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こぼれおちるもの 6

「だから、ワタル兄ちゃんとコウイチ兄ちゃんはな、掛け算とかな、割り算とかができねぇと損するぞって言ってた。将来買い物したときにな、お釣り貰うの少なくって気づかなかったら損するだろって言って、イジメた。なぁ、アオ」

「………」

また『アオ』って言った。

まったく、と思ったが、それよりも引っ掛かることがある。

あのサクラの不思議な顔。

小突かれたくらいで、人があんな顔をするのか?

サクラが言っているそれ、カクゲンが言っているこれ、そして自分の思うあれ。

何だか少し訳が違うように感じ始めた。

「サクラもアレなのか?算数できなくてバカなのか?」

「ええ?」

「だから、勉強できねぇから勉強しろってイジメられるんだろ?」

カクゲンの言葉に、サクラは一度口を噤み、唇に力を込めた。

「……違うよ、ちょっと……いや、全然違うよ」

「何だー?」

「そういうのじゃなくて、……クラスのみんながね、私のこと嫌いなんだ。除け者にされてんの」

「「………」」

ニュアンスから、『クラス』というのはあの場所で言う『班』のことだろうと理解するが、だがそんなことはさておき、

みんなに嫌われて?

除け者にされている?

「………」

そのサクラの言葉に面食らった。

言葉を失うアオは、ふと傍に置いてあった記憶を引き寄せる。


……あれは、一体いつのことだっただろう。

赤い実で唇を染めた自分。

腹が減り、日頃からこれは食べてはいけないと言われていた木の実を口にした。

笑顔のまま、その姿をキョウコ姉ちゃんに見せたら、いきなり頬を叩かれた。

いつもとは違う……キョウコ姉ちゃんに殴られたことに腹を立て、いろんな段取りをすっ飛ばし、

「ワシの体なんじゃけぇ、何やっても勝手じゃろう!」

そう吠えてやった。

それに対し、キョウコ姉ちゃんは何も言わなかった。

しばらくして、他の人間から殴られたときとは違う音を感じて見上げると、彼女の目には涙があった。

……鈍いショックだった。

悪いことをしたと思った。身が小さくなった気がした。

しかし腹の底から湧き上がる、あの、……

キョウコ姉ちゃんは目を逸らした自分に、

「アオくん、平気?」

ただ一言そう言って、涙を拭った。

その白いシャツの袖が赤く汚れるのも気にせず、顔を拭いてくれた。

何度も。

綺麗になるまで。


あの光景。

あの時の気持ち。

あんなことはもう二度としないと、誓った。

手に届く、傍らのあの日。赤い目印。

それを、摘み上げるように思い出す ――――。


ひゅん、ひゅん、ひゅん!

真昼のアスファルトを、続けて3台車が通り過ぎた。

生温かい風が吹き上げる。

サクラは唇も視線も、動かさない。

カクゲンでさえ、サクラが自白に似た表情で告白した内容に、口を閉じたまま。

短い影を寄せ集めた3人は、無言のまま小さな歩幅で進んで行く。

―――― 次は一体誰が挑戦するのだろう。

それは、サクラ。

「……ノートをね、マジックで塗り潰されたりね……靴をね、下駄箱に置いてた靴を、隠されてたりね……」

告白は続く。

ぽつりぽつりと、しかし堰を切ったように。

たて笛を隠された。

集団でこちらを見ながら嘲笑された。

自分に聞こえるように、陰口を聞かされた。

気持ち悪いと言っていた。

病気が移るとも言っていた。

そしてサクラは何よりも、無視されるのが一番辛いと話した。

サクラに降りかかるその一連の出来事は、アオにとっても恐らくカクゲンにとっても我が身に置き換えるのは難しいこと。

今までの自分たちには、ない経験。

何をどう言っていいのか分からず、2人は口を開くことができない。

視線を遊ばせる芸などできず、気の利いた戯言も持っていない。


「………」


そのうち静寂が痛痒さを訴え始め、どうにか気配の瓦解をと声を立てた。

……諦めないのは簡単だと、信じろ!

「…じゃけどお前、さっきバスケットやっとる言うたじゃろうが。さっき、バスケットは5人でやる言うとったじゃろ。少なくとも5人は仲間がおるんじゃろ?」

探るように言い募る言葉は、自分たち3人を慮ってのこと。

しかしアオのそれは敢え無く裏切られる。

「バスケは学校の必須科目だよ。絶対に入らなきゃいけないクラブなの。当然バスケ部でも無視されてるよ」

「……無視?」

あの遊びで、無視。

どう考えたって、遊びにもならない。

アオの憧れは思っていたものとは違い、とても残酷だった。

白い羽根でも生えていそうだったアオの中。

そこに建っている妄想の学校はある種、人により姿を変えると理解する。


……またあの場所のことを思い浮かべた。

記憶を辿り、あの場所の顔、一人ひとりを思い出した。

あれだけの人数の中で、もしも自分1人が孤立し、嫌われ、除け者にされ、みんなから無視をされるとしたならば。

例えば、去年の今頃を想像してみた。

そこに立ち尽くしていたのは、1人ぼっちの自分。

他に人はいない。真っ暗。

周りが有ではなく無でしかない想像は、自分の限界。

あのお気に入りの木の上は、優越感に浸れるからお気に入りだった。

自分にしか登れなかった、あの大きな木の天辺。

あれもこれも、人が居たから。

周りに人がいたから、意味があった。

自分は行動も姿も声も、存在そのものが無であるかのようには振る舞えない。無視できない。

……ワシはあの実を、腹が減って食ったんじゃないのかも。

みんなの気を引くために……、

―――― あの時湧き上がったのは、薄暗い歓喜ではなかったか?

