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ヨリデュインの人魚の歌  作者: 猫洞 文月
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「ううん。ぼくの祖母も魔物の娘だって話だ。祖母も幼い頃に父母と別れたからよく知らないそうだけど」

「そうなの。魔族の系統なのね、わたしと同じ」

 同じ。そう聞いてなんだか認められたような気がした。こんな遠い異国で、自分と共通の何かを持つ少女がいる。魔族の系統はエルシノアでも珍しい。ノルスと彼の兄弟ぐらいしか聞いたことがない。もっとも彼もこんなことは滅多に人には言わないから、本当はいても黙っているのかもしれないが。

「本当に美しいのは夜の海なのよ」

 そっとウィージュはノルスの腕に横から頭をもたせかけて言う。

「でもやっぱりやめておくわ。いくらあなたが魔族のものだからって、人魚じゃないでしょ。夜の海は危険すぎるから」

「どうして? 夜の海に何がいるの?」

 このまま腕に触れている彼女の肩を抱いていいものかためらう。そうしたら怒るだろうか、それとも笑って逃げていくだろうか。夜の海よりも今、目の前の少女にどうしたらいいのかの方がノルスには不安だった。

 ほっと少女が甘い息を吐く。

「ウディロンの宮殿への道は、夜開かれるのよ」

「夜」

 ウディロンの宮殿。人魚が船乗りの魂をもてあそぶという、伯父から聞いた海の伝説をノルスはぼんやりと思い出した。

「死んだ船乗りしか行けないところだと思ってた」

「ええ。生きた人間がウディロンに住むことはできないから、死んでから行くことになるんでしょうね。でも伝説があるの。ウディロンに行って帰ってきた人がいると。その人は不思議な力を持つようになったとか、帰ってきたら何百年も経っていたとか。聞いたことない? ヨリデュインの船乗りフィージェルの物語って」

「ないなあ」

「ウディロンから帰ったフィージェルは、病を治す力を手に入れて永遠の若さを保つことができたんだけど、周りの人々はみんな年老いて死んでしまったの。寂しさに耐えかねた彼は、また海の底のウディロンに戻っていったのよ。でもね、この街でフィージェルの塗り薬って売ってるものは全部偽物だから気をつけて」

 ウィージュはおかしそうに笑い、ノルスもつられてすこし微笑む。鳶色の髪が肩のすぐ近くでさらさら揺れ、潮の香りがふわりと漂う。見つめるノルスをウィージュが見あげるように顔をあげた。

「なに?」

「海の色の瞳」

 今日はどんな色の瞳なんだろうとのぞき込んだノルスに、ウィージュはぱっと顔を赤らめながらも極上の笑みを投げ返すと、風が吹きすぎるように立ちあがって走り出した。いつもながら海岸を走る足はひどく速い。草原や野原とちがって砂浜はノルスには走りにくく、手が届きそうで届かない。わかっているのかウィージュは捕まりそうで捕まらない距離を保って笑いながら逃げていく。 ようやく肩で息をしながらウィージュが立ち止まり、捕まえようとノルスが手を伸ばした瞬間、ウィージュはぱっと笑顔を見せたかと思うと海へ走り込んだ。

「ずるいな」

 笑ってノルスは靴を脱ぎ捨てて自分も海に踏み込んだ。声を立てて笑うウィージュはためらうことなく海の奥へとへ入っていく。追っていこうとしてノルスは立ち止まった。水深がだんだんと深くなっていく。服を濡らさないでこれ以上進むのはできない。そしてわずかな恐怖も感じた。

 内陸で育ったノルスは泳げない。水に入った経験といえば、川の浅瀬で遊んだことぐらいだ。十五年の人生で泳ぐ必要など一度もなかったのだ。たとえ服を脱いで海に入ったとしても背の届かない深さに行くのは無理だ。

「ウィージュ、ごめん。戻ってよ」

「謝ることはないのよ。でもすこし待ってて」

 もう肩が沈むほどまで進んでいたウィージュは、笑顔を見せて、次の瞬間いきなり頭から海に潜った。

「ウィージュ!」

 驚いて叫ぶノルスの声に、さらに沖に行ったところからウィージュの頭が出る。

「ちょっとしたら戻るわ。待っててくれる?」

 笑いながらウィージュは、潜ったり頭を出したりしながらどんどんと岸から遠ざかっていく。ふっと息をついてノルスは浜辺に座って待つことにした。

 泳げない自分が見れば驚くことだが、彼女にとっては海で泳ぐことなどなんともないことなのかもしれない。

 だが、ずっとウィージュの泳ぐ軌跡を見ていたノルスは次第に心配になってきた。あまりに長いこと、水面に顔を出さない。見失ったかと思ってほかの水面も探したが、波の様子はどこも同じで水面に変化はない。ぴしゃと何かが飛び上がり、彼女かと思って目をやると魚が飛び上がっただけだった。

――消えてしまったのか、海の中に。

 はじめてウィージュの姿を見たのもこの浜辺だった。その時も、浜辺で遊んでいたかと思うと急に姿を消した。夕暮れの見せた幻かと思ったものだったが、今も同じように消えてしまった。

 森の魔物には慣れているが、海の魔物はよくわからない。森の魔物は姿を消しても木々の間か土の中に必ず存在していて、しばしば鳴りをひそめてこちらのことを伺っている。海のものも同じだろうか。水の中に消えたと思っても本当は存在しているのか。

