かの男
山牢にやって来る女を待ちわびるようになったのは、命を繋ぐ為の動物的な本能なのだと、男は思った。
「御方様……かの男のもとへ参るのは、これで最後に致しましょう。」
微かに外から聞こえた声に、それまで全く動かなかった男はぴくりと反応した。あの女にいつも付いている侍女の声だ。
なんとか今日も飯にあり付ける。既に喉は引っ付きそうな程カラカラだ。牢の岩壁を伝う泥水は、何故だか血の味がする。真水が欲しい。
「……それでは、かの御方は死を待つばかりとなりましょう。」
小鳥が囀るような聞き心地の良い声が、男の身を心底案じているのが伝わる。
「御方様、今日もいらっしゃったのでございますか……」
続いて聞こえた看守の声は、諦めと呆れが含まれていた。毎日のように通う女に対して、止める言葉も無くしてしまったようだ。そして、わざとらしい独り言を漏らす。
「我々が貴方様に手出し出来ぬと解っておられながら……」
己の身分の低さからか、誰かに命じられてか、はたまたこの女に感化されてか、看守の兵士はいつも女が洞窟の中へ入るのを止めなかった。いや、止める気持ちがあったとしても、この女には触れられないのかもしれない。
何はともあれ、自分は腹を満たせる。それに、あの天江雷寿がまだ自分を生かす気があるのだと、この状況から察する事が出来る。希望はある。
しかし、希望とは一体何だ?
男には国で帰りを待つ妻子が居る。愛しいと思っている。死ぬ前にもう一度会いたいとも思う。なのに、それを希望とは思えない。妻子を遺して逝く事に、躊躇いを持てない自分に戸惑った。
ここで果てた方が、あの御方にとっては良い事なのかもしれないと、男は考えていた。けれど、あの女がやって来るのを待ちわびている。生存本能とでも呼ぶべきなのか。
「なんと浅ましい……」
ぼそりと呟いたが、洞窟内に入ってきた女はよく聞き取れなかったようだ。
女はいつも通り、竹筒と握り飯を渡して、男が最後まで食べ終えるのを微笑ましく見ていた。
「剛砂様、希望を捨ててはなりませんよ。」
そして、毎日必ずこう言うのだ。
淋しげに笑う女だと思った。この女が心底幸せそうに笑う姿を思い浮かべると、不思議と冷えた胸の奥が温まる気がした。
「希望とは……如何様なものでござるか、陽影殿。」
剛砂は陽影に訊ねた。陽影は少し驚き、やはり淋しげに答えた。
「全ての命は尊きものでございます。貴方様はこうして生きておられます。それを易々と手放す事ほど愚かしい事はございません。太平の世をご覧になりたくはないですか?私はとても見とうございます。そしてそれを目にした時、私はやっと美しいものを美しいと、温かいものを懐かしいと思える気がするのです。それが希望にはなりませんか。」
剛砂には、太平の世など思い描けなかった。どうしてもと言われれば、かつて支えようとしていた暗黒政治の世だけが浮かぶ。
齢二十一でこの命を、あの御方の為だけに使い果てようと決意した。その為だけに生きてきた。それが当時の希望であったのかもしれないが、他者から見ればとても濁った望みだっただろう。
剛砂はもともと眞駕の小さな村の百姓に過ぎなかった。玉井出の城攻めの際に徴兵されたのは、二十一歳の頃。当時、眞駕城の城主を十九歳の嫡子の天江雷寿が継いで間もなく、それが雷寿が初めて指揮を執った戦だった。
その戦で剛砂は一度死んだ。いや、生まれ変わったのだ。
息も絶え絶え、野に伏して間近に迫った死を待つばかりだったところに、凱陣する雷寿が通りかかった。雷寿は剛砂の息がある事に気づき、何の思いつきか、そのまま城へ連れ帰った。剛砂の意識はそこで途切れる。次に目覚めたのは、眞駕城の御殿であった。
