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砂の城  作者: はるの優雨
2/10

この女

 据えた匂いが漂う山牢に、この女は現れた。


「何奴だ!?」


 藤色の小袖がよく似合う、愛らしくも美しい女だった。


「大道麟之介の妻、陽影(ヒエイ)にございます。」


 看守はその名を聞いて、即座に態度を改める。


「あ、貴方様が“耶湖(ヤコ)の方様”でございましたか。ご無礼、お許し下さい。」


 陽影は苦く微笑んで、「貴方は務めを全うされていらっしゃるだけでございましょう」と言った。


 その苦笑には訳がある。“耶湖の方”と呼ばれる事に、居心地の悪さを感じたからだ。


 大道麟之介に嫁いだのは、齢十三の頃。その頃は大道家先代の城に住んでいた。先代の早すぎる死によって、麟之介が家督を継いでから、後に雷寿に与えられた城、“耶湖城”に移り住んだ。夫の麟之介が城主となり、その正室として、人々から“耶湖殿”、“耶湖の方”と呼ばれるようになった。


 しかし、今はその名を素直に受け入れても良いものかと不思議に思うのである。何せ、彼女は今や耶湖城には住んでいないのだから。


 夫の主君である天江雷寿が、突然その命を下したのは三年前。側近達は身内を一人、人質として天江の城、海鶴城に置くこととしたのだ。


 未だ子に恵まれず、麟之介は正室の陽影を差し出した。


「中に入ってもよろしいですか?」


「し、しかし……」


 柔らかい物腰に、加えて年を重ねても愛らしいその容姿から、看守の兵士はそわそわとした。


 陽影は真っ直ぐに目を見て、もう一度優しく微笑むと、答えも訊かずに洞窟の中へ入った。連れていた侍女には、そこで待つよう言っておいた。


 鼻に刺さるような匂いと、暗く湿気を帯びた濃い空気に、思わず顔をしかめそうになる。


「ご無事ですか?」


 木格子の向こうに人影を見つけて、陽影は声を掛けた。


 男は僅かに髭が伸び、既に二日も飲まず食わずだった所為か、唇が酷くかさついていた。目の下に隈を作り、頬も少し痩けている。


「可哀想に……これをお飲み下さい。」


 陽影が差し出したのは水の入った竹筒。


 男は訝しげに暫く見つめていたが、沸き立つ欲求には適わなかったようで、恐る恐る受け取り、口に含んだ。


 人の欲とは浅ましいもので、一口水を飲んだ途端に男の疑心は何処かへ消え去ったらしく、瞬く間に飲み干してしまった。


「これもお食べ下さいな。」


 竹の皮で包んだ握り飯は、闇の中で白く輝いて見えた。


 じっと見つめて喉を鳴らす男の震える手に、陽影がそっと載せてやると、男は急くように貪り食った。陽影はその姿を、まるで我が子を見守るような瞳で見ていた。


「まだ水は要りますか?私の分も飲みますか?」


 笑みを湛えたまま、陽影が訊ねる。男は今度は躊躇う事なく頷いた。


「貴女は……」


 飢えを凌いだ男は、やっとまともに口を利いた。陽影は変わらぬ笑みで答えてやる。


「私は大道麟之介の妻、陽影にございます。」


 言った瞬間、男の表情が変わった。僅かに目を見開いて、驚きを見せたのだ。きっと大道麟之介の名に反応したに違いないと陽影は思う。


 麟之介は雷寿から、家中で一番の信頼を得ていた。若かりし頃より数多の武勲を立て、今や七十万国の領地を治めている。その名だたる武将の妻が、よもやこのような汚い場所に現れるとは、思いもしなかったのだろう。それも、この男にとっては敵将の重臣の妻。となれば尚更、この行為の意図を図りかねているに違いなかった。


