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砂の城  作者: はるの優雨
4/10

この女の

 眠ってしまった雷寿を小姓の砂近に任せ、屋敷に戻った頃には陽が昇り始めていた。


 屋敷を出た時の眠気は、既に何処かへ消えてしまっていた。それもそのはず、雷寿から受けた警告は、目を冴えさせるものだったのだ。


 陽影は何をしでかしたのだ、と思考を巡らせてはみたものの、さっぱり思いつかない。昔は手に取るように、その行動を予測できたはずなのに。


 そっと襖を開けて寝間を覗いてみると、陽影は既に目覚めていた。陽影は微笑むが、いつからかその笑みは何処か憂いを帯びていた。


 この女の夫、大道麟之介には、最早いつからこの様な笑みを湛えるようになったのか分からなかった。


「……話がある。」


 努めて冷静を装ったが、陽影は暫しきょとんとして、直ぐにこう答えた。


「上様はもうお気づきになられたのでございますか。」


 陽影の顔には怯えも戸惑いも浮かんでいなかった。


 我妻ながら、なんと肝の据わった女だと麟之介は思う。陽影は幼い頃から、そういう所があった。


「何をしたのだ。」


「山牢へ行きました。」


「何!?」


 何を平然と申しておるのだ、と言いかけて、代わりに深い溜息が出た。


「……わしが浅はかであった。お前に多々良からの使者が幽閉されたなどと話してしまったから……」


 きっと陽影の性格からして、好奇心から向かった訳ではないのだろうと麟之介は思う。


 陽影も雷寿の惨さを心得ている。幽閉された使者が、殺されてしまうのではないかと危惧しての行動だったのだろう。特に、外来の宗教に熱を入れてからは、他者への慈悲深さが増したようだ。敬虔な仏教徒の麟之介には、陽影が信じる者がよく解らなかった。


 その訳の解らぬ異教を陽影に説いたのは、幼き日の友であった天江風市。妻との埋められぬ溝を作ったその男は、きっと自分を恨んでいる。姑息に陽影を我がものにしてしまった自分への仕返しだったに違いない。


「行くなと言っても止めんのであろう。外出を禁ずるより他はあるまい。」


「あの御方は二日も何も口にしておられませんでした。このまま続けば、飢えて死んでしまいます。」


「……それが上様のご意向ならば、従うしかない。」


「和睦を望んでやって来られたあの御方が亡くなれば、多々良様との戦は激しさを増すでしょう。なれば、敵味方関係なく多くの者が命を失います。せめて、あの御方が生きて多々良様のもとへお帰りになれば、少しはその道を逸れる事も叶いましょう。」


「戦とはそういうものだ。何も解らぬ女が口を出すな。」


 麟之介は次第に苛つき始めていた。


「……そうですね」と陽影は伏し目がちに言う。「私には戦の事など何も解りません。なれど、多くの命が嘆いているのは解ります。私は玉井出の名を与えていただきながら、生き残ってしまいました。貴方様の正室として頂けたのも、(ヒトエ)にその名があってこそでございます。卑しくも生き残った私が、玉井出へ恩を返す事の出来ぬ私が、せめて他の命を守りたいと願うのは可笑しな事でしょうか?」


「陽影……」


 今にも泣き出しそうに、悲痛に顔を歪める妻を見て、麟之介の苛つきは急激に鎮まっていく。彼女の痛ましい想いは、重々理解しているつもりだった。


「卑しいなどと言うな。わしはお前が何より愛しい。お前には生きていて欲しいのだ」と、そう伝えたかった。しかし、麟之介は今や陽影の事だけを考えられる立場ではない。陽影の勝手な行動が、自分の血縁者のみならず、家臣とその一族までも苦しめてしまう結果になるのを防がなければならないのだ。


 真に伝えたい言葉を飲み込んで、代わりに言った。


「お前の行動が大道家とその家臣達に影響を及ぼす。そんな事も考えられぬ程浅はかな女であったのか。」


「恐れながら、上様が此度の事で罰するとなれば、私一人だけでございましょう。貴方様は今や上様にとってなくてはならぬ御方。私は“見逃された玉井出”。貴方様に取り憑く虫でございます。」


