その男に
天江雷寿は恐ろしい男だ。
自分よりも年若い武将の残酷さを知りながら、その男に屈しないと決めた男が居た。
多々良岩蝉。百二十万石を有する土着の武家で、由緒正しい血筋とその厚情から朝廷や傘下の武家、更には民からも厚い信頼を得ている。
その当主である岩蝉に朗報が届いたのは、十日前だった。
使者として天江の海鶴城に向かわせ、連絡が途絶えていた重臣の十坂剛砂が、傘下の山尾家の咲垣城に現れたのだ。それも酷い姿だったと言う。剛砂の行方を探って海鶴城下に忍ばせた家臣等に支えられ、なんとか辿り着いたようだった。
しかし、酷く汚れて見窄らしい姿をしていても、身体の具合はそれ程悪くはなかったらしい。ぎりぎり食う物はあったのかもしれない。
正直、岩蝉は全く疑心を抱かなかった訳ではない。海鶴への使者に自ら手を挙げた剛砂を、僅かばかり疑った事は否めない。何しろ十坂を名乗る前は、天江の家臣であった玉井出を名乗っていた男なのだから。それも、噂では天江雷寿の信頼を一身に受けていたようだった。
十坂家に入ってからは、しかと十坂の為に、延いては十坂の主家の為に尽くしてきた事はよく解っていたし、十坂家が多々良家に召し抱えられた後も、多々良の為にその知略を活かしてよく働いてくれていた。
ただ、初めて会った時から、岩蝉には剛砂という男が死人に見えた。一心不乱に我が身に尽くす姿と裏腹に、その目は岩蝉を見ていないようだったのである。
それでも武勲を立てる剛砂に、信頼を寄せた事も否定はしない。半信半疑だった。連絡が途絶えたのは、もしや天江に寝返ったのではなかろうかと。
だが、剛砂は戻った。疑ってしまった事に、岩蝉は少なからず胸を痛めていた。家臣との絆を己が手で裂こうとしていた事に。
暫く咲垣城で療養していた剛砂が、もう直ぐ多々良の城、芳松城に到着する。そこから本格的に戦の準備を始めなければならないだろう。
天江風市の軍が、敵味方の境界線となる国境付近に進軍している。これに対し、国境の城の殆どが既に兵糧を蓄え、武装化を始めていた。籠城戦を見越しての事だ。
しかし、国境ではこの期に及んで天江雷寿を恐れる者達が現れた。多々良に従属すると誓ったというのに、今更どちらに付くべきか、再び思案し始めたのである。今や兵力の差は明々白々。これらの国々が天江に付けば、砦を崩された多々良の勝利はまず有り得ないものとなる。
この国境の城の一つに、咲垣城も含まれる。山尾家の忠心は深く強いものであったので、反旗を翻す可能性は低い。天江から逃げてきたという事情を知って尚、剛砂を手厚く迎えた事が何よりの証拠だ。
立地的に考えると、咲垣城は開戦の地となり、要となるだろう。ここが簡単に寝返ってしまえば、多々良は一層窮地に追い込まれる。逆を言えば、ここでの時間稼ぎが上手くいけば、その間に西南の国々と手を組み、援軍を期待できるかもしれない。
大変心苦しく、山尾には申し訳ない事だが、咲垣城は捨て石となってもらうより他はないと岩蝉は考えていた。そして、山尾もそれを解っている。それでも尚、多々良に味方する姿勢なのだ。
実に惜しい事だと岩蝉は嘆く。その様な忠義者を易々と失うしか道がないなどとは。何しろ、西南の国々を説き伏せるのに、多大な時間と労力を費やしてしまっていたのだ。それさえもう少し早くなんとか出来ていれば、或いは戦にまで発展する事はなかったのかもしれない。
もう遅い。何もかもが手遅れだ。
己の采配を見誤った末の覚悟を決めなければならない。だが、自分以外の多くの命を最期まで守らなければならない。出来る事を最期までやり抜くのだ。
人知れず、決意を胸に抱いて剛砂を待つ岩蝉のもとに、天江の動向を探らせている者より連絡があった。
昨日、天江家重臣の大道麟之介の正室が、御成敗と相成ったと。