「……此処の話は、麟之介殿から?」


 男は麟之介の事を官職で呼ばなかった。陽影は少し不思議に思うが、敵対する以前に自分の知らない繋がりがあったのやもしれぬと、深くは気にしなかった。


「貴方様が多々(タタラ)様からの御使者だと伺いました。」


「……使者だとしか聞いていない、という事でしょうか。」


 何かを含んだ物言いに、陽影は小首を傾げた。しかし、「いえ、何でもありませぬ」と男は御茶を濁す。


「申し遅れました、十坂剛砂(トオザカゴウサ)と申します。」


 その名を聞いて、今度は陽影が驚いた。この男は、天江と敵対する多々良の重臣の一人であったからだ。


「上様が貴方様を生かされた訳が、今解りました。」


 陽影はそう言い、剛砂は何も答えずに俯いた。その様子を見た陽影は、剛砂が酷く気落ちしているのだと思った。


「顔をお上げ下さいまし。」


 おもむろに首飾りを外し、木格子の間から手を伸ばして剛砂の首に掛ける陽影。その首飾りは、陽影が外来宗教の信者となってから、常に身に着けていた大切なものだった。紐の先には、十字の形に彫られた木の装飾品。異教を信じる者の証であった。


「神は必ず貴方をお救い下さいます。諦めないで下さい。決して望みを失ってはなりません。」


 目を閉じて、両手の指を絡めて合わせる陽影は、闇の中でも分かる程に美しかった。それこそ、神の加護がその身を包んでいるかのように。


 剛砂はその姿を見つめ、そして首に掛けられた装身具にそっと触れた。


「それは御守りでございます。」


「御守り……」


 二人は暫し見つめ合い、そこに信頼という絆が芽吹くのを互いに感じた。


 長居は出来ぬと、陽影がその場を去ろうとすると、剛砂は少し力を取り戻した声でその背に問うた。


「耶湖殿……なに故貴女はこの様な事を……」


「……陽影と、お呼び下さい。その名は私には相応しくありません」と僅かに振り返った陽影の横顔は淋しげだった。「神は殺生をお許しではございません。しかし、この戦乱の世、女の私には為す術もありません。貴方様がここで命を落とせば、多々良様との戦は怨恨に巻かれて更に残酷なものとなりましょう。何も出来ぬ私は、少しでも多くの命を救える道を探したいのです。」


 陽影は憂いでいた。男達の戦は嘆きしか生み出さぬと。病んだ心が伸ばした手は、外来の異教の神へと繋がった。あの日から、毎日祈りを捧げ、太平の世を待ち続けている。


「陽影殿……」


「生きて下さい。死んではなりませぬ。」


 そう残して、陽影は牢を後にした。






 その日も麟之介が海鶴城下の屋敷に帰ってくる予定だった。


 続く戦で、中々顔を合わす事のなかった夫との久方振りの再会に、陽影は少し戸惑う。


 決して夫を愛していない訳ではなかった。幼い頃からともに生きてきた麟之介を、自分の事を嫁に欲しいと言ってくれた麟之介を、心の底から支えたいと思った。思っていた。


 硝子の鉢で泳ぐ赤い金魚をぼんやりと眺めている陽影は、昔の事を思い出す。麟之介と風市と学び、遊んだ日々を。


「殿のお帰りでございます!」


 まるで己の事のように、嬉しそうに伝えに来た侍女を見ていると、どうしようもない淋しさが胸を刺した。以前は、自分もあの様に嬉々として麟之介を迎え出たであろうにと。


 迎えた麟之介は大道家の当主として威厳を湛えながらも、和やかに顔を崩した。それは、愛しき妻へと注がれる想いであった。


 二人きりになると麟之介は、いつも決まって言う。「すまない」と。陽影が住まいを海鶴に移してからずっと繰り返される。


 その度に陽影は麟之介を抱き締めた。初めの内は「大丈夫」と「心配ない」と言葉を添えていたが、今では口を噤んでいた。既にそのような言葉は、何の役目も果たしていないと十二分に理解していたから。


 謝罪の言葉が二人の絆を蝕んでいくのを感じていた。もう聞きたくなかった。きっと、それでも麟之介は謝るしか出来なかったのだろう。

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