だとすれば、自分の表現に、間違いなくキョウコ姉は答えてくれた。

全ては自分以外の人がいたから、話し、立ち、瞬きをした。


あの場所ではいくら自分が悪さをしても、みんなから除け者にされ、無視されるなんてことはなかったのだ。

『違う』の言葉に反省をせずとも、『よし』の言葉に唾を吐いても、殴ろうとも蹴られようとも。

なのに、あの綺麗に並んだ一つひとつの部屋の中にいる人たちが、そんな恐ろしいことを行っている。

それは、外からは到底知ることのできない、濁り。

教育、その発端と生じるものは奥が深く、全ては、人 ―――― ?


そんなことを考えながら、ふと気付いた。

ベラベラとよく喋るはずのカクゲンが一言も発さず、黙りこくっていることに。

「……第三って、……イジメないの?」

「……え?……ああ、……うん、……ないのぅ……」

実に白々しい。

「それスゴイね。私も第三に転校したい」

「………」

転校?

移りたいってことか?

来いよ、

……とは言えない。


アオは考える。

出会ったばかりのサクラが自分たちに声を掛け、愛想良くバスケを、ルールを教えてくれた。

問うた様々なことに、一つひとつ笑顔で答えてくれた。

それは、サクラも人が恋しかったから。

人との接触に飢えていたから。

そう理解する。

こうやってのこのこと、サクラの家について行っている自分たちと同じように。

やがてそれまで俯き、また石を蹴りながら少し先を歩いていたカクゲンが、急に足を止めて振り向いた。

「……なぁサクラ」

「ん?」

「何人だ?」

「え?何が?」

「お前のことイジメてんの、何人いるんだ?」

「えー……よく分かんない」

サクラはまた困ったような、おかしな笑みを浮かべた。

あの学校で、あの四角い部屋の中で、サクラはいつもこんな顔をしているのだろうか。

それとも、さっきの無表情の方?

「サクラは今日から僕の子分になれよ」

「え?」

「僕の子分にしてやるぞ」

「え、何で?何で子分になんなきゃいけないのよ?」

声を上げた彼女を見る、カクゲンの表情。

アオはそれがいつの間にか怒りに変わっていることに気が付いた。

こんな時は怒ればいいのか? 

そうカクゲンに聞きたかった。

「何だー?子分になるの嫌なのか?」

「ヤだよ。何で子分に…」

「だからー、僕とダイスケが、サクラをイジメてる奴、全員ブッ飛ばしてやるぞ。サクラは何も悪いことしてねぇんだろ?」

「……分かんない。……多分してない」

「理由もなくお前を除けモンにしたり、無視したりしてんだろ?だったら僕たちがブッ飛ばしてやるよ」

カクゲンは大真面目に言っている。

どんな過程があるかは見当も付かないが、行き着いた先でブッ飛ばすのはきっと簡単。

彼の言っていることに否やはない。寧ろ、喜んで諾。

いったんは歩を止めた3人が、また揃って歩き出した。

「いいよいいよ、そんなの。殴ったりしたらダメだからさ。ありがとね、タロウ」

サクラが困ったように、それでも今度は嬉しそうに笑いながらそう言った。

「何だー?お礼なんか言われてもしょうがないぞ?まだ何もやってねぇから」

「うん」

「だったらしょうがねぇな。特別だけど、サクラを兄弟分にしてやるよ。なぁ?」

後ろを振り返り、カクゲンがアオを見る。

この頃の2人に、冗談を言う余裕などない。

血は繋がってはいないが、それ以上に。

そう思い、だから『兄弟分』

アオはそれが現実として可能かどうか、サクラを交えて考えようとして、しかしその前に体は大きく頷き、「おう」と返事をした。

「子分が嫌ならそれでどうだ?」

「兄弟分って何?友達ってこと?」

「友達?まぁ、それより上だけどな」

「じゃあ、学校終わってからとか、休みの日とか、一緒に遊んでくれるってこと?」

「おう、そうだぞ」

サクラは詰め寄るようにカクゲンに確認し、その答えを聞くと一瞬黙って眉を下げた。

「……ありがとう」

「何だー?サクラ。さっきからお礼ばっか言ってんじゃねぇか。僕らまだ何もやってねぇぞ?」

「ふふ…。さっきのジュースもありがとう、ダイスケ」

「おう」

「ふふふ…」

後ろで手を組み、足を大きく出して靴音を高く鳴らしたサクラ。


この3人の会話、それぞれが思惑と大きな意味を持っていた。

3人が3人とも凸、もしくは凹で、向かうベクトルは同じではない。

しかし、それで良かった。


ガードレールに沿った、砂の交じるアスファルトをじゃりじゃりと踏み鳴らして、サクラが笑う。

アオはその笑顔に、泣き出しそうな表情が浮かんでいるのを見つけた。

カクゲンはどうやら気づいていない。

「女はな、邪魔になることが多いんだけど、しょうがねぇよ」

「えー、何よそれ!」

じゃれる2人を後ろから眺めながら、カクゲンが法律をあやふやにしていることに引っ掛かりを覚える。

ワシらは兄弟分じゃのうて、兄弟じゃろ。

そんな、掛けられない言葉を詰まらせている。

しかしサクラがあまり気にしていないようなので、アオも何も言わずに2人の後をついて行く。

難しいことは時間のあるときに考えよう。

ワシャぁ賢くないんじゃ。

そんな言葉を噛み締めて。

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