この男
「月が見えぬ。」
泉翠寺の御堂で夜空を仰ぐこの男もまた、哀愁を帯びていた。
月に想うは、かの女。その昔、この男がその名を授けた女の事だった。
齢六つで先代が城主であった眞駕城にやって来た。先代である父が、ある戦の後に連れ帰った娘だった。
父は暫くの間、娘を城で療養させ、この男は暇を見つけては、興味本位から娘のもとへ通った。
表情を全く変えない美しい娘は、人形のようだった。表情を失ったのか、最初から持っていなかったのか、当時九歳だったこの男には解らなかったが、打ち解けた娘の笑顔を見て、こちらが真の姿なのだと確信した。
この男、名は天江風市。天江家の次男である。
足繁く通う風市に、次第に心を開いた娘であったが、何度訊いても頑として名を名乗らなかった。
幼い風市は「名が無いのなら、わしがつけてやろう」と、半ば無理矢理名を与えた。
その日から、娘は“陽影”と名乗るようになった。
陽の影と書いて陽影。それは、父の言葉が重く響いていた証でもあった。
「陽が昇ると男は戦に赴き、その影で男を支えるのが女だ」と。これは愛妻家であった父らしい言葉だった。女を見下す事が当たり前の世の中で、風市の父はとても珍しい男であっただろう。
また、その名にはもう一つ、意味がある。
愛らしく美しい娘を、戦乱の世に生まれた己が心の闇夜を照らす、月のような存在だと風市は思っていたのだ。陽の影に潜む月のような存在だと。
すっかり健やかさを取り戻した陽影を、風市は自分の侍女にと所望した。父はそれを快く承諾し、それ所か、陽影に勉学を許し、与えた。
風市は侍女となった陽影を、自分の学友である大道麟之介にも紹介してやった。まるで宝物を見せびらかすように。
同じ歳の麟之介は、天江家の重臣の嫡子であり、二人は主従を越えて仲睦まじかった。そしてこの時より、陽影を加えて三人で数多の刻を過ごすようになった。
しかし、元服を目前にして、突然別れは訪れた。
重臣の一人、玉井出仁翔が陽影を養女に迎え入れたのだ。この時、陽影は十二歳であった。これを皮切りに、三人の仲は瓦解した。
玉井出の城に住まいを移した陽影には、それ以降会う事はなかった。あの忌まわしき日まで。
そもそも、玉井出が陽影を養女に迎えた時に気づくべきであったのだと、風市は未だに後悔している。
玉井出は、陽影を別の御家に嫁がせるつもりで養女にしたのだ。当時、敵軍と天江の間で中立の立場をとっていた笠沼家の嫡男の嫁にと。玉井出の名を与えた陽影を嫁がせる事で、天江に就かせようとしていた。後になってそれを知った。
何を言っても、全てにおいて風市は知るのが遅過ぎた。
玉井出が笠沼に陽影を嫁がせようとしていたと知った時には、既に陽影は麟之介のものとなっていた。これには麟之介の狡猾さを思い知った。いや、彼もまた、陽影をただ純粋に愛してしまっただけ。何を言っても、風市はもう少し早く知るべきだったのだ。
風市より先に玉井出の思惑を知った麟之介は、その事実を風市には伝えぬまま、陽影を自分の嫁に欲しいと望んだ。なんでも、陽影でなければ誰も娶らぬと言い張ったそうだ。跡取りである麟之介の我が儘を見かねた大道家の先代、麟之介の父が仁翔に掛け合い、最終的に仁翔が折れる形となった。古くから天江に仕える重臣の大道家とあって、無下には出来なかったのだろう。
なに故あの時……と思わずにはいられなかった。
風市が麟之介よりも先に事実を知り、先に陽影を嫁にと望んでいれば、まず間違いなく陽影は今頃、“眞駕の方”と呼ばれる道を辿っていただろう。それを解っていたからこそ、麟之介は風市に黙って陽影を所望したのだ。
そして、あの忌まわしき日。思い出せば今でも悔しさで胸が痛む。
陽影が大道家に嫁いでから一年後。政務で大道家の居城に訪れた時。二年ぶりに再会を果たした陽影は、“女”の顔をしていたのだ。
まだ幼いながらに匂い立つ色香。美しさを増した横顔は、風市の知らぬ女の顔だった。
六年。出会いから別れまでともに過ごした刻。偽れぬこの想いを、他の男に奪われて初めて実感した。
息も出来ないくらいに苦しかった。夜毎溢れそうになる涙を、人知れず飲み込んだ。もう、自分だけに向けられていたあの笑顔は、自分のものではない。それを受け入れられず、風市が出会ったのは外来の異教の神だった。
