こぼれおちるもの 16
8月6日 晴れ
サクラの母が休みの日に遊びに行くのは、特に楽しみだった。
いつものように9時に出発し、9時10分には家に着く。
今が一番の盛運期だろう。
12歳のアオはそう思っている。
「2人は朝が早いねぇ。えらいね。ちゃんと朝ごはん食べてる?」
『朝ごはん』という言葉に驚いた。
思わず聞き返したい疑問ではあったが、それを堪える。
『朝ごはん』
朝もごはんを食べていいとは。
その事実を、この日初めて知った。
これまでの流れから『食べてない』と返事をすると、またサクラの母に迷惑を掛けてしまうと思い、「食べて来た」と応えた。
するとサクラの母は、
「ごめんね。おばちゃんが寝坊して、これから朝ごはんなのよ。そうだ。お腹いっぱいかもしれないけど、良かったら食べて?」
そう言って、自分たちにも朝ごはんを用意してくれた。
『コーヒー』という飲み物は、黒くて苦くて子供は飲んではいけないものだと聞いていたが、出されたそれは薄い茶色でなかなか甘く、いい匂いがしてとても美味しかった。
『玉子焼き』と『赤い肉の薄いやつ』と『緑の野菜』
全て食べたことのあるものだったが、朝ごはんというものは信じられないほどに美味しく、元気のつくものだった。
そんな風に始まったその日、ちょっとした事件があった。
はしゃぎすぎた自分たちが、玄関の電灯にボールをぶつけてしまったのだ。
ガシャンッ!!
電灯は落ちて割れ、木端微塵になった。
大きな音を聞きつけ、家の中からサクラの母が急いで出てくる。
母は粉々になった電灯を見て、
「どうしてこんなことになったの?説明してちょうだい」
きつい声で、自分たち4人にそう言い放った。
それに対し正直に、自分たちが調子に乗ったと応えると、これまでのサクラの母の表情にはなかったほどの怒った顔で怒鳴られてしまった。
最初は驚いたが、怒られて当然のことだと思い、自分の中の常識を模索した結果、
「弁償するけぇ許して」
説得するつもりでそう言ったが、サクラの母は先ほどよりももっと顔を赤くし、自分たち2人を怒鳴りつけた。
「子供のうちからそんな気遣いしちゃあダメ!!」
心臓がドキドキした。
視線をどこに置いていいのかすら分からず、どうしたらサクラの母の怒りが治まるのかと頭を引っ繰り返す。
その最中に気付いた。
やはり自分たちは、思っていたよりも子供であるということ。
これまで度々自分たちを助けてくれた金銭は、それを口にすることで相手の逆鱗に触れてしまうことがあるのだ。
これはきっと、辞書には載っていない。
人の感情の有無なのだ。
「ダイスケくん、タロウくん、こういう時はどうするの」
強い口調でそう問われ、2人揃って「ごめんなさい」と返す。
途端、サクラの母はいつもの優しい顔に戻り、自分たち2人の頭を撫でながら言った。
「破片、当たらなかった?ケガはない?」
その顔を見て、思わず涙が出るほどほっとした。
毎日毎日サクラの家へ遊びに行く。
途中サクラには『登校日』というものがあり、休みにも関わらず学校に行かなければならない日があった。
学校は昼までだと言うので、その日の午前中はタダシと3人で遊んだ。
《ぼん【盆】
①平たくて浅い、物をのせる道具。②「盂蘭ウラ盆」の略。「お-」③盂蘭盆の時期である、中元。》
8月8日 晴れのちくもり
「お盆過ぎる前に海に行きたいよ、お母さん」
サクラのその一言で、サクラの母の仕事が休みの日にみんなで海に行くことになった。
『海』
移動を重ねていたあの日、遠くから眺めたことはあったが、あそこへ遊びに行くという感覚はやはり自分たちにはなかった。
海に行く前日、「明日は朝が早いから、今日は泊まっていく?」
自分たちにそう提案したサクラの母。
言い表せないほどの歓喜に、飛び跳ねて回りたい気分だったが、
「まず2人のご両親に許可を取らないとね。今からおばちゃんも挨拶に行くわ」
そう言われた時、全身から掻いたことのないような汗が噴き出した。
恐らくこれまでになかった危機。
今まで吐いた嘘が、まるで走馬灯のように頭で踊る。
「いや!だ、大丈夫じゃけぇ!自分らで言いに行くけぇ!」
「そう?でも電話くらいしとかないとね」
「い、いや、ウチには電話がないんじゃ!」
実に陳腐で子供染みた言い訳ではあった。
普通の家には電話くらい備わっている。
……知っていた。
2人はすぐに家を飛び出し、外で相談し、答えを整理し、数十分時間を潰してからまた戻った。
「母ちゃん、エエって言うたよ」
その嘘に、更に怪しまれないようにと、
「タダじゃいけんじゃろうけぇ、母ちゃんがコレ持ってけって」
そう言ってお金を差し出したのだが、サクラの母はまたそれを笑顔で断り、受け取ってはもらえなかった。
危ない橋を綱渡りしている。
それは分かっていたが、
『海』
これまで耳にしたことしかなく、遠くから眺めたことしかない『海』というものに、しかも遊びに行けるという欲には到底勝てない。
