1
うららかな西風が潮の香りを運び、明るい南国の空に鴎がうたう。ヨリデュインの都リュスロは山と海にはさまれる港町である。緑豊かな山肌には、四年ごとに神が王を選ぶ白い神殿、そこから見おろす都の家々は白亜の壁を持ち、夕暮れどきには町全体が金の光に染まる。『黄昏のヨリデュイン、黄金に輝く海の国よ』と吟遊詩人は歌によむ。
到着したばかりの船からもやい綱が桟橋に向かって投げられ、出航準備の船には荷物を持った人々が次々と乗りこんでいく。
波止場に立つ少年の亜麻色の髪を、大海を渡ってきた海風がさらさらとそよがせていく。少年の緑の瞳は興味深げにじっと桟橋と人々の行き来する船に向けられていた。
「これが海なんですね、伯父上」
「そう、これが本当の海だよ」
「ぼくも伯父上の船に乗ってネイヘムまで行ってみたいです」
はは、と伯父と呼ばれた栗色の髪の男は明るく笑った。
「君はリカルディからミューレイノ河を下ってここまで来るのがはじめての船旅だったろう。本物の海の旅はそんなもんじゃないぞ。時化にあえばひっくり返りそうに船が揺れる。本当に沈んでしまったら、もうエルシノアにも帰れない。海の底のウディロンの宮殿で人魚たちに魂をもてあそばれることになる」
「ウディロンの宮殿?」
伯父を見つめた少年の瞳が開かれる。
「この辺の船乗りの伝説だよ。海で死んだ男は人魚たちの宮殿に連れて行かれる。そこで世界の終わりの日まで永遠に若い姿のままで人魚や魚たちと暮らすんだそうだ。いろんな国にいろんな伝説があって面白いね」
口を開こうとした少年の言葉は、飛んできた野太いヨリデュイン語で遮られた。
「旦那、積み荷が終わりましたよ! 一回見といてくだせえ!」
「わかった」
声を上げてヨリデュイン語で答えた栗色の髪の男、この商船の持ち主であるカルストル・メリディカインはもういちど少年に目を向けると、船に行こうといざなった。
呼んだ男は船長である。筋骨はたくましく、肌は浅黒く日焼けしている。栗色の髪の男は船長と船に乗り込み、積み荷をひとつひとつ確認した。
「護衛は十分なんだろうな。昨今、ネイヘム海域の海賊はますます荒れているそうだが」
「へえ、そりゃもちろんです。わっしが自分でひとりひとり水夫を選びましたんで、怪しいもんは鼠一匹乗っちゃいねえですよ」
カルストルはほほえんで、もやい綱を指さした。
「鼠にも気をつけろよ。そこの鼠返しが壊れかかってるぞ」
「おや、こりゃ気がつきませんで」
船長は慌てて配下の水夫を呼んでもやい綱の鼠返しを確かめさせた。
「ぼくもいつか、船に乗っていろんな国に行ってみたいです」
頬を紅潮させて、少年は傍らの伯父にヨリデュイン語で訴えた。それを聞いた船長が笑うと白い前歯が一本欠けているのが見えた。
「坊っちゃん、海の船酔いは生半可なもんじゃねえですよ。胃袋が裏げえっちまうぐらい、陸の男たちはみんな吐きますぜ」
「船酔いは個人差があるからな」笑みをたたえたまま栗色の髪の男は甥を見やる。「今回はぼくも乗船しない。またいつか、機会があったら一緒に海路で外国にも行ってみよう。君が長くエルシノアを離れることができるならね」
はい、と少年は夢見る顔でうなずいた。
商船の出航は明日の朝である。少年はその日、日がな一日、船の出入りを見て過ごした。
「好きなだけ見たら宿に帰っておいで。ぼくはまだ打ち合わせがあるから、ジリオンと兄の店に行ってる。道はわかるね?」
はい、と少年、ノルスはこたえ、伯父と別れてもうすこし波止場に近づく。
出る船は多いが帰る船は多くない。夜間はあまり航海しないので前の港を朝に出て夕方には次の港に着くのだと船長が教えてくれた。
商船、魚船、護衛の兵士を乗せた船……。漁船が波止場に着くと、どこから現れたのか大量の猫が湧きでてくる。漁師たちが慣れた手つきで小さい魚を投げると猫たちがわっと群がる。
港の風景に次から次へと目を奪われているうちにいつしか、日が西に傾いてきていた。西日が水平線に落ちていくとき、水面に輝く道のようにまっすぐに光が伝う。『太陽に向かう黄金の道』と歌われるこの光の現象をノルスは一度見たいと思っていた。これほど美しいとは思わなかった。たしかにヨリデュインには吟遊詩人が題材にしたがる光景が山ほどある。
ふとノルスは波止場から離れた砂浜に人影があるのに気がついた。ゆるくうねる長い髪とスカートは女の影のようだ。影は波打ち際をたわむれるように走って行く。少女が遊んでいるのだろうかと見るともなしに見ていたノルスは、次の瞬間、自分の目を疑った。
――消えた?
