はるばるオーストラリアにやって来たよ
自分の考えや感情を人にうまく伝える事が、もうどうしようもなく苦手だ。そのくせ、ペラペラと調子よく喋る。苦手なら黙っていればいいものを。結果、そんなつもりで言ったんじゃないのに気まずい空気になったり、時には相手を怒らせたりすることもある。
そういうダメ人間なので、自己紹介なんてのはもう、苦手の中でも最たるものだ。先日このサイトに初めて自分の書いたものをアップさせてもらったんだけれども、作者の自己紹介欄の入力でさんざん考えた挙句、うまいこと思いつかなかった。結局空欄にしておいたものの、やはり作者の人となりだとか、そういうものが多少見えた方が見知らぬ人々にも読んでもらいやすいだろうなと思う。そこで、自己紹介がてらにエッセイを書くことを思いついた。限られた文字数で手短にうまいこと自分を説明するより、その方が楽だ。
それにせっかく10年もオーストラリアに住んでいるのだから、こちらでの日々の生活の事やら、オーストラリアの人々の事やらをつらつらと書けば、この国に多少でも興味のある人たちに楽しんでもらえるかもしれない。これは書かない手はない。と、考えたわけです。
あとなんか、いつも暗ーい重たーいものばっかり投稿してて、なんか私このサイトでアウェイな感じするし。ここらで一発、「軽い読みもの」のひとつも書かなくては。
エッセイなんて、小学校の時壁新聞を作って以来書いたことはないけれども、まあ物は試し。ちょっと書いてみようと思う。
ストーリー形式で自分史みたいなものを書いていくつもりはないのだけれども、とりあえず今回は初めてなので、私がオーストラリアに来る事になった背景や、最初にここに来た頃の思い出なんかを書いてみようかなと思う。
この国にやってきてもう10年位になる。ビザの関係で、一時期は日本とこちらを行ったり来たりしていたものの、紆余曲折を経て2年ほど前にようやく永住権を取得し、晴れて正式にこの国の住人として認められたわけである。(永住権というのは国籍とはちょっと違い、「この国に好きなだけ住んでていいですよ」という、国が発行する許可のようなもの。発行には色々な条件があるのです。)
オーストラリア北東部、ブリスベン空港に初めて降り立ったのは、11月だった。
そもそもなぜここにやって来たのかというと、話はその数年前に遡る。
当時私には、数年来付き合っている人がいた。ある時その人が交通事故に合った。なんでも手首を複雑骨折したとかで、地元、神奈川の病院にしばらく入院した後、その道の専門医がいる静岡の病院に転院し、1、2ヶ月ほど入院することになった。
当時普通の会社員だった私は、週末などまとまった時間がある時に新幹線で静岡の病院に見舞いに通った。ゆっくり過ごすこともできない、ストレスのたまるそんな生活の後、退院が決まったときにはホッとした。2人で久しぶりに、どこに行こうか、どう過ごそうかと、ウキウキした気持ちで退院後最初のデートに行った私に付きつけられたのは、「別れてほしい」という言葉だった。アメリカに行くからと。
なんじゃそら。その人が以前アメリカでしばらく働いていた事は知っていたが、なんだか安っぽいドラマみたいな展開で、最初は冗談かと思った。しかし話を聞くと、何でも、入院中にアメリカ時代の知り合いから仕事のオファーの連絡が来たと。もう一度アメリカで仕事をしたいという思いがずっとあったと。その話を受ける事にしたが、遠いところをわざわざ会いに来てくれる私に申し訳なくて、別れ話をずっと切り出せなかったということだった。早く言えよ。
私は、一緒に行くと言い張った。しかし相手は、言葉も不自由な外国で大変な生活になる。自分の事だけで手一杯。2人で幸せになれるか自信が無い。そんな風にトクトクと諭され、結局私は振られてしまった。
しかし私は自分で言うのも何だが、意地になる性格だ。私は、こうと決めたら、誰が何と言おうとやる。反対されればされるほど、やる。
連れて行ってくれないのなら、自分は自分で行ってやろうじゃないの。と閃いた。今自分でこれを書きつつ客観的に見てみれば、うん、自覚してます。ちょっとコワイですね。