信徒となった風市は心に決めた。死ぬまで誰とも契りを交わすまいと。
「殿、夜は風が冷とうございます。中へお入り下さいませ。」
背後で恭しく言ったのは風市の小姓。今はもう麟之介ですら、傍に居ない。元服した麟之介は、突如兄の雷寿の小姓として選出されたのだ。どうやら、雷寿が自ら望んだようだった。
泉翠寺は幼少の頃に麟之介とともに学問を修めた場所。今晩は南方での任務を終え、海鶴城へ向かう道すがら、宿として立ち寄った。
明日の昼には海鶴城に着く。風市は胸の奥が熱くざわめくのを感じた。
海鶴城には三年前から陽影が居る。かつて友と呼び、今は互いに手を放してしまった麟之介のもとを離れて。それが堪らなく嬉しい。横暴な兄だったが、この思いつきには感謝せずにはいられなかった。
神にこの身を捧げたはずであるのに、この様な不謹慎な想いを捨てきれない、と風市は己を情けなく思ったが、それでも陽影の事となると抑えられなかった。
陽影に会うのは半月振りだ。普段風市は眞駕城の城主を務めていた。天江の現当主である雷寿が、勢力拡大に伴って海鶴城に居城を移してから、風市は眞駕城を任されている。
幸い、政務で海鶴城に赴く事が多かった。その度、陽影に会いに行った。陽影は何時でも昔と変わらぬ笑みで迎えてくれた。人質として夫に差し出されても。幼い頃から強く心優しい所は変わらない。
そんな陽影にも、塞ぎ込んだ時期がある。玉井出家の滅亡後の事だ。
玉井出仁翔は陽影を大道家に嫁がせた後、敵と組んで謀反を起こした。
玉井出家で一年を過ごした陽影にとって、それは驚きと哀しみに満ち満ちた出来事だったのであろう。
実の所、玉井出は笠沼家を天江に就かせようとしていたのではなかった。笠沼家を通して敵と繋がるつもりだったのだ。それまで先代の信頼を得ていたというのに、なに故その様な結果を招いたのは定かでない。いや、推測する事は可能であったし、皆推測しなかった訳ではない。ただ、仁翔も先代も亡き今、あれこれ思い巡らした所で真実は闇の中だ。
仁翔は天江先代を謀り、その命を奪った。そこまでは思い描いた通りだっただろう。だが、天江を継いだ雷寿によって、玉井出家は跡形もなく潰されてしまった。家臣、血縁者は勿論の事、下働きをしていた者も、関わる者全て。挙げ句、城下を全て焼き討ちにした。その時の兄の怒りは尋常ではなかった事を、風市はありありと覚えている。また、それが風市の初陣でもあった。
昔のように、再び笑顔を失った陽影に、異教を教えたのは風市だった。外来の神に救われ、陽影の心は癒された。
これに対し、麟之介が何を思ったかは知らない。ただ、風市はあの日の想いを、自分が受けた苦しみを返してやれた気がした。
風市一行は、翌日の午の刻に海鶴城に到着した。
評定は、直に始まるであろう多々良との戦に備えた話が主だった。
「風市、其方に指揮を任せる。麟之介はその下につけ。」
多々良家は由緒ある旧家の血筋を持つ土着の武家で、従える家臣達やその傘下に下る武士達との繋がりも深く濃い。百二十万石を有し、朝廷からの信頼も厚かった。
天江に敵対し続けていたのだが、最近になって和睦の使者を遣わした。使者が届けた約定の委細を雷寿は不服として、使者を捕らえて幽閉し、今に至る。
これを多々良が見過ごすとは思えない。直に戦となるであろう事は、火を見るより明らかだ。来る戦の将として、風市が任命された。弟の風市の能力を、雷寿が理解し、信用していた証だった。そんな兄の想いは、風市にも充分伝わっていた。
しかし風市は、神に身を捧げた者として、戦やそれに付随する殺生を心苦しく思うようになっていた。それでも武家に生まれたその宿命、己を信じ忠義を尽くす家臣、己が統治する土地の民、それらを想えば務めを果たさぬ訳にはいかなかった。
それに、兄の横暴なやり方に疑念や恐怖を抱かない訳ではなかったが、兄を敬う気持ちも多分に抱いている。御家の為、延いては兄の為、武勲を立て、忠義を尽くさねばと、相反する想いに挟まれていた。
「必ずや、落としてみせます。」
「期待しておる。」
此度の戦は容易ではないだろう。様々な想いを胸に、風市は陽影のもとへ向かったが、陽影は居なかった。大道家の屋敷に下がっていたのである。
「……今宵も、月はわしを照らしてはくれぬのか。」
風市は雲に隠された昨晩の月を思い出していた。