溺れたのかもしれない。最悪の事態を考えて思わず駈け出していた。波止場から続く木の橋の上をすぎ、岩で固めた堤防の上を走り、階段を探して砂浜に駆け下りる。
波打ち際を走った足跡は波に洗われてもう見えない。少女の姿は波間にも陸にもない。
「幻だったのか……」
考えてみれば、溺れるなら助けを求めるとか波間であがくとか、抵抗してもおかしくない。そんな騒ぎもなにもなくふっと消えたように見えた。あれは黄昏の光が見せた幻覚だったのかもしれない、と自分に言い聞かせるようにひとりごちた。
「太陽が欠けるときは魔物の時間。光と闇が混ざるとき、魔物たちが群れ集う」
いきなり後ろから年老いた声が聞こえてノルスは飛び上がりそうになった。誰もいないと思っていたのに。
ふり向くと皺の寄った小さい老婆が砂浜に立ち海の方を見つめていた。
「魔物……。ぼくが見たのは魔物だったんでしょうか?」
老婆は皺で隠れそうな目を細くした。笑っているのかまぶしいだけなのかよくわからない。
「夜明けと夕刻は風が変わる。船乗りにとっては凪は嫌なものじゃ。そういったことから魔物と言われるのかもしれん。ぼうやももうお帰り。夜の海は恐ろしいものがたくさんおる」
「はい……」
少女も老婆も、いきなり現れいきなり消えたように思えた。海はやはり、陸で育った自分にはわからないことが多いのかもしれない。
商人の宿は通常、それぞれの国の商業組合が共同して隊商専用の宿をあちらこちらに作っている。馬や大量の積み荷、大勢の人間たちが泊まれる設備をもつ大型の宿泊施設が必要なのである。
宿に帰ると、伯父と伯父の娘婿ジリオンは街の酒場に出かけていると教えられた。場所を聞いてノルスも店を探して夜の街に出かけた。
異国の夜の街はひどく面白い。森と畑や牧草地に囲まれた故国エルシノアと、港町のリュスロはなにからなにまで異なっている。城を囲む城郭に囲まれた街はエルシノアでも狭いが、ここは扇状に開けた土地に雑多に建物が広がって細い道が曲がりくねり、道を聞いていたはずのノルスも迷い迷い、土地の人に尋ねながらようやくその店、海猫亭に辿りついた。
伯父カルストルとジリオンはすでにかなりの葡萄酒を開けているようだった。船長と船旅の危険やそれを回避する手段について語りあっている。
「やあ、意外と遅くなったね。海はそんなに面白かったかい?」
「ええ」
答えながらノルスは、先に見た不思議な二人について伯父に話すべきか迷い、やはり黙っていることにした。今になって思えば少女だけでなく老婆も、夕暮れの海が見せた幻影のように思えてくる。ノルスは黙って三人の大人の話に耳を傾けることにした。
狭い店は船乗りらしい客でいっぱいだった。椅子と椅子の間をかき分けてやってきた女将が少年に笑みを投げかけて杯にワインを注ぐ。
「ぼうや、どっから来たの。きれいな顔してるわねえ」
「触んな触んな。おめえみたいなのには縁のない上品な坊っちゃんだよ」
船長がぶっきらぼうに女を追い払う。
「あら失礼な。坊っちゃんだっていつかは大人になるんだよ。酒場の流儀ってやつをここらで教えてあげてもいいじゃないか」
「いつかってなあ今じゃねえよ。下がんな」
酒場の女がまだぶつぶつ文句を言いながら船長に追い立てられて奥へ下がっていくのを横目でちらりと見て伯父は話題を変えた。
「ヨリデュインの酒ははじめてだったかな? ハルシアやバルラスの葡萄酒とはちがうだろう。これはいいワインだと思うかい?」
ノルスはワインの香りを確かめ、そっと少し味わってみた。たしかに飲み慣れているハルシアやバルラス、エルシノアのものとはちがう。
「そうですね……」間違えた答えをしないよう、ノルスは慎重に考えた。「どうもあまりぼくの好きなものではないようです」
「さすが、いい舌をしている。ヨリデュインはハルシアほどいい葡萄ができないんだ。だから醸造に工夫して独特の味を出している。そういうのも飲み慣れてみないとわからないんだがね」
「義父上は難しいことをおっしゃる。馴れないといけないのは何でもそうじゃありませんか」
すでにだいぶ酒が入っているジリオンが笑っているところへ、すっとほっそりした手が盃を差しだした。
「失礼、じゃあ真珠酒はどうかしら」
手の方をふり向いてノルスは、あれっと思わず声を上げた。まだ二十歳にもならないだろうか。鳶色の髪の少女が笑みをたたえて立っている。すこし緑がかったような不思議な髪の色は、あの浜辺で見た少女のものだった。瞳の色は深い海の色。
しばらくノルスは彼女から目が離せなかった。おずおずと彼女の差し出す杯を手に取ったとき、別の方向から、からかうような野卑な笑声がどっとあがった。
「ぼうず、そんなのは偽もんに決まってら。真珠酒ってのぁな、ウディロンの宮殿で人魚たちが海の勇者をもてなす酒のことだ。こんな場末の酒場にある酒なんざ、真珠酒であるわけがねえ」
だみ声はガルガントゥ語である。海賊たちなのかもしれない。伯父がちらりと振りかえる。ガタンと椅子が鳴る音とともに背後からヨリデュイン語の罵声が走った。
「なんだと? この海猫亭のウィージュを知らんのか。こいつぁな、本物の人魚の娘なんだ。この髪の色を見ろ。目の色だって、今の海の色を映してるんだ、本物の人魚の証拠だろうが」
ガルガントゥ人たちの嘲笑がわっと高まる。
「本物の人魚だあ? 笑わせんな。紛いもんの真珠、紛いもんの魔物、怪しいやつはいくらでもいるさ。船乗りが命を賭けて稼いだ金を一晩で持っていきやがる女は、こんな港にゃあ掃いて捨てるほどいるさ」
「野郎、ウィージュを馬鹿にするのはおれたちが許さねえ」
数人の男が怒気をふくんで立ち上がり、ガルガントゥの男たちが椅子のまま振りかえる。船長がノルスの腕をとって、そっとささやいた。
「坊っちゃん、場所を移りやしょう」