手に手を重ねて 18
そこで、黙って遣り取りを見ていたウマじいが席を立った。
「よっこいしょっと!さあ、俺もぼちぼちにするか」
「え、どっか行くん?」
「ああ、帰るよ」
帰る…。
そう言えばウマじいがどこに住んでいるのか、以前一度聞いたことがあったが、はぐらかされたままだった。
「なあ、ウマじいってどこで寝とるん?」
「うん?……ああ」
ウマじいは手をスッと挙げて、遠くを指差した。
その先にはこの公園からも見える、高く聳えたビル。
「え?あれ何?」
「ホテルだろ。知らねぇのか?」
「………」
毎日視界に入ってくるあの高く大きなビルが何なのか、そんなこと気にしたこともなかった。
「……ウマじいって、ほんまは金持ち?」
「ハア?前から言ってんだろ?」
掴みどころのない人。
それを、知りたいと思った。
「じゃあ、何でこんなところに来るん?」
「暇だからだよ」
「ヒマ?」
「ああ。人はな、欲しいものが無くなった時に死ぬんだよ」
「死ぬ?」
「俺は死にたくねぇから、ここに来るのさ」
「……ヒマ潰しってことか?」
「いや、生きるためさ。俺の目標はまだまだ高いぜ?」
「………」
ウマじいの言葉の真意が掴めない。
何を言っているのかすら、理解できない。
「おい、デカ、マル」
「ん?」
「……客だぜ」
ウマじいが親指で差した、その向こう。
暗くなり始めた公園に、真っ直ぐにこちらに向かってくる影が一つ。
……客?
ここからでは誰か分からない。
「これで決まりだな」
ウマじいがぼそりとそう言った。
「え?何?さっきから何を言うとるんか分からんよ」
こちらに背を向けて歩き出していたウマじいが振り返り、アオを真っ直ぐに見た。
「オメェが貸した金はもう戻って来ねぇ」
「はあ?」
「もう、戻って来ねぇんだよ」
「………」
何を言っているのかさっぱり分からない。
自分たちは仲間。
同じ穴に居る同志、……同志……
……何を目指す同志?
「何でじゃ!」
アオの大声にウマじいは更に目を細め、笑った。
「地球が丸いからってよ、何でも行ったモノが返って来るってこたぁねぇ。今、オメェらは寝てんのか?起きてんのか?どっちかはっきりしねぇとな」
「「………」」
アオは、ウマじいが先ほど指差した高く聳え立つビルに視線を動かした。
あそこに住んどる?
あんな襤褸を着とって、ワシらに寝てるか起きてるかはっきりしろ?
一つも分からん。
自分のことじゃない。
ウマじいのことが。
「ちょっとウマじい!待ってや!!」
アオの呼び掛けを無視して歩いて行くウマじいは公園を抜け、国道へ出た。
その姿が道路の端に立ったちょうどその時、黒塗りの大きな車がやって来て、ウマじいの目の前に静かに停まる。
「え」
ウマじいは普通に、当然のように、それに乗り込んだ。
そしてウイーンと音を鳴らしながら後部座席の窓を開け、
「デカよぅ」
「………」
「今日はご馳走さん。ありがとうな!」
「………」
「さっきの話だけどよ、オメェが貸したあの金はもう戻って来ねぇ。こりゃぁ間違いねぇんだ。500円賭けてもいいぜ?」
言い終えると、ウマじいはまたウイーンと音を立てて窓を閉めた。
街行く車の中でも更に大きいその車。
車のことは詳しくないが、他の車よりもそれが高級なものであるということは分かる。
「………」
アオは去って行く車の後ろ姿を、ボーッと見送ることしかできない。
……きっと、今日のフリーマーケットと一緒なんじゃ。
ウマじいは本当に暇潰しで、ここの住人を見学しに来とるんじゃ。
あの車はウマじいのもの?
運転していたのは誰?
当然巡る疑問を自問している。
ワシはあの金でジタバタしとるのぅ…。
言葉一つでコロコロと……。
暗い景色に嵌り込んだ車の姿は、やがて完全に見えなくなった。
人は判断と決断を繰り返して生きている。
立場や感情や状況や……人や、機嫌や、もしかしたら天気や気温だって、判断と決断の色と種類を決める材料になるんだろう。
今日は何色だった?
