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そのとき、ふいにカルストルが深い声で歌い始めた。
「はじめにありし 七つの海よ 水面に浮かぶ 七つの島よ 海と空との交わるところ 島は流れて行き着かぬ」
つないだのは鈴をふるような澄んだ歌声だった。
「島に乗るのは七つの種属 陸を統べるもの 森に棲まうもの 地を駆けるもの 水をゆくもの 地の下のもの 空に舞うもの そしてひとつは 目に見えぬもの」
先の海色の瞳の少女である。カルストルがまたこたえて歌う。いつの間にか、立ち上がった男たちも、ガルガントゥの粗野な男たちもぽかんと口を開けて二人を見つめている。
「遠いかなたのときの果て 七つの島は溶け合って 一つの世界になりにけり」
酒場のあちらこちらから声が重なる。船乗りたち、少女と女将、男たちの連れている商売女や背の曲がった客引きの男たちまでがそれぞれの声を重ねて歌を唱和していた。歌の終わるとき、ふいにカルストルが立ち上がり杯を上げて、
「乾杯!」
と叫ぶ。
「乾杯!」
「乾杯! わが美しいヨリデュイン、白亜の港リュスロに!」
酒場のそこかしこで杯を当てる音が響く。
「酒だ、女将さん!」
「はいよ!」
「こっちもだ! 例のその、真珠酒ってやつをたのむ」
女将も少女も酒の給仕に忙しくなる。ガルガントゥ人たちも立ち上がったヨリデュインの男たちもみな楽しそうに歌のつづきを歌ったり杯を交わしたりし始めた。
「さ、ぼくらは行こうか。今のうちに」
微笑をたたえたまま耳打ちして立ち上がった伯父に続いてノルスは、船長やジリオンとともにそっと席を立った。
すでに日暮れて、上弦の月は西にある。夜の街は月明かりと通り沿いの店から漏れる灯りにほんのりと浮かぶ。宿に帰る道々、ノルスは先の歌を伯父に尋ねた。
「あの歌はミューレイノ河流域だけのものかと思っていました。ガルガントゥの人たちも知っているんですね」
「ああ。ガルガントゥ人が知ってるのは、よくヨリデュインに来るからだろう。彼らにはまた別の伝説があるらしい。詳しくは知らないけど」
「連中はちがうと思いやすが、ガルガントゥ人には海賊もいる。よくよく気をつけられたほうが」
案じ顔で言う船長にカルストルは真面目にうなずいた。
「慣れたとはいっても、ぼくもジリオンもしょせん、よそ者だからね。よろしく頼むよ」
「港町みたいな雑多な人間がたくさん出入りするところは、物騒な事件もあるし、悪人もいる。とくに夜は君は一人で出歩かない方がいいな」
となりに歩くジリオンがノルスに温かい目を向けた。
明日の朝は早いから、と船長は早めに船に戻っていった。ノルスは伯父やジリオンと一緒に商人用の宿に帰った。夜の港町にのそこかしこに、派手に着飾った女たちが嬌声をあげてこちらに向かって手を振っている。
「君は見ない方がいいんじゃないか」
ジリオンが女たちからノルスを遠ざけるように反対側に並んだ。伯父がちらりとノルスを見る。
「知ってるかい? ああいう種類の女たちが世の中にはいるってこと」
「ええ。話には」
「あまり近づかない方がいい。興味があるなら、確かな筋から紹介された女だけを相手にするんだ。犯罪者に近いような連中もいるからね」
「犯罪者」
女と犯罪というものが結びつかなくて、ノルスは眉をひそめた。
「女の影には男がいる。性質の悪い奴らが女を前に出してきて純朴な男たちをひっかけようとするのさ。闇雲に避けるばかりじゃなくて、そういうものがいるということは学んでおいた方がいい。何も知らなくて大人になるのは、それはそれで危険だ」
「ノルスにはまだ早くないですか?」
「少年は子供だと思っていても意外と早く大人になってしまうものだよ。大人だと思うとまだまだ危なっかしいところもあるけどね」
カルストルは明るい笑い声を立てた。
ふと潮風が吹いたような気がして、ノルスは振りかえった。あ、と少年は小さく声を上げた。鳶色の髪、海の色の瞳。ふわりと海の香りを残して、少女の笑みが過ぎていった。
「あの子、さっきの……」
「ああ。なんて言ったっけ、ウィージュ、だったかな」
ジリオンが振りかえって言った。ウィージュは悪趣味な服装の女たちの元へ歩んでいって楽しげに話している。そういう種類の女だったのかとノルスは興ざめして彼女を一瞥した。
