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手に手を重ねて 17

アオは後ろ髪を引かれながらも再び歩き出し、辿り着いた自分たちのテントにメガネを押し込んだ。

今日、たった今、ここへ得も言われぬ何かがやって来た。

このような心の機微を体験するのは初めてだった。

さっきメガネは、『1万円を返しに来た』ではなく、『貸してくれ』と言ったのだ。

「……貸してくれってどういうことじゃ?こないだ聞いた話じゃ、10日にいっぺん金を返すんじゃろ?あれからまだ10日経っとらんじゃんか」

そこでメガネはようやく話しづらそうな顔を見せた。

「いや……何か悪ィ。まだ10日経ってへんけど、もうじき10日やねん。返せる目途が立ってないっちゅーか……」

「じゃけどお前、毎月貰うとる給料はどがいにしとるんじゃ」

「あんなもんお前、毎日のちょっとの食事と借金の返済で無くなってまうわ」

カップラーメンが一つ700円。

ジュースが300円。

他に何を言うとったかのぅ。

こうやって外に出れるんなら、外で正規の金額で買って、買い溜めすりゃええじゃんか。

……あ、そうか。自由に買い物にも行けん言うとったの……。

先ほどウマじいと話した時、自分の中で照らし合わせた考えと結び付けてみる。

『おいおい、そらぁ違うんじゃねぇか?』

ウマじいのあの声が鮮明に蘇った。

あの言葉は自分に言ったものなのか、それともメガネに言ったものなのか……。

さっきちゃんと聞いておけば良かった。

「……じゃあ何じゃ、今回は1万円足りんのんか」

「おう、そうやねん」

恐らく自分の取り分であろうお金が、まだ3万6千円残っている。

アオは立ち上がり、あの缶を開けて1万円を取り出した。

……ひょっとするとこういう時、挨拶のようにかわす常套句が一般常識の中にあるんじゃないか?

例えば『ええか、絶対に返せよ?』とか、『いつ返してくれるんじゃ?』など。

だがその言葉たちは脳の中に留まるだけで、口からは出て来ない。

何故こんなにも言い難いのだろう。

「……じゃあこれ貸すけぇ。頑張って仕事してくれぇよ」

人を励ます立場などにない自分が、当たり前のようにそんなことを言ってしまっている。

強者と弱者、自分はこの場合どちらに属するのだろう。

とてもひもじいこの思いは、どこから発生するものなのだろう。

「お、おぉう…。悪ィな。助かるわ。これで何とかなるんやわ、多分。……うん、何とかなる……」

両手で挟むように受け取ったメガネの目は、すでにその万札以外を見ていない。

そのまま、アオとは一切視線が合わないまま、メガネは急ぐようにテントから出て行った。

引っ掛かったまま、閉じられることのなかった入口の端を閉めることもせず。

「………」

アオは走って行くメガネの背中をじっと目で追い掛ける。

その先にカミじいの姿が見えた。

声は聞こえないが、メガネがカミじいに呼び止められ、2人で話をしている。

カミじいが勢い良く何かを言い、メガネの肩を掴んだ。

俯いたメガネの背中は委縮しているように見える。

恐らくメガネは、また自分にお金を借りに来たことをカミじいに咎められているのだろう。

声は聞こえないが、そういう光景に見えた。

……そうなんじゃ。

ワシはメガネの行動をただ待つべきなんじゃ。

要するに信用なのだと思う。

コックさんが言っていた、刺身の横に置かれている大根はツマと呼ぶ。

刺身につけるしょうゆのことを、ムラサキと言う。

何かは忘れたが、何かのことをはじかみと呼ぶ。

リーマンさんから聞いた、電気が漏電している時、それを確かめる時は手の平ではなく、手の甲で触らなければいけない。

あの人たちの職歴に嘘があっても、ああいう知識に嘘はないのだろう。

人は人を信用しとらんと何も始まらん。

もちろんウマじいの話も信用せんと、悩むこともできん。

再びテントの外に出てみると、先ほどのベンチにはもうウマじいの姿はなかった。

視線を動かすと、まだメガネはカミじいに怒られている様子。

……そう。

自分だって信用に足りる人間にならなければならない。

ウマじいのさっきの話は、今回特に面白かった。

信用すれば、信用されるんじゃろ?