しかしそれからの数年間、私は根性で貯金をした。アメリカへの留学費用を貯めたのだ。英語も勉強した。中学高校時代には1と2しか取ったことがない英語を。英検4級から初めて、なんとか2級合格までこぎつけた。
数年後、手元には400万の資金があった。これだけあれば充分だ。いよいよ留学準備にとりかかり、相手のいるシカゴの語学学校やら生活の情報やらを集め始め、会社も辞めた。
さて、ここでふと私は我に返ったのだ。それでいいのか?と。
相手とはもうとっくに連絡を断っていた。今どうしているやら、そもそもまだシカゴにいるのかも分からない。今にして思えば、共通の知り合いにでも聞けば分かることだったが、聞かなかった。
私は400万の預金通帳を眺めた。数年間、がんばって節約した資金。これで、何でも自分の好きな事ができるのだ。他人の背中ではなく、自分自身の人生が追えるのだ。
そう思ったら、あんなに好きだったはずの相手の事はどうでもよくなった。私は行き先を変更した。数年間で、学生の頃あんなに嫌いだった英語が好きになっていて、もっと勉強したいという思いが生まれていた。留学先にオーストラリアを選んだのは、費用が比較的安価なこと、治安がいいこと、それくらいの理由だ。その時にはまさか、自分がこの国に骨を埋めることになるとは思ってもみなかった。
ちなみに余談だが、この私の元恋人、実は私と私の友人に二股をかけていて、その友人の方を伴ってアメリカに行ったそうだ。私はその友人とはその後疎遠になっていたのでさっぱり知らなかったが、つい最近になって人づてに聞いて驚いた。人間て、口先だけならどんなキレイ事も言えるもんだなあ、と笑ってしまった。
ブリスベン空港からほど近い、ゴールドコーストの街に初めて着いた時の興奮は、今も思い出す。私は今まで海外旅行は、韓国とハワイにちょっと行った事がある程度だった。だが今回はそれとは違う。半年間学校に通い、「生活」をするのだ!
1人っきりで、ここまでなんとか辿り着いたのだ。
ゴールドコーストで3泊してその間街を見物し、その後、留学先の語学学校がある田舎町に向かう予定だった。ゴールドコーストにも沢山の語学学校があって、日本からの留学先としてメジャーだけれども、私は、日本人同士でつるんでしまって結局あまり英語が上達しないという、よくある事態を避けるため、なるべく日本人の少なさそうな田舎の学校を選んだのだ。
3日間、街を見て回った。見るもの聞くもの、全てが新鮮。最初の夕飯に何を食べたか覚えている。レンジでチンするトマトソースのパスタだ。(今どきチンするって言わないか・・・・。)たかがそれだけのものが、やっぱり珍しくてウキウキする。ホテルの部屋の備え付けのレンジでチンして、窓の外の夜景を見ながら食べた。そのパスタは今でもスーパーで見かけるが、まずくてとても食べられたもんじゃない。でもその時の私にとっては、一流ホテルのディナーを凌ぐ、最高の夕食だったのだ。
ビクビクオドオドしながら学校のある町でバスを降り立った私を、派手な金髪のお姉さんが大声で迎えて、ちょっと引いた。この町の小さな語学学校で、入学申し込みと同時にホームステイの手配も頼んでおいたので、学校のスタッフがバス停まで迎えに来てくれたのだ。
踊るような身振り手振りの、そりゃあド派手な、金髪の外人さん。(後で聞いたらブラジル人だった。)誰だってビビる。私はフィービーだよ、よろしくねー!と超明るく言ってきた。私も片言の英語で挨拶を交わした後は、じゃあいくよー、車のってのってー!と促される。小さな町なので、5分も走ると車はホームステイ先の家についた。迎えてくれたのは、オーストラリア人とニュージーランド人のまだ若いカップルだった。それともう1人、シェアメイトといって紹介されたのは、まるで映画に出てきそうな金髪の美少年。今が旬の20歳。どひゃあ。
私を家族に引き合わせるとフィービーは、じゃあ私もう行くね!明日学校でね!と、さっさと帰る素振りを見せ始めた。えええええそんな!!頑張って勉強してはきたものの、私の英語はほとんど片言。家族の人たちとうまく会話できるか全然自信無い。まってよー、もうちょっと居て、なんとか場をつないでよー!という私の心の声も虚しく、彼女はさっさと行ってしまった。
