翻して舞い、虹色の魚が宙を泳ぐ。あれは浮かんでいるが陸ではない。海の中、水の中の光景が見えているのだ。

 世の全ての幸せを絵に描いたようなその情景に、美酒に酔ったように魅了される。自分もあの場所で彼らと一緒に愉しみたい、今、となりにいるウィージュをこの腕に抱いて――。

 けれどもノルスはかろうじて自制心を取り戻した。このまま海の底に行くわけにはいかない。自分は生きて帰らなければいけないのだ。

「ありがとう、ウィージュ」

 もう帰ろうと言いかけたとき、後ろからいつか聞いたしわがれ声が聞こえた。

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