木こりの手記
ここに記すのは真実であり、断じて妄想ではない。おのれの名誉のために書き残しておく。
5月10日
木を伐りこんでいる間、ずっとこちらを見ている女性がいた。村の人には違いないが遠目なので誰かはわからなかった。声をかけようと近づいたら走って逃げてしまった。帰り道、淡いピンク色のスカーフを拾った。あの人の落し物だろうか?
5月11日
仕事に行く道の途中で村長の娘さんに出くわした。きょろきょろと辺りを見回しているので、何かお探し物ですかと声をかけると、飛び上がって小さく悲鳴を上げられてしまった。何だか悪いことをしたようなので早々に立ち去ろうとすると、慌てて呼び止められ、ピンクのスカーフを見なかったかと聞いてきた。思い当たってズボンのポケットからしわのできたスカーフを取り出して渡すと、顔を真っ赤にしてつかみ取った。このことは絶対に他言しないでほしいという。不思議に思ったが誰にも言わないと約束すると、安堵した様子で厚く礼を述べ、走って行った。美人で良識もあるのに、変わった人だ。
5月15日
叔母の家で畑仕事を手伝ったあと家に帰ると、玄関の様子がいつもと違っていた。真っ赤なバラが一輪ドアの取っ手に差してあったのだ。一体誰が?と思いをめぐらしてみるが、これという心当たりがない。いい年なのにさみしい話だ。もしかすると村長の娘さんがこの前のお礼に来たのだろうか?…まさか、自分にはもったいない話だ。きっと友人の誰かの悪ふざけだろう。
5月20日
夕食を食べているとき、窓から誰かがこちらをのぞいていた。叔母が訪ねてきたのかと思い窓を開けたが、すでにいなくなっていた。食後に訪ねていったが、ずっと家族と家にいたという。案外追っかけでもいるんじゃないかと茶化された。家に戻るとドアに真っ赤なバラが一輪差してあった。
5月24日
酒場で友人のAと出くわし、久しぶりに飲んだ。また怠け者の兄の愚痴を聞かされるのかと思ったが、まじめな恋愛相談だった。そういう話には疎いのだが、Aがおごるというので付き合った。Aは長年片思いをしていたが、ついに相手方に恋人ができたらしい。毎日どこかへ出かけていくが行先は教えてくれず、以前は親しくしゃべっていたAともまともに取り合わなくなったという。諦めろと助言する代わりにどんどん飲ませたら、泣いてすがってきた。結局こっちがおごったうえに家まで送り届けるはめになってしまった。それにしても、恋は盲目とはよく言ったものだ。ここまで夢中になれるとは、一体どんな魅力的な人物なのだろう?酔っているうちに名前ぐらい聞いてみればよかった。
6月14日
このところベッドに入ってもなかなか寝付けない。酒の力もあまり効果がない。毎日ドアにバラを差していく人物が気になっているせいかもしれない。もう小さな花瓶には入りきらなくなってしまった。村長の娘さんにも尋ねてみようとはするのだが、あの一件以来どうも避けられているようでなかなかつかまらない。仕方ない、特に実害はないし、放っておこう。
6月17日
朝起きるとテーブルに朝食が並んでいた。どれもまだ温かく、作ったばかりのようだった。気味が悪い。叔母がこんなことをするとは思えないし、もちろん知り合いにもこんな親身に面倒を見ようなんてやつに心当たりはない。動揺して花瓶を倒してしまい、慌てて起こしたときに気がついた。枯れかけていた花が全部新しくなっている。花瓶のそばには折りたたまれた紙切れが置いてあり、恐る恐る開くとこう書いてあった。
「飾ってくれてありがとう。これからも毎日取り換えに来ます。」
急に背筋が寒くなり、ゾクッとして後ろを振り返った。窓は閉まっており、人影はない。玄関の鍵も内側からかかっている…
耐え切れずに家を飛び出し、叔母の家に避難した。いとこたちに笑われたが、どうしても一人で帰る気にはなれなかったので、さらなる恥を承知で付き添ってもらった。すると、あろうことかテーブルはきれいに片づけられ、花瓶も跡形もなく消えていた。夢でも見ていたのだろうと言われ、腑に落ちないまま寝室に戻った。
…ベッドの脇の丸テーブルには真っ赤なバラが咲き誇っていた。
6月18日
