新鮮な驚き
私は、ビックリすることが好きだ。
私が語学学校に通っていた頃から漠然と、「将来は海外で暮らしたい」と考えるようになったのも、この、「ビックリ好き」が主な理由だったかもしれない。
外国で暮らすということは、ビックリの連続だ。それは自分にとって今まで当たり前すぎて、改めて考えたことすらない「常識」を、ポンッとひっくり返されてしまうことだが、これがなかなか楽しい。
例えば最近こんな事があった。
うちの大家さんの家で、ある日ホームパーティがあった。次の日に家の掃除を手伝っていたんだけれど、「いっぱい人が来てたし、床が汚れただろうからモップがけするよ」と言ったら、大家さんが、「いや、大丈夫だよ。みんな靴履いてたからキレイだよ」と、言った。
面白い!と思った。私たち日本人の感覚だと、「裸足=キレイ、靴=汚い」という固定観念が当然あるけれども、彼らにとっては逆なのだと気づいた。まさに、目から鱗。でもそう言われてみれば確かに、他人の素足ってちょっと嫌な気がする。自分の家に上がってもらうのに、相手によってはむしろ靴のままのほうがありがたいかも・・・・。
些細な事だけれども、こういう、日常生活の中のちょっとしたビックリが、私には楽しい。
実は靴の事はずっと長い間疑問だった。脱ぐべきか、脱がざるべきか。教科書通りの常識としては、「西洋文化圏では、家の中でも靴を履いたまま」が正解なのだろうけれど、実際にオージーの家に行ってみると、ケース・バイ・ケースなのだ。しかも家によって、「この家では脱ぐ、この家は脱がない」って決まっていれば分かりやすいのに、同じ家でも履いていたりいなかったり、その時々によって違うのだ。さらに私の住んでいるような田舎町では、外や街中でも裸足だったりするし。
人の家に上がる時に、脱いだほうがいいのか一応聞くんだけれども、その答えがまた曖昧。たいてい、「ん?脱ぎたかったら脱いでもいいよ!」という答えが返ってくる。どっちがベストなのか分からない。
なので、「脱いでも脱がなくても、どっちでもいい」が正解だと何となく思ってきたのだけれど、今回の大家さんの発言でちょっと気になったので、周りの人に色々聞いてみた。そうしたら自分が今まで少し勘違いしていた事が分かった。
つまり、「靴を脱ぐ」というのは、リラックスするという事なのだ。ちょうど、男性が仕事を終えて飲みに行くとき、ちょっとネクタイをゆるめたりするような感覚だろうか。そして、あまりお行儀の良い行為ではない。なので、例えばちょっと堅苦しい感じの人だとか、特に年配の方の家では脱ぐのは当然NGだ。オージーに聞いた時の回答が「脱いでもいい」というのは、「お行儀なんて気にしないでいいよ、くつろいでね」という意味だったのだ!
またまた、新たな発見にビックリだ。
小さな子どもが、よく線路脇などで、ずーーーーーーーーっと飽きもせず電車を見ていたりする。ポカンと口を開けたまま。信号が青になっただけで大喜びしたり、目に映る物を一つ一つ丁寧に指差して何か大声で叫んだりする。あれは、彼らにとってそれが新たな発見であり、驚きだからなんだろう。大人である私達には、電車はただの電車、信号は単なる信号。もう何十年も見飽きている、街中の光景の一つに過ぎない。でも彼らは、まだこの世界にやってきたばかりだ。何もかもが珍しく面白いから、いちいち一つ一つ感動する。大人である私達は、かつての自分もそうだったことを思い出しすらしない。だけどその私達が、自分の住み慣れた場所を離れて違う文化を持った他の国に行くと、もう一度それと同じ感覚を味わうことになる。子どもと全く同じ、その世界の新参者だ。住み慣れた人にとっては何でもないものが、珍しく面白い。お菓子のパッケージや、道行く人の服装や、街中のオブジェ。
私はこの、「この世界にやってきたばかりの子どもの感覚」を味わうのがとても好きだ。これこそ、旅することや別の土地で暮らすことの醍醐味だと思う。
でも、何も外国まで行かなくたって、世界を改めて新鮮な目で見つめてさえみれば、この世の中は意外と驚異や不思議に満ちているのじゃないかと思う。
先日本を読んでいる時に、ふと思った。自分が、文字を読めるということは、驚くべきことだ。
現代の先進国に産まれた人間にとっては、それは当たり前の常識だ。でも、もしも、私がほんのすこし違う場所、違う時代に生まれていたら?文字の読み書きが出来なかったというのは、充分あり得た話だ。実際、今でも世界の10数%の人は文字が読めない。女性であればもっとこの比率は高い。
もし、自分が読むことが出来なかったらどうだろう。生きていくのに必要な情報は、人に口頭で聞くしかない。今までの人生で読んできた名作の数々、シャーロック・ホームズも、太宰治も、コクトーも、あれもこれも、読むことなく一生を終えるのだ。そんな人生は想像もつかないが、文字が読めて、遠い過去、遠い場所に生きた人の書いたものを今読むことができるということは、改めて考えて見れば驚異だ。だってそれは、時代や場所を超え、友人を持つということなのだから。
人はいつも、身体の健康や若さにはとても感心を持っている。TVも雑誌もその話題で埋め尽くされていると言ってもいいくらいだ。でも、心の健康や若さって、身体のことほど、あまり語られる事がない気がする。確かに目には見えない部分だけれど、心が健やかで、どこかに子どものような新鮮な目線を持ってさえいれば、身体の方も自ずとそうなるんじゃないのかなあ、なんて私はのんきに考えている。
健康に良いとされているものを買うよりその方が安上がりだし。
ちょっと前にデトックスというのが流行ったけど、言うなれば、心のデトックスをしてみるというのはどうでしょうか。たまの休みに、自分の中の子供の感性を呼び起こし、心のなかに垢のようにたまった「常識」を洗い流し、新鮮な目で世界を見てみる。というのは。
なんて、こういうなんの役にも立たないことをいつもボンヤリ考えている、私のような人間は決して出世しない。まあでも、そういう存在もないと世の中はずいぶんつまらなくなってしまうだろうから、いいかと考えている。枯れ木も山の賑わいだ。