手に手を重ねて 4
競馬じいさんとは何度か話をしたことがある。
しかし、わざわざ手招きされて呼ばれると緊張してしまう。
すぐに動いていいものなのか、それともおずおずと近づいた方がいいのか。
躊躇していると、競馬じいさんがにやりと笑って言った。
「何や?ハトが怖いんか?」
「いや!怖くないよ」
アオはニヤニヤ笑っている彼の元へ近づくと、同じ体勢でしゃがみ込んでハトを見下ろした。
「………」
「………」
ポッポッポッポ……
グルグルグル…ッ
隙間から聞こえるハトたちの話し声は、無言の空間を埋めることはない。
アオは居心地の悪さを感じつつ、遠くの目からこの一対を眺めてみる。
競馬じいさんとハト。
それは素描したかのように、とても納まりが良く見えた。
「……その日暮らしには慣れてもうたか?」
「え?」
「ハハッ!若いのに耳が遠いなぁ?」
「………」
『聞こえなかったというよりは、聞いていなかった』
しかしそんな返事は返さない。
「……じいちゃんな」
「うん?」
「何でハトなんぞにメシをくれてやるんじゃ?それ、パンじゃろ?自分で食いんさい」
「……ふ~ん」
こんなところで暮らしているのだから…。
自分の意見は空事ではない筈。
粗密で言うなら、自分は間違いなく大雑把。
ヒトを大きく3等分のような自分の意見にも自信はないが……。
すると競馬じいさんがフフッと笑って応えた。
「ワシは食うには困ってないからなぁ」
「え?!」
それはもちろん、アオにとっては意外の一言。
どころか、それこそ空事。疑いようがない。
「はあ!?何言うとるんじゃ。食うに困っ…」
アオは言葉の途中で、目の前の老人の容姿を下から上へと見てみる。
こちらを向かないその姿。
白髪で、薄汚れた服で、髭があって、皺があって……
空々しくされたところで、どう見てもここの住人。
「困ってないわけがないじゃろう!」
競馬じいさんは、ここでようやくアオの方を向いた。
「デカイ兄ちゃん」
「ん?」
「ワシがいつ、アンタに『ワシはここに住んどる』言うた?」
「え!?」
「よう思い出してみい」
「………」
言われてみれば……彼は朝、みんなと食事をしてはいるが、どこからやって来てどこへ向かい、どこで寝ているのかは知らない。
誰からも聞いたことはないし、きっと誰も知らないだろう。
アオが知っているのは朝食を食べ、その後みんなの言うところのホラを吹き、ハトにエサをやる。
その姿だけ。
「ワシはここへ、耽美の追求で来とるんや」
「え?たんび?」
「ホホッ!」
真上を通る物は見逃さないように。目の前の物は勿論。
無防備でも、無謀でもいられない。
そう思いながらやってきた。
なのに、いつの間にか目が眩んでいたのだろうか。
目の前の年老いた男が、急に得体の知れない者のように見え始めた。
「だったら……じゃあどこに住んどるん?」
「あっち」
「………」
競馬じいさんが指差した方向などどこでもいい。
アオはハトのことを忘れ、その場にドカッと腰を下ろした。
途端ザッと音を立てて円形の空洞ができ、我慢しきれなかった2~3羽が低く飛び立つ。
ポポッ
ぐるぐるぐる……ッ
「お前、もう1人若いのと一緒におるなぁ?」
「ああ。弟じゃ」
「嘘吐け」
「!!」
皮膚の温度が一瞬にして上がった。
慌てるとなお怪しい……ただの目算だ。
アオは返事をしない。
「お前の言葉、そりゃ広島弁じゃのぅ。ワシも使えるで」
「………」
「はあバレとるでぇ」
「………」
「ホホッ!更に、俺ぁ関東弁も使えるぜ?」
「!!」
競馬じいさんの一人称が『ワシ』と『俺』。
これまでずっとこちらの言葉で話していたのに、急に違う方言を使い出す。
都合を良くするため、アオも関東弁を、関西弁を覚えようとした。
しかし上手くできない。
目の前の浮浪者の老人に湯のしされた気がした。
「じいちゃん……何モンじゃ?」
不審が不信を連れてくる。
アオの問いに対した競馬じいさんは、しかしそれには答えず、正面を指差した。
つられてアオもその方向へ体を向ける。
2人が屈んで話しているその場所より、20~30メートル離れたところ。
そこでリーダーと警官が大声で押し問答をしていた。
「………」
「あ、ヤバイ!警察じゃ!また出て行け言われとるんじゃ!」
そう言って立ち上がろうとしたアオの腕を、競馬じいさんが掴む。
まあまあ、と言わんばかりに。
そして、言った。
「お前には関係ないことや」
「え!!…いや、ワシもここに住んどるけぇねぇ」
「………」
競馬じいさんは細い目でじーっとリーダーたちを見ている。
「強制ならの、ちゃんと予告があるよ。この国はそんな国や」
「………」
アオはまた、競馬じいさんの隣にしゃがみ込む。
「国はここに住むことを認めとらんが、黙認しとる。…いや、ちゃうなぁ。見えへんことにしとるんや」
「………」
だから?
出て行かんでも……いや、今は追い出されんということか?
「それよりや、見てみい、あのリーダーの顔!」
競馬じいさんはニヤッと笑って、そちらを顎で指した。
「奴はここのボスであることに固執しとる。この捨て場でや」
「………」
捨て場。
ワシらはやっぱりゴミってことか。
「欲は場所を選ばんと、どこにでも存在する。浮浪者のボスであることが、奴の欲や」
「………」
「欲を制御する。コントロールする。人間の決まりやな。ほら、見てみい!リーダーのあの顔!」
アオも、必死の形相で警官にがなり立てているリーダーを見つめてみた。
「あいつはまさに今!この瞬間!ヒーローになった気でおる!自分の中では赤いマントが靡いてんちゃうかー」
「………」
欲の制御は人間の決まり……いや、義務じゃろう。
「平均で1億とされとるなぁ」
「……ん?何じゃ?」
「人の生涯賃金じゃ」
「え」
急に転換する競馬じいさんの話。
生涯賃金?
人が一生で稼ぐ金額。
「せやけど、あれは嘘やなぁ」
「嘘?」
「嘘やろ?あのヒーロー面のボスが1億稼ぐか?」
「………」
「一から十まで所得の少ない奴ぁいるだろ?」
「……ワシらみたいにか?」
「平均を耳に入れとっても、意味がねぇなぁ!」
「………」




