祝福を 1
虐政から逃奔し、自らをあの場所から切り出したのは、確か12歳のときだと記憶している。
あの時の年齢が『確か』なのは、自分が学校というものに通っていなかったからだと、そう思っている。
5月1日 初夏 雨
自分に限らず、ここで暮らす子ども達は、全員学校などというものには通っていない。
周りは皆、自分のことを『アオ』と呼んだ。
本来の『アオキ』という名前を使うのは大人のみで、本名とはいえそれはまるで便宜上与えられた番号のような響きを持っていた。
もちろん下の名前もあるが、そんなものなどこの場所では必要なく、どうでもいいもの。
外に向かい、大人たちは『自分たちは教員免許を持っており、子ども達にはここで教育を受けさせている』と公言していた。
しかし実際のところ、自分たちの扱いといえば家畜同然。
国からの援助が欲しい大人たち。
そのために集められた、身寄りのない子どもたち。
無力な子どもたちは大人たちの嘘を正とも誤とも口に出せず、無知であることを理由に愚弄される日々をただ耐え続け、時間を浪費するしか術がない。
逆説を唱えるかのように、ある種そこでは華奢で木っ端な人の生活が存在していた。
監査のようなものが入るときは、素行の悪かった自分とカクゲンは毎回地下に監禁される。
大人に取り囲まれる度、実力を試す機会とばかりに大暴れしていた自分はともかく、カクゲンが一体何をやらかしていたのか詳しくは知らない。
カクゲンとは幼い頃から顔見知り程度で話などをする仲ではなかったが、同じ地下牢に閉じ込められるようになってからは、少しずつ会話をするようになった。
奴の母親は台湾だか香港だかの女で、日本人の男と一緒に奴を捨てて逃げたらしい。
本人からそう聞いた時、礼儀上こちらの経緯も話すべきだとは思ったが、結局面倒で説明しなかった。
毎日繰り返される、足すことも引くこともできない日々。
ただ一つ、アオは考える。
体だけは鍛えておかなければならない。
18歳になればここを出て行ける。
それは、アオにとって人との関係や社交性の構築よりも、扇情的で魅力的な事実。
例えこの現実しか知らない頭でも、未知に僅かな希望の点在くらいは築けるのではないか。
そう信じていた。
だからいつか何かで自分の役に立つだろうと、出来うる限りの知恵を絞り出して体を鍛える。
手摺りを利用しての懸垂や腕立て伏せ、腹筋。
もちろん監禁されている間も惜しまない。
傍に誰がいようとも関係なく、それを欠かしたことはなかった。
カクゲンはいつも傍で膝を抱え、そんな自分をじっと見ている。
あの日は珍しい日だった。
「……あのさぁ、アオにお願いがあるんだけど」
いつも話しかけるのは自分の方からだというのに、この時初めてカクゲンから話しかけてきたのだ。
懸垂をしながら、面倒だとは思ったが一応それに耳を貸す。
しかしカクゲンの話は、ながらで聞くには荷の重いものであった。
ここから2人で逃げないか。
カクゲンはいきなりそう言った。
アオが信じていたのは18歳までの自身。
当然賛成はしかねる内容である。
ここにいれば、粗末で少ないながらも1日2回の食の確保はできる。
あと6年もすれば一応の道筋を用意され、堂々と出て行けるというのに。
しかしそう考えるのと同じ質量で、たかがそれだけのことと思う自分もいる。
浅知恵ながらに易く述べるカクゲンの便法と、実に微温湯的な自身の態度。
拮抗しながら攪拌されたそれらは、やがて平温へと戻っていく。
……他人に、自分が根性ナシであると思われるのは嫌だった。
まず過ぎったプライド、そして次に、そんな陳腐な思考よりも自分が賛否どちらに領しているのかを考える。
毎日毎日鈴の音で起き、鈴の音で寝る。
そんな自分を卑猥に感じた。
刺激すら最低以下、その最中、己の感情を壊すように治療していた今日までの自分を思い返す。
……動きのない自分に興味はない。
そうしてアオは、カクゲンの申し出に了承の言葉を返した。
5月15日 初夏 26時頃 雨
その日、降り続ける雨は冷たく、晩冬を思わせるほどに寒かった。
2人は事前の打ち合わせ通り、敷地を囲う高い塀をよじ登り、逃亡を開始した。
監視が付いていたわけではないから、逃げる自分たちの後を追う者はいない。
山の上にあったその場所周辺に灯りなどはなく、一度闇に紛れてしまえばあとは木々が隠してくれる。