そういうことよね。

曲解と論ずれば、またウマじいから変化球が投げ入れられそうな気がする。

自分の信用は自分で築くしかない。

『おいおい、そらぁ違うんじゃねぇか?』

ウマじいの声を端っこに寄せ、アオは人の役に立てている、そんな自分を見つめていた。



―――― 考えなしで生きて行ければ、どれだけ値頃な人生だろう。

全幅の自分は13万と少し、それを13万もと言うか、13万しかと言うか。

決めかねていたが、その13万と少しも人に預けてしまった。


歳月とは、知るもの・見るもの・過ぎるもの。

できれば後悔というのはしたくはない。


……昨夜は久しぶりに夢でカクゲンと話をした。

内容までは、覚えていない。



6月5日 晴れ 16時頃


今回のフリーマーケットは当たりだった。

引いて帰るリヤカーも、重さを含め、軽いもの。

「しかしあれだなぁ、あんなゴミが売れちまうもんなんだなぁ」

2人が引くリアカーに乗ったウマじいが、そう言って笑った。

今日彼は、自分たちの参加するフリーマーケットを見学しに来ていたのだ。

「オメェら、大したもんだよ。あんなゴミみてぇなモン、口八丁手八丁で売り飛ばしちまうんだからな」

そしてカクゲンを見て、続けて言った。

「オメェは無口だけど、釣銭の計算が速ェなぁ!あの手際も大したもんだよ」

「………」

カクゲンは黙ったまま、首をこくりと縦に振って答える。

ウマじいに褒められて嬉しいと思った。

朝、「フリーマーケットを見学させてくれ」と言われた時は、邪魔だ、参ったと思ったが、もうそんなことは忘れてしまった。

「靴が2足だけ残ったのぅ。まぁワシらが履くけぇ」

「ま、他人さんが履いた靴なんざ、みんな気持ち悪ィよなぁ」

確かに、靴は出品してもなかなか売れない。

汚れや傷みが目立つものだからと思っていたが、……気持ち悪いのか……。

そんなこと、思いつきもしなかった。


公園の近くまで戻ると、カミじいがいつもの場所で空き缶を潰しているのが見えた。

「あ!カミじい!」

これまでしてきたように、アオが声を掛ける。

が、

「…あ……ああ」

振り向いたカミじいは微かに聞こえるトーンで返事をするのみで、すぐに目を逸らしてしまう。

「………」

何故だろうか、ここ最近のカミじいの態度はおかしい。

少なくともアオにはそう感じられる。

呼び掛けに対し薄い返事を返されると、アオもそれ以上何を話しかければいいのか分からない。

「………」

結局それ以上は何も言うことができず、景色と一緒にカミじいと交差して公園へと戻った。

「今日はなかなかの売上じゃったけぇ夕飯はエエもんにしようや。ウマじいも一緒に食べようや」

「おう、じゃあそうしようか」

近くのスーパーにウマじいもついてきて、一緒に買い物をした。

目に付く、並んだ食品を指差しながら、ウマじいが2人に蘊蓄をひけらかしている。

タコは大根と煮ると柔らかくなる。

玉ねぎを切る時は、何かで鼻を塞いでおくと目にしみない。

りんごは塩水につけると黒くならない。

レバーの臭みを取るには、牛乳に浸しておくのがいい。

「おい、そのインスタントラーメンも牛乳で作った方がうめェんだぞ」

「ええ!?何か気持ち悪いのぅ」

もちろん豪勢とは言えないだろうが、いろいろな物を買って公園に帰った。

「すまねぇなぁ。酒まで買ってもらってよぅ!」

「ああ、エエよ。今日は手伝ってもろうたけぇ」

ウマじいはフリーマーケットで何の手伝いもすることなく、本当に見学するのみだった。

しかしアオは決して嫌味でそれを言ったわけではない。

人への信用を学びたい。そう考えている。


アオとカクゲンはまずカセットコンロで湯を沸かす準備をしてからベンチを寄せ、簡単なテーブルを作った。

その上に今日の料理を並べて置く。

「カクゲンはこの焼きそばが好きじゃったのぅ」

「………」

カップにお湯を入れたり、惣菜のパックを広げたりして2人が食事の用意をしている間、ウマじいは1人でちびちびと日本酒を飲んでいる。

「ハハッ!この焼きそばはお湯を入れるんじゃけぇ、焼きそばじゃのうて茹でそばよのぅ!」

「………」

「ウマじいはこのしょうゆ味でええんよの?」

「ああ、構わんよ」

今日のメニューをテーブルに並べ終えると、3人は食事を始めた。

「あのスーパーの、この竹輪の揚げたヤツが美味いんじゃ」

「おいデカ、刺身はねぇのかよ?」

「刺身は高うて買えんよね。時間も早うて値引きもされとらんかったし」

「日本酒には刺身だろ。フォアグラにはワインさ」

3人で食べ、2人だけでワイワイと食事をしている。

と、その横をカミじいが通り抜けた。

「カミじい!」

「うん?」

「どうじゃ、まだあるけぇ一緒に食わんか?」

ウマじいがいることで遠慮するかとも思ったが、アオは一応そう話しかけてみた。

「あ……いや、ワシはエエわ……」

「………」

カミじいの態度は、しかしアオの思う遠慮とは少し違っていた。

アオはやはり今回もそれ以上声を掛けることができず、テントに入って行くカミじいの背中を、ただ見ている。

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