こぼれおちるもの 1
12月20日 晴れ 22時頃
帰宅する者
出社する者
それから、目指す場所のない者
向かい、並び、横入りし、そしてまた向かい。
途切れることのない人混みを掻き分けながら、広い肩を竦め、小走りで先を急ぐ青年。
アオ 22歳
そこは、とても大きな駅。
その北側の入口から入ったアオは厚手のジャンパーのポケットに両手を突っ込み、軽快に人をかわしながら目的地へと進んで行く。
重いウエスタンブーツの底が、地を突くたびにゴツンゴツンと音を立てる。
それと同じ速度で、大きく巻いた髪が跳ねるように左右に揺れる。
急ぎ向かう場所はコインロッカー。
列でいうと奥から2番目、そしてその突き当たりの更に一番奥。
入り込んだそこに、人影はない。
アオはスッと片手を伸ばし、蛍光灯の熱で温まったロッカーの上を手探りする。
時期ごとに通うこの場所。
その度に確認する目印。
するすると滑らせる指の腹に、ツッとその目印が引っ掛かった。
……あった。
ロッカーに張り付いたそれをペリッと剥がし、付着した埃を吹き払う。
それは、もう何年も手に取ってきた、○ッ○ー○○○のマグネットシート。
アオは指先でなぞるように形を確かめ、それから無造作にポケットに仕舞い込んだ。
……今回は何日掛かんだろうな。
その呟きと共に。
―――― しがないと、そう感じていた。
一方的な定めは、好きでしたことだから。
蠢いている、そうも感じた。
それは、自分のことだから。
ただの空洞だと思っていた場所に、名のあるものを見つけた。
見たことも触れたこともないそれは、自分も吸引していいものだと一度は思う。
だがその希望の匂いに問うと、返ってくるのは香ばしくもないウラッカワ。
ウラッカワの裏はというと、一週間前に手を突っ込んだものとあまり変わらない。
残りカスを集めては積み重ねた、アレやソレを象ったもの。
―――― 自分は何で在りたい?
許可を求めるように、許してきた。
しかし、この問いはもう最後にする。
消えぬ残像を見つけた。
自分たちが手を伸ばさなければならない、残像を見つけた。
咽ぶほどに明るく、知らないほどに白々しい。
それはきっと、自分たちを誰も知らないほどの最後尾に落ち着かせてくれる。
必ず、そうだと思う。
至高を飲み込む、その際で。
必ず、そう思う。
だから、この問いはもうやめにするのだ。
アオはロッカーの影から抜け出すと、今度は南の出口へ向かってゆっくりと歩いて行く。
寒いなぁ…。
ワシ、寒いのはほんとに苦手だ。
駅を出る前に、目に付いた立ち食い蕎麦屋に寄って体を温めることにした。
程なくして出されたそれをほんの数十秒で平らげ、また次の目的地へと向かう。
行き交う人は止まらない。
時刻は、繰り返す今日がもうじき終わる頃。
ゴツンッ!
力加減を誤り、一層響いた一歩に合わせて視線を上げた。
見えてきた、第二の目的地。
アオは大きなコンパスそのままに、駅の端にある階段の下へ近寄って行く。
その一角を陣取ってブルーシートを敷き、胡坐をかいて座っている男。
「ウマじい、寒くねぇか?」
そうアオに声を掛けられた彼が、ふと顔を上げた。
年は恐らく70過ぎ。
すでに元が何色だったかも分からない、グレーが染みた、服に帽子。
何一つ手入れのされていない、白と黒が混じった髭面の老人がこちらを見上げる。
開き具合の分からない、への字の目をして。
「……おう、デカかぁ」
筋の立った喉元が鳥のように思えた。
「デカじゃねぇって」
「んー?ああ、アカか。赤色だったのう」
それに、アオはふっと笑い、
「色はいらねぇし、アカじゃなくてアオだって」
そう応え、男のシートを踏まないように、正面に屈み込む。
そのシートの上には、たくさんの漫画や雑誌がずらりと並べられていた。
アオはその中の1冊を手に取り、男に掲げて見せる。
「ところでよぅ、この漫画、本当に売れんのかよ?」
「ああー?」
「こっちの漫画なんかコレ、破れてんじゃねぇか」
「ああ、それはアレだ。表紙が汚れとったからの、表紙を千切っとるから30円じゃ。全部今日発売の漫画雑誌だからのぅ、売れるよ」
「……ふーん」
アオは気のない返事をして、手にしていた漫画を元の位置にバサッと置く。
と同時に、すぐ隣に若いサラリーマンが立ち止まった。
じっと見上げるアオの視線の先で、彼は無言のまま1冊の漫画を手に取ると、10円玉を4枚投げ落とし、再び去って行く。
それを見て、アオは小さく呟いた。
「はあ……売れるんだなぁ…」
「そりゃあのぅ」
男はそう言ってニヤリと笑い、そして続けて、
「今度のレースはのぅ…」
アオは屈み込んだまま、寒さに耐えるように両手を擦り合わせる。
ここから30分以上は、この老人の競馬に関する話を聞くことになるのだ。
アオはその体勢を変えず、笑みを浮かべながら、うん、うん、と頷き、この『ウマじい』と呼ぶ男の話が終わるまで聞いていた。