ただの百姓であった男は、その時雷寿によって“剛砂”という名を与えられ、信じられない事に、天江当主の小姓という大層な役職を与えられた。
これに天江家中の家臣達が、不満を抱いたのは言うまでもないだろう。何の武功もあげていない、ただの行き倒れの百姓風情に 、出世の為の席を一つ奪われたのだから。
剛砂が家族と呼べる者は祖母しかいなかった。他に三人居た兄弟は、皆既にこの世に居ない。兄は徴兵された戦にて討ち死に、弟は産まれて直ぐに病で亡くなり、末の妹も九つになる前にこれもまた病で亡くした。父も剛砂が十歳の頃に病で死んだので、どうやら病に弱い家系のようだった。父を亡くした後、母は過労で後を追うように逝ってしまった。祖父に至っては、剛砂が産まれる前に既にこの世を去っていた。
小さな村の小作農であった剛砂とその祖母は、決して裕福とは言えない暮らしを強いられていたが、毎日田畑を耕し、慎ましく生きていければそれで良かった。明日も無事お天道様を拝むには、そうするしか道が無かったのだ。
領地を奪い合い、天下を治めんと争いを繰り返し、村から人を奪う侍達が好きになれなかった。かと言って、庄屋や地主が好きかと問われれば、それも疑問だ。
要するに、剛砂はこの世に居ながら、この世に生きていなかったのだ。生きる目的など生涯持つはずがなかった。ただ死なないから生きていた。
そんな野心も欲望も持たぬ男が、よもや天下を取らんと猛る侍達の中に身を置く事になろうとは、誰が予期していただろうか。
当然、恐れ多い事だと剛砂は身を引こうとしたが、雷寿がそれを許さなかった。
初めは、何故雷寿が自分なんぞに執着するのか理解出来ず、薄気味悪く思っていた。
しかし、あの時。小姓として付き従い、初めて評定での雷寿を見た時、剛砂の思いは一変した。
雷寿は家臣達と対峙する時も、戦に出陣するかのような顔をしていたのだ。それを間近で見た剛砂は、かつての領主であり、現在の主君である雷寿の真の戦いと孤独を知った。この男は常に気を休めず、常に何かと戦い続けている、それ故に孤独がいつも付きまとっているのだと。そんな顔をする人間を今まで見たことがなかった。
この男は自分の持たぬ野望を抱き、実現する為に孤独を背負っているのだと、そう思ってしまった剛砂は、この男がそれ程までに自分の事を望むのならば、この男の為に残りの命を捧げてやろうと決意した。どうせ生きているのか死んでいるのか知れない命だ、一度死んだ命だ、ならば欲しいと言う奴にくれてやろうと。
人の心を動かす切っ掛けは、往々にして一瞬の衝撃なのだ。
剛砂は幸い、頭が良かった。学は無かったが、教えれば何でも直ぐに覚えたし、教えられた事から更に発展させて考える才があった。その上、背も高く、日頃の耕作で鍛えられた立派な身体も持っていた。それ故、決して見栄えはしなかったが、鍛練を重ねれば武道もそれなりに身に付けた。
家中では、この得体の知れない百姓上がりが、さぞ脅威だっただろう。
その脅威は予想通りめきめきと頭角を現し、武功をあげた。雷寿はその度に、武功に見合う以上の褒美を与え、家中の不信は更に募った。
雷寿は剛砂に酷く執心した。
剛砂はこのままでは不味いと考え始めた。
剛砂の生きる道筋となった主君が、自分の所為で破滅に向かおうとしている。命を懸けて支えようとした男を、自分が壊そうとしている。
執着される事に、剛砂は喜憂していた。
「剛砂、世を平定する為には、何が一番必要か判るか?」
常に剛砂を傍に置いて離さなかった雷寿が、こんな事を言っていたのを覚えている。
