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こぼれおちるもの 2

東西南北どこに進んだかなど知ろうとも思わない。

確認すべきは、ただこの道が180度折れ曲がっていないかのみ。

あれから8度、夜が来た。

その間、足を痛めながら、ひたすら歩いた。

これまで隔絶された生活を送ってきた自分たちでも、世の中には電車・バス・タクシーという交通手段があることくらいは知っている。

それに乗るためにはお金が必要だということも知っている。

そして、恐らく足りるであろう金額を所有しているだろうことも、分かっていた。


「もう歩けないよぅ」

何度もそう駄々をこねるカクゲンに、アオは目立った行動をしてはならないという名目を口にしながら、電車・バス・タクシーには一切乗ろうとしなかった。

本当のところ、実は乗り方が分からないということはカクゲンには告げていない。


あの件を、忘れてしまいたいと思った。

しかし忘れようと思えば思うほど、鮮明に思い出した。

記憶の中の血に染まったカクゲンの笑顔に、切っ先を突き付けられているような気がした。

……さあ答えを、と。

昼でも夜でも蘇れば関係なく、あのカクゲンを、自分たちを包むのは闇色だった。

……喰われるほどに。

仕方がないと開き直るにはアオはまだ子供で、その答えを導き出すには知識がなさすぎた。

結局何の処理もできないまま、突き進むしか方法がない。


「ねぇ、あそこはどうなのかなぁ?」

カクゲンが指差した遠く、背の高い白く光るビルが見える。

高い位置で点灯を続ける優柔不断な赤い光が、……ひとつ、ふたつ。

「もうちょっと行こうや」

「……うん」


あの河川敷で過ごした数日間は、2人にとって無駄ではなかった。

落ち着く場所はできるだけ街中がいい。

田舎に居座ると、全く知らない人たちがやけにナアナアで話しかけてくる。

だが、人の多い街の人たちはあまり他人に興味を示さない。

あの、誰かの落し物を見るかのような蔑んだ目は我慢できないところではあったのだが。

それに人の多い街には飲食店がたくさんある。

そして、まるで孤立したかのように寂れた場所もある。

2人はなるべくビルの多い、大きな街へ向かい、その、人知れず時間を過ごせる寂れた、都合のいい場所を探し求めていた。

まるで、自分たちは善戦しているとでも言いたいかのように。



7月29日 晴れ 9時頃


2人はあの、力づくで奪い取った金を元手に少しずつ前へ進み、ある街に腰を下ろした。

もう10日ほどになる。

あそこを出てから、あの河川敷の小屋はベストな場所だったと、後悔を交えながら話をすることがよくある。


2人が今、夜を過ごしているのは、ある会社の資材置き場。

夜はいいのだが、昼はたくさんの人が行き来して落ち着かない。

大人たちの目を避けるように、ウロウロコソコソして日中を過ごしている。

それでも取り合えずと思い、その場所を睡眠を取るためだけの場所として使っていた。


「ねぇ、アオさぁ」

カクゲンが右目をごしごし擦りながら話しかけてきた。

「ん?……お前、ビー玉痒いんじゃないんか」

「うん、ちょっとね」

彼はたまに右目を赤く腫れさせ、擦ることがある。

「ちょっと見せてみい」

義眼の嵌った右目を覗き込むと、やはり周りが少し赤みを帯びて腫れている。

「水で洗ったら治るよ。それよりもさ、アオは夏休みって知ってるか?」

「夏休み?夏の日曜のことか?」

「僕も最初そう思ったんだけど、違うみたいだよ。最近さぁ、あそこが妙に静かじゃん」

カクゲンが指差したのは、寝場所の近くにある小学校。

「そう言われてみりゃそうじゃのぅ。キーンコーンっていう音楽もかかりゃせんし」

「そうだよ。だっていつもは人がいるのに、ここんところ人がいるのを見たことないもん」

抱えた膝を更に引き寄せ、カクゲンが続ける。

「それにさ、この間パン買いに行ったときにね、おばちゃんたちが話してたんだよ。夏休みはウチに子供がいて騒がしくって大変だって。9月までずっとこうだと思ったら堪らないってさ」