今の自分は何色になっている?
ブツブツと下を見ながらベンチに戻ると、そこにはメガネが立っていた。
カクゲンと一緒に、残った料理を食べている。
「おう、アオ!エエもん食うてるやん!」
「………」
『あの金はもう戻って来ねぇ』
先ほどの言葉でまた、自分の気色が大きく波を打っている。
ワシはメガネを信用しとる。
……信用?
信用って何じゃ?
この場合、メガネから金が返って来んでも構わんという心境なんか、それともちゃんと返してくれるっちゅー……
これも信用なんか?
信用って、何のじゃ。
今、ワシの種類と色は何なんじゃ。
アオが最後の楽しみにと取っておいた惣菜の鶏の唐揚げ、それを平気でパクパク食べているメガネの姿をじっと見た。
「元気にやっとるか?今日も行って来たんか?」
今日も行って来たのか。
それはフリーマーケットのこと。
メガネが日曜に必ず言う挨拶のようなもの。
「……おう、そうじゃの。まあまあ売れたかの」
「ほんまぁ。エエなぁ、景気が良うて」
余ったものは明日の食料にしようと思っていた。
ウマじいもいたから余らないかもしれないとも思っていた。
しかし、途中でメガネが加わったから明日の分が残る可能性が無くなってしまうなどということは、想像もしていなかった。
アオは小さく呟く。
「……小っちゃいこと言うとるんかのぅ……」
「え?何て?」
「……いや、何でもない……何でもないわい……」
メガネはあっと言う間に、残っていた料理を全て平らげてしまった。
その横で、空になった容器を端から片付け始めるカクゲン。
当然自分もそれを手伝わなければならないのだが、自分でも理由のはっきりしない落ち込みで肩を萎めたまま座り込んでいる。
核心を突く。
それがこんなにも難しいことだったとは。
決して消えない心境を今、口にするのは非常に難しい。
随分と血色の良いメガネが、
「あー、エエもん食わしてもろうた!何か悪かったな。何ぼか払うた方がエエか?」
「……いや、エエよ」
何ぼか払う余裕なんかないんじゃろ……?
あるんか?
後片付けをカクゲン一人にさせ、ずっと座っているアオ。
突こうとした核心は自分の中に確かにあるというのに。
どっちをどう言えばいい?
あの金はほんまに返してくれるんか?
あの金はいつ返してくれるんじゃ?
この短い間で随分と狭まってしまった自分の中の選択について、アオは考えている。
そんな神妙なアオの様子を、メガネは窺い知ろうとする気もないようだった。
メガネが言った次の言葉は、アオが持つ核心の更に上を行く核心であったのだ。
「なぁアオ。悪いんやけど、また2万貸してくれへんか?」
「!!は…ッ!?」
アオは驚愕のあまり口を開けたまま、メガネを見上げた。
意外であるとかまさかとか、そんなレベルではない。
こいつはあの缶の中にいくら入っとるんか、知っとるってことなんか!?
いくら入っとって、ワシの分はあといくらある、そこまで知っとるってことなんか!?
最初の幽鬼染みた顔色、その次の当然のような表情、そして今の……
しかしアオの脳裏に、それを分析する余裕はない。
……隣でガサリと、カクゲンが操るビニール袋の音が聞こえてきた。
恐らく自分の分であろう金額は、あと2万。
取られてしまうと、もう万札が1枚も無くなってしまう。
恐らくと言っているくらいだから、あの2万すら自分のものであるという確証はない。
カクゲンをちらりと見てみた。
彼はまるで何も聞こえていないかのように、変わらず後片付けを進めている。
「……あ……いや、……ワシャぁもう金持っとらんで。……もうないで」
それに対するメガネの返事は間髪入れず、そしてさもそれが自然かのような、
「嘘吐けェ。まだあったやん」
見せないつもりであの缶を開いたが、
……見られとったっちゅーことか?
「……ほいじゃが、あの金はワシらが将来……」
返せと言えないまま、返って来るという保証もないまま、また貸すことについて悩んでいる。
―――― 青く実るといいね。
一体誰がワシに言うたんじゃ?
今のワシは小さいか?
比べる相手がおらんけぇよう分からんのじゃ。




