赤の斧
木々の間を風が吹き抜けていく。木こりは本当に生き返った心地だった。以前はただ仕事のために通っている道だったが、何もかも新鮮ですばらしい景色に思えた。ずっと閉じこもっていたのが嘘のように足取りは軽やかだった。それを見てAは笑った。
「そんなにはずんで、羽でも生えたみたいだね」
「ああ、空も飛べそうだ!ところで、その荷物は?」
木こりはAの持っているバスケットを指した。薄いピンクの布がかかっている。
「お弁当だよ。いい気晴らしになると思って。」
「それはいいな。よし、いい場所を知っている。ついてきてくれ!」
二人は緑の少し開けたところに来た。木こりは陽当たりのよいところに腕を組んで寝転がった。
「いい場所だろう?ほかの誰にも教えたことがないんだ。」
「さすがだね。それなら見られる心配もないよ。」
木こりの不思議そうな顔を横に、Aはバスケットの布をとって中身をとりだした。それはどう見ても弁当ではなかった。
「…お前、なんでそんなもの持ってるんだ」
「君の家の納屋にあったのを借りたんだよ。これがいちばんお気に入りでしょう?」
「ふざけるな、いたずらにしてはタチが悪すぎるぞ!」
「いたずら?いや、私はいつだって真剣だよ。君はすぐに冗談や悪ふざけということにしてしまうけれど、そのたびにどれだけ私が傷ついたか知ってる?きれいに飾ったバラの花もせっかく作った朝ごはんも、勇気を振り絞ってした告白も、全部なかったことにしたじゃないか!」
「バラ?…まさか、あれはお前がやったのか?」
「こんなに近くに君を何よりも大切に思っている私がいるのに、君は知らぬふりをして、見せつけるようにほかの女の人に贈り物までした!」
「一体なんの話だ!?」
「ほら、そうやってすぐにとぼける。このスカーフだよ、忘れたとは言わせない」
Aはピンクの布を木こりの目の前に突き出した。
「違う、拾っただけだ。…それをどこで手に入れた?」
「君はそうやってすぐにとぼけるからね。私はもっと積極的に行動を起こすことにしたんだよ。」
Aはスカーフを愛おしそうに首に巻いた。木こりは願った。村長の娘が無事に隣村の男と逃げおおせ、幸せに暮らしていることを。
「でもさ、やっぱり生きてるかぎりは安心できないよね。君は蝶みたいにひらひら飛んで行っちゃうから。そしてバラの花には見向きもしない。」
「おい、斧を下ろせ…何だか知らないが悪いことしたなら謝る!」
「別にもう怒ってないよ。これで君は永遠に私のものになるんだからね。最後に喜ぶ顔が見れてよかったよ。さようなら。」
「待て!やめろって!」
Aは斧を勢いよく振り下ろした。木こりはすばやく避けたが、わき腹に傷を負った。血がほとばしりとうめき声が漏れる。恐ろしいことにこれが初めてではないようで、相手の目には全く迷いがなかった。やらなければ、やられる。
「あの子を殺したな!」
「だったらなに?やっぱり仇をとるほどの仲だったの?」
木こりはぐっと歯を食いしばり、Aの顔めがけて突進した。向かってくるとは思っていなかったのか、Aは頭突きをまともにくらい仰向けに倒れた。木こりはAの手が緩んだすきに斧を取り上げわきに投げた。両腕を地面に押さえつける。
「すごい力だね。全然動けない。」
「…職業柄腕力には自信がある。」
「そっか。じゃあさっさと首を絞めるといいよ。」
木こりは一瞬ためらいの表情を浮かべたが、横に首を振った。
「いや、このまま気絶させて連れて帰る。村のみんなには本当のことを話す。」
「信じるかな。今や君は狂人扱いされているんだよ?私が目を覚まして君にひどいことをされたと言えば、たちまち立場は逆転だ」
「…全部想定内ってことか。計算高いな」
「顔が青いよ。さっきの傷、けっこう深かったみたいだね。赤くてきれい。」
木こりは急激に意識が遠のいていくのを感じた。
「薬も効いてきたみたいだね。君、医者が処方したやつ全然飲んでなかったでしょ。だめだよ、病人はちゃんと医者の言うことを聞かなきゃ。」
Aは木こりの腕を振り払いゆっくりと立ちあがった。飛ばされた斧を拾いにいく。
木こりは知り合いの顔を思い浮かべた。面倒見の悪い叔母、根は優しいいとこたち、騒がしい仕事仲間、陽気な酒場の亭主、誇り高い村長…
「…だめだ、こんなやつを野放しにしたら…」
木こりは最後の力を振り絞って立ちあがった。かがんで斧に手を伸ばす狂人に後ろからそっと近づく。スカーフの両端をつかむ。
「ずっと友人だと思っていたのに、なんでだ」
「…だからだよ」
Aの最期は恐ろしく静かに訪れた。一度苦しそうな声を上げた後は、まるでそれを望んでいたようにあっけなくこと切れた。木こりはもうあらゆる感覚と感情を失っていた。悲しみの涙も出なければ、勝ったと喜ぶこともなく、ただ何かに動かされるようにして穴を掘って遺体を埋めた。準備のいいことにバスケットにはスコップも入っていたので、それを使った。それから、手帳に何やらさらさらと書きとめ、血を洗い流しに斧を持って川へ向かった。
その後、木こりの姿を見たものはいない。