「人魚の娘って言ってましたよね。本当だと思います?」
尋ねた言葉に一瞬、子供に向けるような優しい笑みを見せた伯父を見てノルスはすぐに首をふった。
「いや、冗談ですよ」
「ノルス、ぼくが本気にしないとでも思ったかい?」
「でもおかしな話ですよね」
伯父は真面目な顔に戻ってしずかに問う。
「ここはヨリデュインだからね、そういうものがいてもおかしくない。魔族と人間の混血というのはときどきいるじゃないか。リカルディのフレイリア妃もそうだったし、君のお婆さまもそうなんだろ?」
「祖母の場合は本当によくわからないそうです。幼くして母親とも別れたということですので」
「ぼくの知ってる限り、魔族の子は本当に美しい。そして、その美しさのために禍々しい事件を起こしてしまう。魔族との恋は命がけと聞いたことがある。それだけ魅力的なんだろうけど、気をつけなければね。君はただの見聞のためにぼくと一緒にこんなところに来てるだけなんだから、無事に国に送り返すのがぼくの義務だよ」
「大丈夫ですよ。そんなに向こう見ずじゃないつもりです」
うん、君なら、と伯父はうなずいた。この伯父には両親以上に信頼されているといつも思う。その信頼を裏切らないようにしなければ。
翌朝の出航は早かった。天気は上々とは言えず、すこし曇り空である。船出の無事を祈る港の女たちの声、船長と船員たちの投げ合う声。波止場側から船縁へと解いたもやい綱が投げられ、船はゆるやかな航跡を描いて進みだす。港を出るまでは帆をいっぱいに張らず両側から出た櫂で漕ぎ港を離れていく。活気に満ちた出港のできごとを、ノルスはひとつも見逃すまいと目を凝らしていた。
ものも言わないで見つめているノルスに、カルストルが楽しそうに声をかけた。
「さあ、もう行こう。今日はアロージュ祭のお祭りだよ。街へ出てみよう。きっとなにか面白いことをやっているよ」
アロージュ祭は初夏のヨリデュインの有名な祭りである。昔、ヨリデュインが分裂の危機に陥ったとき、神殿で王に選ばれた十四才の少女アロージュは政府役人たちの腐敗を糾弾し長い戦いの時代を経てヨリデュインをの統一を取り戻した。その記念の祭りには外国から巡礼者がくるほどの賑わいを見せる。歴史にはさほど興味はなかったが、お祭りはどこに行っても楽しいものである。
カルストルの言ったとおり、街はすっかり飾り立てられ、人々が楽しげに行き交っている。屋台では食べ物が売られ、幼い子供たちが花を撒いて歩くあとから若い娘たちの踊りが続く。ヨリデュインの民族衣装だろうか、華やかな色合いの布がひらりひらりと鮮やかに揺れるのにぼうっと見とれていると、ジリオンが後ろから声をかけた。
「すこし離れよう。ここからはちょっと危ない」
言われて道をすこしあけた。次の瞬間、馬が勢いよくそばを通り過ぎた。続いて馬の群れが数頭、蹄を鳴らして道を駆け抜ける。騎乗の人は青と白に金の縁取りをした衛兵の衣装を着てヨリデュインの国旗を持つ。その後から数頭の騎士、中央にきらびやかな鎧を身にまとった美少女が馬で続く。アロージュの仮装である。馬の上からちらりとノルスを見た金髪の少女はすこし頬を赤らめた。あまり乗馬がうまくないようで、よそ見をする間もない、というようにすぐまっすぐに前を見てまた前を行く馬について進んでいった。
「綺麗な子ですね」
少女を目で追いながらノルスが言うと伯父もほほえんだ。
「リュスロみたいな海の街は、いろんな人間が行き交うから混血も多いんだ。混血児はしばしばひどく美しくなるっていうね。楽しいだろ?」
「ええ」
魔族との混血もだろうか、という考えがふとよぎる。人魚の娘というのは本当なのだろうか。だが、リュスロに滞在する期間はそう長くない。もう一度彼女に会えるのかどうかもわからないし、わざわざ尋ねて行くと伯父たちに言うのも気恥ずかしい気持ちがした。
リュスロの街の道は狭い坂道が海に向かって降っている。祭りの人でごった返す細い道を伯父たちに続いて登るノルスに、ときおり人がぶつかってくる。急いでいたのだろうか、どん、と、とりわけ強く後ろからぶつかられてノルスはすこしよろめいた。その途端、横にいた誰かにぶつかった。