「何を……!」


 なに故その様な事を言うのかと、麟之介は胸を痛めたが、それに対する言葉は何一つ浮かばなかった。


「……とにかく、暫く外出を禁ずる。良いな。」


 玉井出の名が、今はとても忌まわしい。


 陽影の言う通り、その名のおかげでこうして夫婦(メオト)となれた。古くから続く大道家の跡継ぎが、一介の侍女を正室などには出来なかったであろうし、妾にするにも、風市がそれを許さなかっただろう。風市は陽影をいずれ自分の側室に据え置くつもりだったからだ。


 陽影が玉井出の養女となっても、その事実は変わらない。むしろ、風市の正室の座へと近づいただけであった。玉井出仁翔の思惑を知るまでは。


 仁翔が陽影を笠沼家へ政略の為、嫁がせようとしている事を知った麟之介は、慌てて風市に伝えようとした。が、その時思ったのだ。風市がこれを知らぬなら、急いで事を進めれば、陽影を手に入れられるやもしれぬと。今なら陽影を傘下でもない武家へやるのを防ぐ為だったと、急ぐ必要があったと言い訳がつく。


 己の狡猾さに驚いた。葛藤の末、陽影が欲しいという欲望が友より勝ってしまった。


 それにあの頃の麟之介は、既に風市の傍を離れ、雷寿の小姓に任命されていた。その状況が更に、麟之介の考えを後押しした。


 偏に玉井出のおかげ。それは間違いない。だがその後、玉井出は誰もが予期していなかった行動に出た。


 玉井出の謀反。それは大道家に嫁いできた陽影の身を危ぶんだ。 跡を継いだ雷寿は、玉井出に関わる者を全て排除しようとしたのだ。


 雷寿は言った。「妻を差し出せ」と。


 麟之介は初めて主君に逆らって言った。「それだけは御容赦下さい」と。


 既に陽影は大道の者。その血でさえ、玉井出の混じりようがない者だと訴え続けた。己が命に代えても守りたかった。


 結局、陽影は尊敬する先代の父が救った命だという風市の訴えで、なんとか雷寿の荒ぶる怒りを鎮め、御成敗を免れた。


 陽影の命を救い、塞ぎ込んでしまったその心に明かりを灯したのは、自分ではなかった。風市が居たから、風市が陽影を愛し続けていたから、今もこうして愛しい妻の笑顔が見られる。とても屈辱的であったが、少なからず感謝もしている。


 あの二人は幼い頃から、互いに惹かれあっていた。それを淋しく思わない訳がなかった。唯一無二とも思える友であった風市を、失ってしまうような気がした。そして不覚にも、風市が好いた娘に、自分も恋い焦がれてしまった。


 とても幼かったのだと、今なら解る。そんな淋しさは幼心から来るものなのだと、今なら解る。しかし、当時の麟之介には、その淋しさを吐き出す場所も、共感してくれる者もいなかった。ただ一人を除いて。


 麟之介と雷寿の間には、風市と陽影さえ知らない記憶がある。思い出と呼ぶには薄く生温く、絆と呼べば砕けてしまいそうな二人の記憶。


「浮かない顔をしておるのう。」


 元服を間近にした齢十四の頃。朧気な月夜だった。


「若様!」


 まだ風市と泉翠寺に通っていた。


「辛気臭い。実に辛気臭い。」


「……申し訳ございません。」


「陽と月に置いてゆかれるのが恐いか。」


 雷寿は、齢十六だった。あの頃、家中は密かに、世継ぎに関して二つに分かれていた。嫡子の雷寿を差し置き、聡明で衆望の厚い弟の風市が継ぐに相応しいと考える者達が居たのだ。


「陽というは、多くの人々から慕われるものよ。だが、あやつには戦の世は向いておらぬ。あやつは父上によく似て、情けが深過ぎるのだ。天下は取れぬ。……重荷を背負わせとうはない。」


 麟之介と同じ様に、雲を纏う月を見上げた雷寿の背は何を伝えたかったのか。麟之介には解る気がした。


「わしは、この眞駕を照らすあの月が嫌いだ。眩し過ぎて疎ましい。」


「……しかし、月が見えぬと夜道は歩けませぬ。」


「代わりに別のものが灯りとなれば良いだろう。わしは夜道でも、煌々と行く先を照らしてみせるわ。朝も夜も境など無い。わしがこの国全てを照らしてみせる。誰かがやらねば、戦乱は終わらぬ。」


 互いに近しい胸の内に気づいていた。埋まらない隙間を埋め合うような感覚だった。


「……麟。元服したら、おぬしはわしの小姓となれ。」

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