「“恐怖”だ。圧倒的な畏怖だ。皆が一様に恐怖を抱けば、皆必然的に自ずから恐怖の対象に服従する。この頂点に立つ恐怖が、戦を禁ずれば、或いは全ての武具を奪えば、人々は争わなくなるだろう。恐怖で支配する為に、わしは残酷な処刑も投獄も拷問もどんな手段も厭わん。絶対的な畏怖の存在であり続ける限り、恐怖による秩序がもたらされ、人々はそれを平和と思うだろう。」
雷寿の描く世はとても危ういと剛砂は思ったが、この男がそれを望むのならば、実現させたいとも思った。
「剛砂、其方はわしが恐ろしいか。」
雷寿は訊きながら、欲しい答えを望んでいるのだろう。だが、悟られぬように背を向けて表情は見せなかった。剛砂には、見ずとも雷寿が今どの様な顔をしているのかが痛い程に解る。
「恐ろしいです。とても。されど、私が貴方様のお傍を離れぬのは、恐怖からではございませぬ。」
剛砂の答えは紛れもない本心であり、雷寿の望む答えでもあった。
齢二十三を迎えた頃、雷寿から姓を名乗る事を許され、与えられた。
玉井出剛砂。それが侍としての新たな名だった。
家中は主君の奇行に、最早驚きを通り越して不気味な恐怖を感じていたようだ。
呪われた名だと影で囁かれた。かつての重臣であり、裏切り者の名。そして、剛砂を一度死に追いやった名だ。何故その様な縁起の悪い姓を与えたのか、誰にも真相は解らなかった。剛砂でさえも。
だが、雷寿の行動には常に雷寿なりの意味がある。剛砂という名も、幼い頃に一度だけ父に連れられて見た、砂丘を忘れられなかったからだ。本人がそう言った訳ではないが、雷寿が剛砂に砂丘の話をした事があったので、そうなのだろうと確信していた。
そこは圧倒的だったと雷寿は言っていた。空と砂しか視界に映らない。砂は、風に靡く広大な湖のように波打っている。圧倒的な空虚。境界線の向こうは、空と繋がっている気がしたのだと言っていた。
空に手を伸ばしたくて、空をその手中に収めたくて、雷寿は境界まで走った。砂の丘に立つと、そこには空ではなく、空を映す大海が広がっていた。荒々しく白波を立て、人間が如何にちっぽけな存在かを知らしめる海が。今度は海と空の境界が何処までも続いていたのだ。
「嗚呼、なんと広大だ」と思わず叫んでしまったと、雷寿は笑った。初めて見せた穏やかな笑顔だった。
玉井出の名に、雷寿が何を想ったかは知れない。
亡き父とその友の仲を、今再び取り持とうとしたのか、はたまた二人を再現する事で、尊敬する父に近づきたかったのか傍に感じたかったのか、或いは呪いやしがらみさえも打ち払ってみせようとしたのか、剛砂はそのどれもであり、そのどれでもないような気がした。
「陽影殿。」
帰り支度をする陽影に、剛砂は問いかけた。
「何故雷寿様が海鶴に城を移したか、お分かりになりますか。」
「都に近いから……でございましょうか。」
剛砂は微かに笑みを浮かべただけで、違うともそうだとも言わなかった。
剛砂は才を買われて二十四歳で侍大将となり、二十五歳の時に十坂家の入婿となった。男児に恵まれなかった十坂家の養子が病で亡くなり、優れた剛砂を気に入っていた十坂の当主から、娘婿として養子に来ないかと持ち掛けられたのだ。
当時の十坂家は、天江と同盟を組む武家の重臣であった。跡継ぎを失って、如何したものかと考えた末の結論だった。
剛砂は迷った。雷寿を生涯支えようと決意したが、その自分が剛砂を危うい立場へと向かわせている事を、心苦しくも思っていた。
剛砂は再び決意した。今度は雷寿の傍を離れる事を。
それから二年の後、時代の流れの中で十坂家は多々良の家臣として召し抱えられ、剛砂は十坂の跡を継いで多々良の重臣となった。
奇しくも天江と対立する事と相成った。