祝福を 5
6月1日 15時頃 曇り
随分とこの生活にも慣れてきた。
自分を繋ぎ止めておくためのものなのだろうか、罪の意識というものは辛うじて残っている。
ここ数日、カクゲンの才能とも言うべきやけににすばしっこく、要領の良い姿を目の当たりにした。
……自分こそがしっかりしなければと、そう考えていたのだが。
「おい」
「ん?」
2人は相変わらず、橋の下の小屋の中で日中を過ごしている。
「お前、裸足で道走り回って、痛うないんか」
「ああ、うん。3日目くらいで慣れちゃったよ」
「ウソ!慣れるんかよ!」
アオも足の親指を動かしながら、自分のビーチサンダルを見下ろしてみる。
親指の根元の鼻緒は、昨日千切れた。
正直、外の世界で裸足で過ごすことがこんなに目立つとは思ってもみなかった。
昨夜のこと。
2人はこの近くにある大きな駅で、食料調達のチャンスを窺っていた。
自分もカクゲンも改めて口には出さないが、まだゴミ箱を漁るような行為はしていない。
捨てられたものを食うくらいなら盗んででも、という考えは持っている。
駅に張り出す、ドアもシャッターもない剥き出しの店。
2人は駅前広場の噴水の前に座って、その店から目を逸らさない。
駅の表口から外へ、反対に中へと入って行く色とりどりの大人たち。
帰宅ラッシュは過ぎたようだが、人の出入りはまだまだ激しい。
目当ての店へ突進する好機を、なかなか見抜けない。
だから、ただじりじりと待つしかない。
人の波が引くのを。
店の前から、人がいなくなるのを。
2人じっと黙ったまま。
と、そこで、自分たちの方へ50過ぎくらいの男がゆったりと近づいて来るのに気づいた。
座り込んだ2人の前で立ち止まると屈み込み、話し掛けて来る。
「君ら、ここで何してるんだ?」
こういう状況での問いに関する応えは打ち合わせ済み。
必ずカクゲンが「お父さんの帰りを待っています」
そう応えることにしていた。
しかしこれが何らかの制服を着た相手なら、即座に左右にバラけて逃げる。
それが決まりごと。
今回の相手はスーツ姿。だから、カクゲンもマニュアルに沿って「お父さんの帰りを待っています」と応えた。
だがそのカクゲンの返事は、どうやら男の興味の矛先ではなかったらしい。
更に男は尋ねてくる。
「君、裸足でどうしたんだ?靴はどうした?」
……その問いに対する答えは決めていなかった。
マズイ、と顔を強張らせるアオの隣で、しかしカクゲンはさらりと返事をする。
「川に落ちたときにね、なくしちゃった」
「川?」
男は一言問い返し、それから一拍ほど置いて立ち上がった。
「怪我しないようにね」
そうして去っていく。
猫背気味の黒い背中を見送りながら、先ほどのあの男の取った一拍が妙に気に掛かった。
男が見えなくなるまで、しつこくも目が離せない。
今回を含め、これまでカクゲンの裸足への大人の問いは三度。
やはり靴を履いていないのは目立つと考えていいのだろう。
事前に気づくどころか、この事実を知らなかったことに、自分たちは危機感を持つべきだ。
昨夜、そんなことを考えた。
「なぁカクゲン、今度はごはんじゃのうて、靴をどっかから頂こうや」
アオのその言葉に、カクゲンは何を言っているんだとばかりにキョトンと目を上げた。
「そんなことよりごはんだよ。だってさ、もうお腹空いてるし。靴なんかどうでもいいよ」
何となく自分のプライドに関わるような気がして申し出たアオの言葉は、カクゲンに何とも響かない様子。
彼はアオの心中を慮ることなく、夢見るように空中に視線を投げた。
「昨日のさ、パンの中にさ、カレーが入ってるヤツ、アレおいしかったなぁ。僕、今日もアレがいいなぁ。でも2日連続でパン屋はマズイかなぁ…」
こちらに向けて言っているのか、それとも独り言なのか判断しかねる。
アオは負けじとばかりに口を挟み込んだ。
「なぁカクゲン」
「うん」
「ちょっとここ、匂うてくれや」
バンザイをするように腕を挙げ、脇の下を指差す。
「え、何で?」
「何かワシ、クサイような気がするんよね」
カクゲンはアオの脇に鼻を近づけ、すんすんと匂いを嗅ぐ。
「ううん、全然。何のニオイもしないよ?それより石けんの良いニオイがした。だって昨日、公園で石けんでちゃんと洗ったじゃん」
「………」
アオの思惑など知ろうともしないカクゲンは、また勝手に大事な今日の夕飯を夢見ている。
それをいなし、諦めることなく誘導を試みるアオ。
「いや違う、違うで。石けんのニオイなんかせんで。ワシャあこの服、臭うて適わん」
そう言ってアオは意を決するように立ち上がった。
この日は日曜日。
アオはそれを知っていた。
そして日曜は街中が賑わうことも。
「ワシは今日、ごはんは抜きでええ。ワシャあ今日、靴と服をかっぱらうで」
カクゲンは黙ったまま、立ち上がったアオを見上げている。
その顔を見返し、アオは2人で決めた法律を頭の中で何度も反芻する。
「ワシは今日、服を貰うんじゃ。のう、ついでに靴も貰う。のう?お前はどうするんなら?ワシャあ今日絶対服を貰うで」
さも決定したかのように言い募るアオを見つめながら、カクゲンが口を開いた。
「やっぱり僕も行った方がいいの?」
「………」
「僕、これで十分だけどなぁ…」
「………」
「………」
微妙な沈黙を挟んだ後、カクゲンはぼそりと呟く。
「……クサイかもね。……イヤ、これクサイわ。僕なんか足もクサイ。靴がないからだ、きっと」
「そうじゃろ?そうよね。だから替えの服はいるんじゃって」
「今から行くの?」
「おう。今日は日曜じゃけぇね、子供がウロウロしよっても平気な日なんじゃ」
「あ、そっかぁ」
当てこするように物を言うのは性に合わない。
「パン屋は帰りに寄りゃええよ」
「うん、そうだね」
まだまだ決めなければならない法律がたくさんある。
どちらがどちらを圧服しても構わないというルールは、もちろんない。
2人の間にはまだリーダーはいないのだから。
物事は2人で決めていかなければならない。
その覚悟が改めて必要だと思った。




