こぼれおちるもの 10
「お母……おばちゃん」
「ん?」
「みんな、……ほらアレじゃ、学校で勉強するじゃん」
「うん」
「家に帰ったら、みんなどがいにして勉強しとるん?」
アオの質問に、サクラの母は少し考える素振りを見せた。
そして、
「……ごめんね、おばちゃん、ちょっと言われてる意味がよく分かんないわ」
「いや、……あの、……学校と家以外で、ちゃんと勉強できる場所ってあるんかのう?」
「んー、そうねぇ。……何?もっと勉強したいの?」
「……う、うん」
「みんな、塾とか行ってるよね。サクラも週に1回、塾に通ってるしね」
「じゅく!?かぁ…」
「あと、みんな図書館とかで調べ物するんじゃない?」
「しらべもの!?としょかん!?」
「そう。行ったことない?」
「ない!」
「本がたくさんあってね。いろんな勉強ができる場所よ」
「そりゃワシらみたいな子供でも入れるん?」
「大人も子供も関係ないよ。誰でも入っていいのよ」
図書館。
本がたくさんある。いろいろと調べられる。いろんな勉強ができる。
恐らく今後必要な知識の想定もできないだろうが、今日初めて聞いた数々の言葉の意味を知ることくらいはできるんじゃないか。
想定外の今日、アオの『人はこうである』という器はすでに無いに等しい。
「それってどこにあるん?近所?」
「うん。歩いて15分くらい。あとでサクラに教えてもらうといいよ」
「うん、分かった!」
アオはこれだけ聞ければいいとその場から去ろうとしたが、じっとしたまま庭の3人を眺めているサクラの母を見て、もう少し傍にいようと上がりかけた腰を下ろした。
「……ダイスケくんって」
「え?」
「最近こっちへ引っ越してきたの?」
「え?」
「いや、ダイスケくん、言葉がね、中国地方の言葉だなって思って」
「……ちゅうごく……ちほう……」
「あ、えーっと、どこに住んでた?広島とか岡山とか?」
「………」
黙ってしまった。
自分が最近どこからここへ来たのか。
自分はそのずっと以前、どこからあの場所へ行ったのか。
前者は知らないという返事。
後者は覚えてないという返事。
ちゅうごくちほう
ひろしま
おかやま
喋り方一つで、住む地まで断定できるとは知らなかった。
決めていた法律にはもちろん、それへの返答はない。
応えることができず黙り込んだアオに、サクラの母は慌てたように言った。
「ごめんね。聞いてほしくなかった?ほら、ダイスケくんとタロウくん、言葉遣いが違うでしょ」
それに対する返事は用意してあった。
カクゲンが、もしくは自分がタロウ・ダイスケと名乗った後に、お互いをアオ・カクゲンと呼んでしまった時の言い訳。
「ワシらは最近まで離れて暮らしとったんじゃ。じゃけぇ言葉の遣い方もちょっと違うんよ」
「そう……そうか。変なこと聞いてごめんね。ダイスケくんのお家もいろいろ大変なんだね」
「………」
こんな自分が大変なのかどうなのか、それは分からない。
他と比べたことがないから。
ただ、嘘で固めてきた自分は、大変だった振りをするべきなんだろう。
サクラの母はよく『ごめんね』と口にする。
一つひとつを理解したかった。
自分も『ごめんね』を口癖にすれば、普通っぽくなれるのだろうか。
重ねる嘘に『ごめんね』と言うサクラの母に、自分の方こそが『ごめん』と言いたかった。
「おばちゃんのね、ダンナさん……あ、サクラとタダシのお父さんね。お父さんが広島の人でね。ダイスケくんと同じ喋り方してたのよ。懐かしくてね」
「懐かしい?」
「6年前に病気でね、死んじゃったんだけど」
「………」
サクラの母はタガが外れたように、アオに話し始めた。
「だから、2人にはお父さんがいないのよ」
「病気って何の病気じゃ?」
「ガン。難しいかな。胃のガンでね」
「ガンは知っとるよ。恐ろしい病気じゃろ?なったら治らんのよね?」
「うん。お父さんは治らなかったなぁ…。この家建ててすぐにね。家のローンもあるから、おばちゃんも本当に大忙し」
家を建てるのに、信じられないほどのお金が必要であることは知っていた。
お父さんがいないということは、サクラの母は1人で『父』と『母』の役割をしているということになる。
ちらりと、気付かれないようにサクラの母を窺ってみた。
彼女は黄昏たように、外で騒ぐ3人を見つめている。
「おばちゃん、仕事しとるんじゃろ?今日は日曜じゃないのに家におるんじゃね」
「おばちゃんの仕事は日曜が忙しいから、平日に休むのよ。普段はタダシが1人でお留守番なんだけどね、夏休みはサクラがいてくれて、おばちゃんも助かるのよ」
「…ん?」
カクゲンからは、『夏休みは子供が家にいて大変だと大人が言っていた』と聞いていたが、サクラの母は違うのか。
あの場所にいたマサキとミチルを思い出す。
2人とも1人で何かをするのは困難で、大体のことを周りの人の手を借りてやっていた。
そして、アオは一つ気が付く。
「夏休み……夏休み以外はタダシも学校行っとるんじゃけぇ、学校の人が面倒見てくれるんじゃないん?」
その問いにサクラの母はしばらく黙り、更に目を細めて庭を見つめていた。
アオは無言に戸惑いながら、返事を待っている。
「……ダイスケくんね」
「うん」
「タダシ、学校行ってないのよ」
「ん?何で?」
「みんな、……学校のみんながね、ダイスケくんとタロウくんみたいだったら、タダシも喜んで学校に行くんだろうけど。……イジメられちゃうのよ」
「………」
「学校に行ってもね、イジメられて帰ってきちゃうのよ、タダシは」
さっきサクラから聞いた、自分たちの思うものとはニュアンスがちがう、『イジメられている』という現実。
それと同じもの。
ここの子供は、2人ともイジメを受けている。
サクラはイジメられていることに対して、理由を言わなかった。
……いや、言わなかったのではなく、『分からない』
「おばちゃんがね、しっかりしてれば、……おばちゃんが強ければね、タダシを守ってあげられるんだけど」
子供は学校に行き、お母さんはごはんを作って家で待っている。
そしてお父さんの仕事の帰りを待ち、家族みんなで『いただきます』と言って夕食を食べる。
家族の形は全てそうだと思っていた。
しかしサクラの母は1人で、ごはんを作り、仕事に行き、2人の面倒を見ている。
一体何時間掛かるんじゃ。
『しっかりしてれば』、それ以上1人で何ができるんじゃ?