 魔族の娘と言っていたけれど、これほどのものだとは思わなかった。海の中で彼女は人魚の姿をしているのだろうか。足の代わりにはひれが生えているのだろうか。羽人の子供が普段隠している羽を自在に広げることができるように。

 どのぐらい待っていただろう。唐突にとなりに立つ気配に気づいて横を見ると、笑みを浮かべたままのウィージュがやってきて、ノルスの横にさっきと同じように座った。

「びっくりしたよ」

 言うと、少女は声を立てて笑った。

「ごめんなさい。あなたならわかってくれるかと思って」

「うん、森の魔物には慣れてるけど。海のものは知らないな。最初、溺れたかと思った」

「人魚だって言ったでしょ」

 笑いながらウィージュはノルスの腕にもたれかかる。髪はわずかに滴を含むがその手は濡れていない。

「水の中では人魚の姿をしているの?」

「そう。だって泳ぎやすいんだもの」

「便利だね」

「そうでもないわ。陸ではすぐ疲れちゃうし、海の中でも長くはいられないし。中途半端なの、どっちでもない種族だから」

 魔物は棲む環境を選ぶ、その棲みを離れれば長くは生きられないと聞いたことがある。吟遊詩人の歌に出てくる羽人の娘も、長生きはできなかったと伝え聞いた。

「陸では無理をしてるの?」

 かわいそうになってノルスは尋ねた。ううん、とウィージュはまた明るい顔でこたえる。「どっちでもないってことは、どっちでもあるってことだから。陸も海も楽しめるなんて嬉しいことでしょ?」 

「そうだね。せめてぼくも泳げるようになったら楽しいんだろうな」

「練習すれば人間でもすこしは泳げるわ」

 練習をすれば。それは理解できる。でもたった六日間の滞在の間には無理だろう。たとえば自分だけここに残らせてもらうことなどはできるのだろうか。次に伯父がネイヘムの船を迎えにやってくる頃まで。黙って考えに耽っているとウィージュが腕に手を乗せた。

「泳げなければウディロンの宮殿を見に行くこともできないものね。そう、方法がなくはないけど、でも……」

「なに?」

 海の底にあるというウディロンの宮殿。そこに行くにはそもそも海に入れなければお話にならない。人魚なら、特別な方法を知ってるのかもしれないと期待を込めて見つめ返すノルスの視線をウィージュは悲しそうな顔を伏せて避けた。

「ごめんなさい、忘れて。それは掟を破ることになるから」

「掟?」

「もうあたしのことなんか忘れたらいいわ」

 ぱっとウィージュはいきなり立ちあがって、二、三歩海の方に歩いて止まる。

「なにを言うの。ぼくが何か悪いことを言った?」

 自分の何が彼女の気を悪くさせたのかと案じて、立ちあがったノルスは同じように歩いてウィージュに並んだ。ぷいと顔を背けた少女は余所を向いたまま言った。

「だってあなたはまた遠い国へ帰ってしまうんでしょ?」

 ずきりと胸が痛んだ。深入りしてしまえば辛いのは彼女だけじゃない。きっと自分も別れたくなくなる。自分だけ残ることはできないかなど虫のいいことを考えていた。残ってどうなるというのだろう。それでも家族のために国へ帰らなければならなくなったら、ウィージュを連れて行きたくなるのだろうか。この海を遠く離れた故郷の国へ。本来の棲み処を離れた人魚は、長く生きてはいられない――。

「そうだね」

 気持ちを抑えて、それだけ言った。

「さよなら。楽しんでいってね。あとすこしでしょ?リュスロにいるのも」

 ふりかえったウィージュはまた光のような笑みを見せた。その通りなのだろう、もう彼女とは会わない方がいいのかもしれない。こんなに気持ちが惹かれるなら、もうこれ以上踏み込まない方がいいのだろう。

「うん。さよなら。また来年もできたら来るよ。来年も会えたら嬉しいな。元気でね」

 きっぱりと意を決して微笑みを最後に背を向けた。今ならこんな風に、気持ちを断ち切ることもできる。その方がお互いのためになる、きっと。

 歩み去ろうとするノルスを追いかけて声を投げたのはウィージュの方だった。

「ね、最後に綺麗なものを見せてあげる」

 思わずふり向く。どうして、この女の子はいつもひどく魅惑的な誘い方をしてくるのだろう。答えるべきか迷う彼に少女は、はじめて見せる翳りのある表情かおを向けた。

「魔物の世界が怖くなければね」

「怖くなんかないさ。森では魔族を従えることだってできる。そういう家系なんだ。海のものだって大丈夫だよ」

 すこしむっとしたかもしれない。子供扱いされたような気がした。泳げないからって子供じゃない、自分だって魔物には慣れているんだと意地を張りたかった。言ったことは嘘じゃない。故郷の森では古い種族たちは彼を敬い護り、その言葉にしたがう。

「そう? じゃあ待ってるわ。今夜は満月。月が真上に昇る前にこの浜辺に来て。他の人を誘っちゃだめよ。あなただけに見せたいから」

 急にウィージュがひどく大人っぽく妖艶に見えた。魔族の女性はこうなのだろうか。あどけない少女の顔と蠱惑的な女の魅力で人間を惹きつけて魔の深淵に誘い込む。聞いた知識を総動員するが、目の前の少女への気持ちを断ち切ることはできなかった。

 それが伝わったのか、それともなにも気づかなかったのか、ウィージュはまた弾けるように笑って海へ走り込んで、そして消えた。


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