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ヨリデュインの人魚の歌  作者: 猫洞 文月
3/6

 ノルスの方を見て少女はまた、はじける泡のように笑う。刹那、途惑った。こんな野生児のような真似はしたことがない。けれど、思いきってためらいを捨てて、紐をほどいて靴を脱ぎ捨てた。

 足を撫でる海の水は思ったよりも冷たくない。潮の香りが鼻をくすぐる。それはそのままウィージュの香りであることに気づいた。朝には厚く垂れこめていた雲が薄れてきて、西の空の雲間から光が差し込む。天からの使いが降臨するときにはこんな空からやってくる、と絵画でみたことがある。そんな光景もこの海ではじめて見た。

 水辺で遊ぶ子供みたいだ、と思う。世の穢れをまだ知らない、単純な目で世界を見ている彼女には、まったく感覚的にものごとが見えているんだろう。いつのまにかウィージュは、手にこぶしほどの大きさの巻き貝を持っていた。

「これをあなたにあげたかったの。本物の真珠酒よ」

「本物? じゃあ、あの酒場でぼくにくれたのは、やっぱり偽物だったってこと?」

 そうね、とウィージュは笑った。

「偽物じゃないけど。でも、人間の作る真珠酒はちがうわね」

 口の部分を上に向けた巻き貝には、わずかに泡立つ透明な液体がたたえられている。海の水を汲んだだけじゃないのか、と思った。飲んでみて、と言われてもノルスは、飯事ままごとの飲み物にしか思えなかった。 

「じゃあいただくよ」

 飯事につきあう気持ちでノルスは巻き貝を唇に当てた。

「あ……」

 ふわりと舞う香りに、思わず声をあげた。潮の香りも確かにするのだが、それ以上に芳醇な甘い香りがする。ひと口、含んでみると、雪が淡くとろけるような、それでいて冷たくはなく、ただほどけていくような不思議な柔らかさが舌の上を行きすぎて、すうっと消えていった。

「こんなのはじめてだ」

「でしょ?」

 誇らしげにディルノアは背の高いノルスの顔を見あげてほほえんだ。

「雪が口の中でとろけていくみたいで……美味しいよ、確かにこんなお酒は飲んだことがない」

「雪? それはなに?」

 問われて気づいた。ここはノルスの故郷エルシノアよりかなり南だ。雪なんて見たこともないんだろう。

「ぼくの住む地方では冬になると雪が降る。この世の中で一番白くて冷たくて美しいものだよ」

「波頭みたいに?」

「それとはちょっとちがうな。氷……氷も知らないか。君たちは冷たいものはなんにも知らないんだろうな」

「冬の水?」

「水よりももっと冷たいんだ。触ると手が痛いぐらい」

「死んでしまう?」

 どきりとする言葉をいともたやすくウィージュは口にした。

「いや……触っただけでは死なないよ。もしずっと雪に閉じ込められて身体が冷え切ってしまったら死ぬかもしれないけど」

「水に閉じ込められて?」

「いや、水じゃない。ああ、雪が溶けると水になるけど」

 不思議そうな顔でウィージュは彼の顔を見あげている。ノルスはほほえんで見せた。見たこともない雪というのを想像するのは難しいのだろう。

「いつか見せてあげたいな。綺麗だよ、雪で埋め尽くされた森の景色は」

「ええ」

 笑んで見せる海の色の瞳が、本当に綺麗だと思う。西日に輝く波の無数の輝きのように。思うともなしに故郷の雪気色の中で温かい毛皮に身を包むウィージュの姿が目に浮かぶ。そんな風に一緒に過ごすことができたら、と考えてしまってノルスはその想像を打ち消した。ただ旅先で出会っただけの人なのに。


 海岸に座ったり、彼女の気まぐれにつきあって走り回ったりしながら黄昏まで一緒に過ごした。灰色の雲はいつしか流れて、黄金の夕日が遠い海にさしかかってきている。

 太陽の欠ける時間は魔物の時間。ウィージュをはじめて見たのは確か、この浜辺でこの時刻だった。あの時は魔物と思って恐れたのだが、本当に人魚の娘ならば、魔物の一族と言えるのだろう。これほど美しい魔物だったら歓迎だけれど。

「日が暮れるね。もう街の方へ帰らないと」

「また会える?」

 笑い疲れて晴れ晴れとした顔を少女は屈託なくノルスに向けた。

「うん、まだ数日滞在する予定なんだ。君は?」

「お店の手伝いがあるけど、この時間は空くの。夕方はお客が来るから店に戻るけど」

「店の方にもきっと行くよ。伯父たちの予定に合わせないといけないけど、大丈夫だと思う」

「待ってる。約束ね」

 ウィージュは少し濡れた髪のまま、ノルスの腕に自分の腕を絡めて、また笑った。

「あの真珠酒は酒場では飲めないの?」

「ええ。あれは海だけのものだから。それにいつでも誰にでもあげられるものじゃないのよ」

「じゃあぼくは運がよかったんだね」

「それだけじゃないの」

 ウィージュはきゅっとノルスの腕に抱きついて彼を見あげた。

「人魚はね、大切な人にしかあげないものがあるのよ」

 え、と訊きかえしたときには彼女はもう手を離して、さざめく波のような笑い声とともに遠くに走り去って、そこから大きく手を振った。

「さよなら。またね」

「明日また」

 小さく遠ざかる少女の鳶色の髪をぼうっと見ながらノルスは自分が不思議な幸せに包まれているのに気がついた。こんな穏やかな気持ちにはなったことがない。限りなく広がる夕焼けの大空、空の下の縁をぼかす紺色の水平線、足元に広がるさらさらした砂浜に寄せては返す白い波。駆け去っていく後ろ姿。そういうものたちが、今はひどく愛おしいように感じる。ずっとこの場所に、この時間に留まっていたいような――。