その日は夕飯までご馳走になり、お風呂にも入らせてもらい、テレビを見、これまでの最高の日を追い抜く一夜になった。
夜の9時半を過ぎると、サクラの母が居間に布団を3枚敷いてくれた。
アオ・タダシ・カクゲンの順で、布団に潜り込む。
カクゲンが、
「サクラは?サクラはここで寝ねぇのか?」
そう尋ねると、サクラの母は笑って、
「サクラは女の子だからね。自分の部屋で寝るよ」
と返事をした。
「べっつにいいのにー」
カクゲンのその言葉に、サクラの母はにこっと笑うだけ。
カクゲンの言った『べっつにいいのにー』
サクラの母の言った『サクラは女の子だからね』
その意味は全く違うところにあったのだろう。
サクラが違う部屋で寝ることに、文句一つ言わなかったから。
サクラの母が2階に上がり3人だけになると、タダシがはしゃぎ始める。
カクゲンが笑いながらその相手をし、アオも仲間に入る。
そうして遅くまで騒いでいたので、サクラの母に「早く寝なさい」と怒られてしまった。
布団で寝るのは久しぶりのこと。
どこを向いても香って来る、何とも言えないぬるい匂い。
余所余所しい懐かしさは、抱きしめて噛み付きたくなるほど。
次の日の朝、目を覚ますとどういうわけか背中が痛んだ。
カクゲンに聞くと、彼もまた自分と同じような痛みを感じている。
……そうか。
硬い板の上で、コンクリートの上で寝るのが体に馴染んできているのだ。
カクゲンと「今度は逆のパターンじゃ」と話をした。
この生活を始めた頃も、同じ痛みを背中に背負っていたのを思い出したから。
痛みは体を動かす度に響いたが、その日、記憶にある中で初めて乗った電車に心を奪われ、その頃にはそんな痛みは忘れてしまった。
『海』
それは、川とは全然違うもの。
そう聞いていた。
見渡せないほどに広く、川にはいない綺麗な魚がいると。
しかし、初めて間近で見た海は、
「キャーッ!!」
「もう帰ろうよー!!」
「おかあさーん!!!どこー!!?うわ~~~~ん!!」
あちこちで飛び交う歓声、怒声、絶叫、弩号、泣き声。
そして色とりどりの、ものすごい数の人、人、人。
「…スゲェ…」
隣でカクゲンがぼそりと呟く。
「…おう…」
自分も全く同じ感想。
何と言い表せば良いのか分からないほどに、スゴイ。
川で鍛えた泳ぎをサクラの母・サクラ・タダシに自慢してやろうと思っていたのに、人が多すぎて水泳どころではない。
それに水は濁って青くもなく、魚も1匹も見ることはできなかった。
しかも海に着いて間もなく、タダシが迷子になってしまった。
サクラとサクラの母が、見ているこちらが驚くほどにうろたえているので、自分もそれにつられておろおろキョロキョロしているだけ。
しばらくして、カクゲンが泣いているタダシを見つけ、心底ほっとした。
カクゲンは勘というものなのか……とにかくこういうことが上手いのだ。
帰りの電車の中では、サクラもタダシもカクゲンも自分も、熟睡してしまった。
朝とは違い、落ち着いて電車を堪能しようと思っていたのに。
「疲れるために行った感じかな?」
サクラの母はそう言った。
そんな初めての海だったが、とても楽しかったことには違いない。
是非ともまた行ってみたいと思う。
今度は青い海を近くで見てみたい。
8月11日
アオはタダシについて、障害者について少し分かったことがあった。
タダシは立って小便をする際、ズボンとパンツを膝まで下ろして用を足す。
それを初めて見たとき、カクゲンが大笑いした。
「アーッハッハッハッハッハ!!ハッハッハー!…アハッハアッ、ッハ、…ハー…ッ!タダシィ、全部脱がねぇでもできんだろー?尻丸出しじゃねぇか!あのな、ココ開いてな、こうやって…」
カクゲンとタダシが並んで用を足す姿を、アオは後ろから眺めていた。
タダシのこういう癖とも言うべき部分は、やはりマサキやミチルと同じようだったが、他の部分に少し異なる点があることに気付いた。
午前中にやる宿題の時間を見るに、タダシは足し算や引き算、更に掛け算や割り算まで、間違えながらも問題を解いている。
分数の足し算・引き算、掛け算・割り算が危うい自分たち。
しかしタダシは、毎朝の宿題でそれらの掛け算や割り算をちゃんとこなしているのだ。
たまに間違えるということは、問題の解き方は理解しているということ。
タダシは、自分たちと差はないんじゃないか?
「おばちゃん、ワシャぁタダシをバカにしとるつもりはないんじゃが、タダシは何で掛け算や割り算ができるんじゃ?ワシの知っとる障害者は、タダシより年上なのに掛け算・割り算はようやらんかったで」
「タダシの障害はね、何て言うのかな……軽度って言えばいいのかな。多分、ダイスケくんの知ってる人より症状が軽いのよ。発達障害にもいろいろあるのよ」
「…ふうん…」
タダシは、あの大事に缶の中に集めている○ン○○のそれぞれのキャラクターの名前も、ちゃんと覚えている。
自分たちは何度聞いても覚えられないのに。
そして、サクラの母に一つ教わったこと。
障害のない人のことを、『健常者』と言うらしい。