おばちゃんは、何年生きるつもりなんじゃ?
学校での2人のことまで手が回らないのは当然だろう。
アオはとことんサクラの母の肩を持つ。
「タダシは障害者じゃろ?勉強もうまく行かんよね?」
「……そうだね。時間が掛かるね」
「イジメられたら、勉強なんかできんよね?」
「……そうだよね」
「イジメられるのは、タダシが障害者じゃけぇなん?」
「……多分、そうだね」
サクラの母はそこでいったん口を閉ざした。
そして、
「……人はね、子供でも大人でも、自分より弱い者を見つけるのが上手なのよ。……辛いけどね」
母の声はだんだんと小さくなる。
それは分かっていたが…
頭に浮かんだのは、あの不思議な笑顔。
弱い者を見つけるのが上手?
それが強い者なのか?
言っていいことなのか、悪いことなのか。
アオは迷う。
言うべきか、言わざるべきか。
少し考えたが、先ほどのことが口から突き飛ばされた。
「……サクラも……サクラもイジメられとる。おばちゃん、サクラもイジメられとるんじゃ。仲間外れにされて」
「………」
アオの言葉に、サクラの母は静かに動きを止めた。
風が一つ、二つと通り過ぎ、長い髪の毛を撫でて行く。
やがて口を開いたサクラの母の声は、少し震えを帯びていた。
「……おばちゃん、サクラのその話、知らなかった……。あの子、家では明るくしてるんだけどね。……おばちゃん、本当にダメだねぇ……」
そう言って、アオの顔を見る。
「今日は本当に遊びに来てくれてありがとうね。これからも2人とお友達でいてくれる……?」
……昼間であろうが夕暮れ時であろうが、サクラの母は2人のことで頭がいっぱいなのだと分かった。
弱い?
この中に弱い奴なんかおるんか?
タダシ。
逃げて当然。
ワシも耐えられん。
サクラ。
逃げずに学校行っとる。サクラは強い。
そんな2人を生かしとるおばちゃんも、強い。
先ほどサクラから貰った『宝物』が右手の中でギュッと音を立てる。
サクラは、一番大事なものを自分にくれた。
その意味が少し分かり出した。
口ではなく、目がものを言うということも、少し分かり出した。
『これをあげるから、仲間になってくれ』
そんな諂いに歪曲されたものではなく、サクラの母が言う『ありがとう』という言葉。サクラの行為。
これらは、音にはならない感情なのだ。
アオは自分に確認する。
自分には父も母もいない。住む場所もない。
図書館に行ったこともない。保険証も持っていない。
学校にも行ってない。
それから、……嘘ばかり吐いている。
こんなに普通以下だが、大きい人間になりたいと思う。
これは本当。
『ありがとう』
『ありがとうね』
『ごめんね』
今日、何度この言葉を聞いただろう。
「………」
ここにいる自分は、この人たちに嘘を吐き通す礼儀が必要なのだ ――――。
アオはいきなり、勢い良く立ち上がった。
そして、
「おばちゃん!!」
「え、何?!」
サクラの母は驚いてアオを見上げる。
「ワシは…ワシは広島から来たんじゃ!」
「……そう。遠いところから来たんだね」
「そう、遠いところから来たんじゃ。ほいでのぅ、おばちゃん!」
座ったまま少し顎を上げ、アオを見つめるサクラの母。
「ワシら、ワシら、夏休みの間、2人の傍におっちゃるけぇ!何でそがいな、しょうもない仲間外れになんかされにゃぁいけんのんじゃ!仲間がおらん?2人もおりゃ十分じゃろう!のう、おばちゃん!」
「………」
「ワシら毎日ここへ来るで!ええか、おばちゃん!」
サクラの母はにこっと笑って、
「うん、いいよ」
と返事をし、そして「ありがとうね」と付け加えた。
それに対し、アオも宣言するように
「ありがとう!」
そう返す。
それから、アオは縁側から庭に向かって大声を上げた。
「おいお前ら!!」
驚いて歓声を止め、同時に振り返る3人。
「今からまた学校行くで!サクラだけじゃのうて、タダシも行くで!バスケットじゃ!バスケット!!」
サクラはその言葉に、下を向いてしまう。
「負けたままじゃ面白くないんじゃろうが!行くぞ!!」
吐き通さなければならない嘘のために、数々の学習が必要だと考える。
情に流されてはいけない、……そんな法律はない。
「おばちゃんも行くか?」
「え?おばちゃんも?おばちゃんは今日、家の掃除しなきゃいけないから…」
「そうか」
音を立てながら玄関へ行き、靴を履き、外に出る。
嘘と本当を混ぜっ返し、やらなければならないことを見つけた。
まずやらなければならないことを、見つけた。