すみません、と謝って振り向いた途端、ふわりと海の香りがした。
「あら」
「やあ、君か」
にこり、と彼に向けられた笑みはあの少女のものだった。
「今、偶然、君のこと考えてたんだ」
少女は声を立てて笑った。
「嘘ばっかり。女の子にはみんなそんなこと言ってるんでしょ」
「そんなことないさ。君だけだよ」
ノルスも笑って見せた。すこし緑がかった鳶色の髪は昨日のままだが瞳の色は今日はすこしちがって見える。
「今日は灰色の瞳なんだね」
「曇りの日はこんな色なのよ」
「本当に海の色を映すんだ」
「人魚って言ったでしょう」
ノルスはあらためてじっと少女の瞳を見つめた。彼女はすこし赤くなって顔をわずかにそむけた。
「本当に人魚の娘なの? じゃあ、あの女将さんは人魚ってこと?」
「いえ、あの人は育ての親。本当の母さんはもう死んでしまったの。人魚は陸には長く住めないのよ。無理して父さんと一緒に暮らして命を縮めてしまったんだってみんな言ってた」
「じゃあ今はお父さんと暮らしているの?」
少女は首をふった。
「人魚の鱗は薬になる、これを売りに行っておまえにもいい暮らしをさせてやるっていなくなってそれっきり。海で死んだのならウディロンに行くからわかるでしょ。少なくても海で死んではいない。陸で死んだかあたしのこと忘れてどっかで幸せに暮らしてるのか」
「え……」
思わず言葉を飲み込んだ。それは騙されたんじゃないだろうか。はじめから人魚の鱗が目当てだったとは考えられないか。金がほしくて彼女の母を、本当は陸に住めない人魚をたぶらかして死ぬのを待っていたのだとは。
言おうとして黙った。信じていた人に裏切られた、本当の父親が悪い人間だった、そんなことを聞かせたとして、彼女がそれで幸せになるというのだろうか。今、そんなことを言っても父親が戻ってくるわけじゃない、母親が生き返るわけじゃない。ここで笑っている幸せをそのままにしておいてあげるのが彼女のためなのかもしれない。
ウィージュは水滴がはじけて光を振りまくように笑みを見せ、ノルスもこたえて笑ってみせた。
「女将さんも海の男たちも結構かわいがってくれるのよ。ここがあたしの家で、あたしの家族だと思ってる。毎日楽しいもの」
ウィージュがふと、手を自分の頬に当てて顔を背けた。
「あたしの顔になにかついてる?」
「ううん」
ノルスがのぞき込むと彼女はますます余所を向いた。
「ぼくのことを君がもっと見てくれたらいいのにと思って」
そっと言うと少女の顔は真っ赤になった。こういう反応をする女の子は好きだと思った。娼婦の仲間かと思っていたけど、そうじゃないにちがいない。そうであればもっとすれていてもおかしくない。
「……馬鹿」
「馬鹿かな」
やさしく尋ねるとウィージュはちらっと彼の方を見て、すまなそうな目をした。
「ごめんなさい。馬鹿じゃない。あたしが恥ずかしいだけ」
そしてまた、日の光を水面に映す波のさざめきのように笑うのである。この笑顔をずっと見ていたいと思う。ほしいものを手に入れたいと、ときどきわき上がる欲求がまた頭をそっともたげてきていることにノルスは気づいた。
「ね、来て。いいものあげる」
ぱっと身を翻した少女は、急にノルスの手をとって坂道を駆け下っていく。雑踏の中、異国人で馴れない彼にはわかりにくい道なのだが、鳶色の髪を揺らして彼女はいともやすやすと人混みをわけて海への道を降りていく。
やってきた海は前に見た砂浜だった。明るい薄茶色の砂が一面に広がる美しい浜辺には、今は誰も人がいない。
「ぼく、以前に君をここで見たと思う。はじめてリュスロにやってきた日の夕暮れに」
消えただろう、と訊いていいのか迷って、言葉を呑んだ。ずっと走ってきたウィージュは息を切らして肩を大きく動かしている。
「大丈夫?」
「平気」
額の汗をぬぐってウィージュはまだ息をつきながら笑う。
「素敵な場所でしょ? ここの波が好きなの」
あっというまに皮の靴を脱ぎ捨てて少女は波打ち際に走り込んだ。白い波頭が絹布のように白い足に絡んではまた海へ引いていく。引いたかと思えばまた新しい波が迫ってくる。かなたにはどこまでも灰色の海が広がる。内陸で育ったノルスは水平線というものを知らなかった。
「ね、こっちに来て」