 宿に戻ると伯父とジリオンはもう戻っていて、この街で知り合ったという女性達と食卓を囲んでいた。

「遅かったね。どこに行ってたんだい」

「すみません。昨日会った酒場の女の子と一緒に海を見てきました」

 伯父はちょっと目を丸くした。

「そうか……。楽しむのはいいことだけど、羽目を外しすぎないようにね。なにかあったらロディアが黙ってないから」

 伯父の妹である母は厳しくはないが真面目である。旅先で見知らぬ女性と遊んで事故を起こしたりなどしたら、確かにまずいことになりそうだ。

「大丈夫です。危ないところには行きませんよ」

「海というのは穏やかなときはいいけど、荒れると怖いよ。今日は天気がいいから大丈夫だけど、荒天の日には決して近づいちゃだめだ」

 ノルスに椅子を勧めながらジリオンが言う。

「ええ、十分気をつけておきます」

 座るとノルスのためにも料理が運ばれてきた。蠱惑的な娘達がさっそくノルスを囲んで笑い合う。

「ウィージュから綺麗な男の子がいるって聞いてたけど、ほんとに素敵な子ね。いくつ?」

「十五です」

 顔を見合わせて娘達はまた笑う。

「そろそろ大人の遊びを教えてもいい頃かしら、だめ?」

「だめだめ。この子はそういう子じゃないんだ」

 カルストルが笑みをたたえてノルスを庇うようにする。

「伯父さん、ぼくは……」

「食事が済んだらもう休んだらいいよ。君ぐらいの子は早く寝ないと」

 もう十五です、と言いたかった。大人にはまだ足りないかもしれないが子供扱いされる年でもない。けれどノルスは素直に部屋へ下がった。伯父たちは大人の時間を過ごすのだろう。気にはなるが、言われたとおり、そういうことを知るのは今ではない。


 リュスロに滞在するのは六日間だと伯父に言われた。ネイヘムに向けた船はその間には戻ってこない。ハルシアの葡萄酒、ダルディンの鉄製品、ヨリデュインの染色材など運んだ商品を向こうの取引先に売り、代わってネイヘムの蜂蜜酒、毛皮、木彫り製品などを運んでくる。戻ってくるのは一月ほど先なので、その頃にはもう伯父の住むリカルディか、故郷のエルシノアに戻らなければならない。

 伯父とジリオンにヨリデュインの商館や市場に連れて行ってもらうこともあったが、ノルスにはわからない商談をするときには、ぶらぶらとウィージュの海猫亭の方に行ってみた。

 ウィージュは昼の間は、洗濯や洗い物、料理の下ごしらえなどで忙しくしていたが、ノルスが行くと決まってはじけるような笑みを見せる。瞳の色は深い青緑だったり紺色だったりした。つまり、天気はよかったのだ。

 はじめの夜に街角で見た商売女たちは、女将の友達であることもわかった。みな、おおらかで悪びれる様子もない。ノルスが訪れると、わっと笑ってウィージュをからかう。その度にウィージュは首まで赤くなってノルスの手を取ると、入り組んだ街の道を海の方へと駆け出すのだった。

 

 走ると笑う、笑ってまた坂道を駆ける。海辺にはかもめや海猫がき声をあげて飛び交い、海辺の小屋では女たちが網を直している。

 天気のいいときの海は本当に穏やかで、どこにそんな危険をはらんでいるのかわからない。

「聞きたいことがあるんだ」

「なあに?」

「人魚は海にしか住めないの? 君のお母さんはおかにいたって言ってたけど」

「うん、あたしも見たわけじゃないんだけど。母さんは、あたしがほとんど覚えてないぐらい小さいときに亡くなってしまったそうだから」

 言ってウィージュは砂浜に白い足を投げ出して座り、隣の砂をぽんぽんと手で叩いてノルスに座るよう促した。

「もちろん、人魚だから普段は海にしかいないのよ。でも、すこしの間なら、人間に似た形になることができるって聞いたわ。たとえば真珠酒を飲んだり、魔女に魔法をかけてもらったりして」

「真珠酒? 本物の真珠酒だね? そんな不思議な力があるのか」

 こくりとウィージュは海の方を見てうなずく。

「人魚が飲めば人間の性質を、人間が飲めば人魚の性質をすこしの間だけ持つことができるの」

「人魚の性質って?」

「海の中でも息ができたり、自由に泳げたりするの。人間って本当に泳ぎが下手ね。海で育った子供たちでも人魚のようには泳げないのよ」

「そりゃ仕方ないよ。人間は水中じゃ息ができないし、足だって人魚みたいにひれになってるわけじゃないもの。そういえば羽人はねびとの子供は普段は人間の姿をしてるけど、すこしだけ飛べるんだって聞いたことがあるな」

 へえ、とウィージュは興味を示した。

「羽人の子供っているの」

「見たことはないけど、そう聞いたよ。魔族との混血って、いないわけじゃないらしいね」

「魔族の娘は怖い?」

 ふと不安そうな顔になってウィージュはノルスのとなりで深い青の目をそっと伏せる。

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