「うん」

「だからさ、僕思ったんだよね」

「うん」

「夏休みっていうのは、子供は夏の間ずっと日曜日なんだよ」

「………」

夏の間がずっと日曜日。

世間にそんなルールがあったとは、驚きだった。

カクゲンの言っていることが果たして正しいのか誤りなのか。

それは分からない。確かめる術すらない。

しかしあくまで推測の域を出ないが、多分きっと同世代の人たちは今、その『夏休み』というものの最中にいるんだろう。

静かなあの小学校を見る限り、きっとそうなのだろう。

きっと至極当然のこととして、『夏休み』というものを味わっているんだろう。

「………」

思わず溜息が出そうになるが、当然弱っている自分の姿には興味がない。

「で?だから何じゃ」

「だからさ、入っちゃおうよ」

「……え?」

「学校、入っちゃおう。ボールはあるしさ、サッカーやっちゃおう」

実に前向きなカクゲンの日頃の言動の背後には、大いなる無知が存在しているということももちろん知っている。

「……でも人に見つかっちゃぁいけんのんで」

「大丈夫だよ。見つかんないし、見つかってももう返事は決めてるじゃん。退屈でしょうがねぇよ。行こう、アオ。あの塀なら簡単によじ登れるよ」

「………」

気は進まないが、カクゲンのつまらないときに出る溜息を何十回も聞いているよりかはマシかと思った。

強引に腕を引くカクゲンに引き摺られるように、2人は近所の小学校へと向かう。


カクゲンの背の、ちょうど2倍の高さがあるフェンス。

ガシャガシャと音を立てながらよじ登り、飛び越え、2人は小学校のグラウンドへ侵入した。

人っ子一人いない、日陰もないその広い場所に降り立つと、優越感に浸れる気分がする。

「アオ!サッカーだ、サッカー!!」

ずっと持ち歩いていた茶色いボールを、嬉しそうに地面に転がすカクゲン。

少し離れた場所から、彼がボールを蹴ってこちらに寄越した。

アオも同じように蹴り返す。

それを2~3度繰り返したところで、

「……アオ、これ何が面白いんだ?サッカーってどうやってやるんだ?」

「………」

カクゲンの問いを聞きながらも、アオはといえばサッカーのことより学校の校舎の方に興味が行っている。

聳え立っているように見えるその校舎の一部屋一部屋に、本来たくさんの人が集まっているのだ。

自分たちと同年代の人たちが。

そこでみんな、学んでいる。

文字や計算や、今世の中で何が起こっているのか。

それに加え、個々が、自分が何であるべきか、何になるべきか。

そんな、総じて言うと全ての縮図やルールを、アオがいくら考えても答えの出ないことを、学んでいる。


ぼうんッ!


また返ってくるボールを蹴り返しながら、アオはこの場所に憧憬と嫉妬を持って思いを馳せ、彼らに確実に置いて行かれている自分の姿を思い知り、唇を噛み締めた。

……みんな、れっきとした生活をしながら、幸せに違いない。

「ねぇアオ」

「んー?」

「サッカーだよ、サッカー」

「サッカー?今やっとるじゃん」

「だからルールだよ。どうなれば負けで、どうなれば勝ちなんだ?」

「……知らん」


うるさいほどのセミの声。

乾いた砂が潰れる音。

鈍い打撃音。


アオが蹴ったボールは一度低い弧を描き、カクゲンの目の前に転がって行く。

その時だった。

「あ――――ッ!!」

「「!?」」

カクゲンの声でも、もちろんアオの声でもない大声がいきなり響いた。

勢い良く後ろを振り返るカクゲン。

アオも何事かとカクゲンの影を避け、その向こうを覗き込む。

……気付かなかった。

いつの間にか、2人のすぐ傍に人が立っていたのだ。

カクゲンはボールを蹴ることに、アオは学校というもの自体に夢中になっていた。

しまったと思ったが、こんな時にこそ慌てることのないよう、2人の間には法律がある。

やがてカクゲンはアオに向き直ると、後ろの人物に構うことなく、再びボールを蹴り返して来た。

アオは今度はそれを返さず拾い上げ、カクゲンの傍に歩み寄る。

この場の収拾が、まずは先。

だがそれを邪魔するように、

「ちょっとー、ダメよ!バスケットボール蹴っちゃ」

「「??」」

自分たちが注意を受けていることは分かったが、言われた意味は理解できなかった。

2人は揃って、その声の持ち主を眺めてしまう。

そこに立っていたのは、同じ年齢くらいの女子。

返答に相応しいのが一体どの言葉なのか分からないアオは、相手の次の行動を待つように胸元でボールを持ったまま突っ立っている。

その隣で、

「何だー?」

そう最初に問いかけたのはカクゲンだった。

「だから、バスケットボールは蹴っちゃダメだって」

そう言ってこちらへ歩いて来る女子。

「そう。……バスケットボールって何だ?僕たち、サッカーやってんだぞ」

「だーかーら!バスケットボールでサッカーやっちゃダメって言ってんの!」

「「??」」

その女子はアオが持っている茶色いボールを奪うようにして取り上げ、2人の顔を交互に見た。

「何?アンタたち、バスケットボール知らないの?」

「「………」」

2人の法律に『バスケットボール』に対する決め事はない。

返事をあぐね、無言で立ち尽くしているだけ。

逃げるのが賢明か……でもここで逃げれば、また街を変えなければならない。

すると、女子がグラウンドの端を指差した。

「ほら、あそこにバスケットのゴールがあるでしょ」

促されて目を遣ると、白いボードの付いた、変わった形の器具が見えた。

「おー、あの四角いヤツか?あのカゴみたいなヤツが付いてるヤツか?」

「そうよ。あれにね、」

そう言って、女子はボールを片手で突きながら、ゴール目掛けて走り出した。

アオとカクゲンも訳が分からないまま、揃って彼女について行く。

女子はゴール手前で止まり、ボールを両手で持つと、それをヒュッと投げ、カゴの中にストンと入れた。

枠を通ったボールはてんてんてん、とバウンドを繰り返し、地面を転がって行く。

それを拾い上げ、女子は2人に、

「こうやってやるんだよ」

そう笑い掛けた。

「おー、あのカゴにボール入れたら勝ちなのか!」

「勝ちっていうか、うーん……点が入る」

「点?」

「……あー、……とにかく、バスケットボールを蹴ったら先生に怒られるよ。2人は何年生?」

その問いにはまずアオが口を開いた。

「6年生」

その後カクゲンが「5年生」と返事をする。

やっと2人の法律に沿った応答ができる。

「アンタ、アンタは何年生じゃ?」

「私も6年生。……アレ?アンタ、ここの学校じゃないよね?」

聞かずともそこまで答えてくれた女子に、アオは法律通り、

「ここ、第二じゃろ?ワシら第三小学校じゃ」

そう返事をした。

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