しかし2人は初めて味わう緊張感に心臓が飛び出てしまうほどの鼓動を覚えるから、ただ逃げる。
あの場所から2人の人間がいなくなる。
この事実がどれほどの事態を引き起こすのかは知らない。
蛮勇と分かりきってはいるが、2人の頭の中には捕まった時の状況ばかりが連動して押し寄せる。
だから、逃げる。
何度も何度も後ろを振り返りながら。
もちろん逃亡ルートも打ち合わせ済み。
塀の向こうに見える大きな高い木まで走ったら、アオは右、カクゲンは左。
下方に見える街明かり。そこで落ち合おう。
2人の足は止まらない。
第一の目的地目指して、ただ走る。
当初計画した通り、行程は順調だった。
黒いシルエットで焼きついたあの大きな木からは、絶対に目を離さなかった。
「ハアッ、……ハアッ、ハアッ……ッ!」
暗闇に手足を引き摺られる。
誘い込むように口を開けたかと思うと、次の瞬間には阻み落ち込むホラアナ。
何度も足を取られ、転びそうになった。
数えきれないほどの切羽を飛び越え、そして目の前にやっと、最初の門。
アオは右。
カクゲンは左。
顔を見合わすこともなくお互いに背を向けて再び加速した途端、―――― それは突然のことだった。
後方でずるりと、引き攣れた音がした。
アオは思わず足を止め、振り返る。
と同時に悲鳴が。
落下していくカクゲンの甲高い大声が。
「カク…ッ!!」
叫び声を上げようとした自分の口を咄嗟に押さえ、何とか堪える。
カクゲンが走って行った方向……確かあの辺は崖になっていた。
闇へ目を凝らしてみても、何も見えない。
耳を澄ましてみても、滑落などの音は聞こえない。
引っ繰り返したような騒音は下を通る川の流れの音なのか、それとも雨が地面を叩く音なのか。
―――― ええか、どっちかが捕まってもどっちかが逃げりゃあええ。
あの街みとうなところへ着くまでは、お互い一人ひとりで行くんじゃ。
助け合いはナシで?
お前は例えワシに何が起ころうと、ワシは例えお前に何が起きようと、見捨てて先へ進むんじゃ。
ええの?
自分の提示したその条件。
アオは進む先を見据え、光の集まる遠い街を見下ろす。
そして意を決し、再び走り出した。
木の枝が左目を叩き、Tシャツを引っ掻き、短パンを掴む。
闇と雨で視界が悪くて仕方がない。
道なき道をひた走る。
ビーチサンダルは意思として繰り出したはずの足に、予測できない動きをさせる。
それでも構わず走り抜ける。
転んでは起き上がり、躓いては踏ん張り、更に追っ手から逃げるように、体力の続く限りひたすらに、ただひたすらに全力で駆け続ける。
脱出からどれだけの時間が経ったのか。
ようやく山道を抜け、少し拓けた場所に行き当たった。
「ハア、ハア、ハア、ッ! あ、ハア、ハアッ……ハ……ッ」
息が切れる。
気道がひりつく。
荒い喘鳴を聞きながら、アオはまず周りを見渡した。
それから、下ってきた山を見上げてみた。
上からはよく見えていた街灯りも、スタート地点の僅かな蛍光灯の光も、何も見えなくなった。
そして目の前に広がるのは、
ザアァァァ ――――……ッ
……川だ。
真っ暗な川。
降りしきる雨は、零した玉のような音を立てて水面に吸い込まれて行く。
その光景を半ば呆然と眺めていたアオは、そこで初めて左足の違和感に気づいた。
屈み込んで足首を触ってみると、水ではない、滑らかな液体の感触。
詳細に指でなぞるとかなり深い傷であることが分かった。くるぶしの辺りが大きく抉れている。
指の血を擦り合わせ、ぬるぬると滑るそれに多量の血液が流れていることを知る。
あそこからここまで、どれくらい走ったのだろうか。
あいつ、あの崖から落ちたんじゃもうダメじゃろうのぅ…。
失望と共にそう思った。
大きな傷に気づいても、何かで麻痺したかのように痛みを感じない。
アオは砂利の上で足を捻りながら川に近づき、サンダルのまま左足を川に浸した。
洗うとった方がええじゃろう。
この川、キレイなんかのう…。
ガラガラともバチバチとも聞こえる雨の音。
波打つ川の景色を、ただ呆けたように見つめ続ける。
……ここまで来ても、まだ迷っていた。
ほんまにこんな風に逃げんといけんかったんか?
誰も追い掛けて来んじゃないか。
あそこの奴らは、ワシらがおらんくなったことにも気づかんのじゃないんか。
……今ならまだ、あそこに帰ることができる。
この先、自分はどうなる?
それらは全て、1人になってしまったことから来る不安や愚痴に違いない。