しかし案ずるより産むが易し。家族の人たちはこれまでにも何人か留学生を迎えた事があって、英語が下手な人間に慣れていた。部屋に案内してくれて、こちらがリラックスできるように気を配ってくれた。「おもてなし」だ。気遣いというのはまるで日本人の専売特許のように言う人がいるけれど、そんな事はない。ちゃんとそういうものは、他の国に行ったってあるのだ。ただ人によるし、やり方やその形が違うから、お互いの無知ゆえに誤解を招くような事も多々あるのだけれど。
ちょっと話がそれるけれども、こちらに来て最初の頃は、日本人である自分と、外国人である人々が、どれだけ「違う」かにばかり目が行っていた。「違う」のだと、ずいぶん長い事思っていた。そりゃあそうだ。だってもう、見るからに違う。何もかも「違う」。でもこちらでの生活が長くなるにつれて、「同じ」である部分に、より目が行くようになった。
夕方の公園のベンチで、ティーンネイジャーの女の子がシクシク泣いている。傍らにはその友達が、肩を撫でて慰めている。ちょっと聞こえたところによると、どうやら彼氏にふられてしまったらしい。
たまたま手にとった、ローティーンの子が読む雑誌の相談コーナー。「転校した新しい学校で、ボス格の子の親友と仲良くなってしまった為に、クラス全員に無視されるようになった。どうしたらいいですか」という質問。
まだ14歳の息子のバッグからコンドームを発見してしまい、オロオロするお母さん。嫁姑問題。遺産相続のゴタゴタ。反抗期。
表面的な事や習慣や考え方は違っても、何というかもっと根本的なもの。そういうものは国や文化が変わってもやっぱり同じ人間で、変わらないんだなあ、と感じる事が、だんだん多くなっていった。
親切なホストファミリーは、翌朝、オージー風の朝食をごちそうするよ!といって、オーブンでローストしたトマトやじゃがいもや卵の料理を作ってくれた。これがウマイ。トマトをかなり分厚く切ったやつを、シンプルな味付けで、オーブンでじっくりローストしたようなものだったと思う。食べてから学校へ行った。その日は初日なので、入るクラスを決めるための簡単なテストと面接があったが、私はここで大ショックを味わう事になった。
「ライオン」とか、「レッド」とか、超基本単語のはずなのに通じないのだ!え?と聞き返される。一応、日本でそれなりに勉強してきたつもりの私はかなりショックだった。今にして思えば、日本人には難関の、LとRの発音がきちんとできていなかったのだ。というか今でもあまり、きちんとできてないけど。
学校から帰ると、金髪美少年君が、友達とリビングで映画を見ていた。この友達、実は昨日もいた。その後おいおい分かったことだが、彼、毎日来るのだ。美少年君と2人でサーフィンに行き、2人で夕食を作って食べ、2人で映画を見る。仕事以外、1日中一緒。夜までずっと喋って、また明日ね~と自宅に帰っていく。
数週間が過ぎる頃、私はピンときた。ああ、そうなのか!と。今までゲイの人に身近で接する機会がなかったから気が付かなかったなあ、なんだ、それなら分かる。と1人納得した。
ところが違った。その後しばらくしてからのある日、美少年君とお友達君それぞれのガールフレンドの話題が、ホストファミリーの間で交わされていたのだ。
ビビった。カップルと思った時にも驚いたが、カップルじゃないのにこれだけ一緒にいる方が、むしろもっと驚きだ。
その後の数年間で分かってきたことだが、これがいわゆる、オージーの「マイト」というやつらしい。Mate、つまり友達という意味で、特に親しい相手でなくても形式的に使われることもある言葉だが、ここではいわば「親友」のような意味だ。オージー男子にはけっこうな確率で、いつも一緒につるんでいる「マイト」がいる。彼らは基本的に寂しがりやだ。人と一緒に時間を過ごすのを好む。仲良しの2人は何だかんだ、いつもつるむ。別にゲイなわけでも何でもないのだった。
これが、私がオーストラリアで体験した最初の「ビックリ」だったかもしれない。
と、まあこんな調子で、色々と新鮮な驚きを味わいつつ、私のオーストラリア生活はスタートしたのでした。