もう我慢ならない。こんなこと続けられては精神が参ってしまう。真相を確認するため、思い切って村長の娘さんを呼び出した。娘さんは明らかにに不安そうな顔をしたが、しぶしぶ応じた。とはいえ、向こうの体裁も考えて一応森の中の人気のない場所に連れ出した。遠巻きに、毎日こそこそ出かけているのはどういうわけかと聞くと、観念してわけを話した。彼女は隣村に好きな男がいて、こっそり会っているというのだ。意外なところに話が飛んで面食らったが、好奇心からなぜ隠そうとするのかと聞いた。すると、彼があまり品のいい仕事をしていないからだと答えた。つまり村長の名誉のために黙っていたらしい。以前拾ったスカーフはその男の贈り物だった。もうすぐ二人で他郷へ行き新しい生活を始めるつもりでいるので、どうか見逃してほしいという。他人の恋路を邪魔するつもりは毛頭なかったので、成功を祈ると伝えて解放した。感謝に満ちた目で礼を言われたが、こちらはそれどころではなかった。彼女でないとしたらあのバラの犯人は一体誰だ…
ひとりでいる気には到底なれなかったので、しばらく叔母の家に泊めてもらうことにした。
6月20日
いつまでも仕事を放棄するわけにもいかず、道具を取りに戻った。恐くて家の中には入れず、納屋に足を向けた。何も変わった様子はなく安堵した。すぐに愛用の斧を持って外に出たが、そこで気づいた。刃が赤黒く変色している。さびではない…まさかと思ってもう一度納屋の中をよく見ると、点々と続く赤黒い小さな染みを見つけた。恐ろしくなり斧を手放した。柄の部分にも指の形の染みがついていた。取り返しのつかないことをしたような錯覚にとらわれ、走って手を洗いに行った。違う、自分はやっていない。何度も言い聞かせてふと思い起こす。あのバラも、いつの間にか作られていた朝食も、すべては自分でやったのではないか?自分は夢遊病にかかっていて、知らぬ間にとんでもないことをしでかしているのではないか?寝つきが悪いのも意識せぬうちに眠っているせいではないか?一度疑念を抱くともう振り払うことができなくなった。このままでは叔母たちにも危害を加えるかもしれない。居ても立ってもいられず、すぐさま自分の家に閉じこもり、いとこに外から鍵をかけてもらった。ついにおかしくなったと蔑まれたが、ひとまず安心できた。正常に戻るまではなるべく外出を控えなければならない。大丈夫だ、数日休めばきっと良くなる。
6月22日
閉じこもって3日目になるが、怖くてずっと寝つけずにいる。心配したいとこが様子を見に来たが、気味悪がってすぐに帰ってしまった。それから医者が診察に来て、浮かない顔で何かの薬をおいて出て行った。あまり長居したくない様子だった。それでいい、誰もいなければ危害を加えてしまうこともない。
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眠りかけては起きるということを繰り返している。食料が底をついたが、調達する気力もない。ああ眠い。耳鳴りで頭が割れそうだ。眠い。
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いつのまにか眠ってしまったようだ。良い匂いで目が覚めた。体を起こそうとしたが力が入らない。誰かが背中を支えゆっくり起こしてくれる。温かいスープがのどを通る。誰だろうと思って横を見るとAだった。心配して見舞いに来てみたら、床でぶっ倒れていたので心底驚いたという。しばらく看病してやるから大人しく寝ていろと言われた。有難い、もつべきものは友人だ。おかげでこうして日記を書くこともできるようになった。しかし今日は何日だろう?
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Aが来て3日目。だいぶ回復してきた。正気が戻るにつれ、眠っている間に何かしたのではないかという不安にまた襲われた。Aに相談すると、妄想にとらわれるのは家に閉じこもってばかりいるからだと指摘された。そこで、これから散歩に行かないかと誘われた。確かに少し神経質になり過ぎていたのかもしれない。あのとき斧に血がついていたのだって夢だったのかもしれない。そうだ、そうに違いない!少し希望が出てきた。外の空気を吸えば気分も明るくなるだろう。だが気持ちの整理が必要になったときのために、この手帳だけは持ち歩いておこう。
どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。
夢遊病なんかじゃない。本当の狂人だ。
もう取り返しがつかない。