祝福を 9
男はカクゲンの言葉に笑みを浮かべながら、
「2つかぁ…。そうだなぁ、じゃあ2つお願いするかもしれないけど、言うことを聞いてくれるのは君だけでいいんだよ。ちょっとおじさんと一緒に来てほしいところがあるんだ」
「来てほしいところ?」
「そう。そして会ってほしい人がいるんだよ」
「ここから離れてどっか行くの?」
「うん。ここから車で15分くらいかな。あの車で一緒に来てほしいんだよ」
男が指差した先に、真っ黒で大きな車が停めてある。
瞬間、カクゲンの目の色が変わったことは分かった。
もちろんこういうことが起こる想定などできておらず、カクゲンがどう返事をするのかアオにも分からない。
が、
「うわぁ、スゲェ!!あの車!?」
目の輝きに等しいカクゲンの返事。
「車って一度も乗ったことがないんだー!スゲェ!!アオ、あの車に乗っけてくれるんだって!!」
3人の隙間からこちらに視線を向けて話しかけてくるカクゲン。
……喜んでいる場合ではない。
状況を、やはりカクゲンは把握できていない。
そう思った。
待っていた動くタイミングを完全に見失っている。
襲い掛かり、2人で逃げる前者。
1人でこの場から逃げ出す後者。
……どちらにしろ、選択肢はより狭まった。
アオはこのままこの時を静かに終え、カクゲンが連れて行かれた後、1人でこの場を離れようと考える。
そういう約束だった。
そういう法律を作った。
滑稽で嘘まみれではあるが、2人で決めた法律にはこの場合こうすると記されている。
「分かった。じゃあ会いに行くから許してくれるよね?」
「ああ、もちろん。来てくれるならね。でもね」
「ん?」
「あっちの彼は来てくれなくてもいいんだ。君1人で来てくれれば」
「え?」
不安そうにこちらを見つめるカクゲンの目を、ただじっと見返し、何の言葉も発さないアオ。
あの大人が『君ら』と言っていたのを、途中から『君』に変えたのには気づいていた。
カクゲン、気づけや。
ワシはもうお前を見捨てる気マンマンでおるで。
上手く行ったら、もし上手く行ったらお前も逃げてくるんじゃ。
次の待ち合わせ場所は分かっとるじゃろう?
3番じゃ、3番。
分かっとるよの?
目で訴えるアオの言葉がカクゲンに伝わったのかは定かではない。
「どうだい?1人でついて来てくれたら、警察には何も言わない。約束するよ」
「………」
こちらを見つめるカクゲンは、アオの意見を待っている。
アオはそれに気づきながらも、頑として言葉を発さない。
……どうする?
数秒の間隔を置き、カクゲンは、
「……うん、ついて行く」
そう返事をした。
「またここに帰って来れるんでしょ?」
「もちろん」
「その人に会って何するの?」
「そりゃまぁ…その人に会ってから話そうか」
「………」
4人はまたアオを素通りして車へと向かって行く。
土手へと向かう坂を上がり、車のドアが開いたところでカクゲンがこちらに向かって大声を張り上げた。
「アオー!3番だよね!分かってるけどちょっと待ってて!!」
アオは振り返るようにしてカクゲンを見上げる。
ちょっと待つっていつまでじゃ。
そんな時間なんぞ決めとらんで。
法律にない言葉を掛けられても対応しかねる。
今回のようなパターンは想定になく、自分たちの法には含まれていない。
アオはカクゲンの言葉をただ1人寂しく聞き、走って行く車の後ろ姿をその体勢のまま見送った。
30分ほどは呆然としていた。
自分の、我々の思考ではこの状況をうまく把握することなど不可能なのだろう。
そう理解するのに要した時間が30分。
ワシはお前を置いて、1人でこの街から逃げるで。
そう思った少し前。
そして現在の心境。
アオは法律に則り、取り合えずはと2人で決めていた3番の場所へと向かう。
目印は黒い看板。
おぼろげなその文字を思い浮かべながら、1人ぼっちの俗悪な自分を想像した。
「今回は順番的に3番で待ち合わせじゃ」
独り言を呟きながら歩いた。
「そう、これでええんじゃ。お互い居場所が分からんようになったときも、待ち合わせは3番なんじゃ」
たった1人、密約するかのように呟きながら進んだ。
目的地は大きなマンションの敷地内にある、広い駐車場。
そこには黒と青で書かれた大きな看板が掲げられている。
「……あぁ……」
思考なく零した一つの溜息は、自分のためのもの。
アオの心境はちょうど半分半分で交錯していた。
緊迫の最中、
『待っていてもあいつは来ないだろう』
俗気を何とか抑え込み、
それから、
『ここで待っても、あいつはここへは来れないだろう』
アオの中で、カクゲンが捕まってしまったという考えは揺るがない。
この場合、2人の法律では片方のみで生き抜かなければならないのが決まり事。
「……判断しかねるんじゃいや。はっきりせぇや、お前。ワシャあどう動きゃええんじゃ」
先ほどの俗悪の気配を見ながら考える。
曖昧な状況では各々の判断で決めるしかない。
アオが今日すべき選択の参考になるのは、カクゲンならどうするか、それしかない。
アイツならどうするか……
分からん!
ワシは!
―――― 先へ進むで。
「………」
意を決したつもりだった。
しかし熱を持たず、浸透しない叫びは、やはり項垂れるだけ。
座り込むことすら思い浮かばなかった。
駐車場の入口で呆と突っ立ったまま、静かに停まる車たちを目に入れながら映らない一点をただ凝視している。
その場で1時間は待たなければならない、待ち合わせのルール。
理解しかねた『ちょっと待つ』時間。
アオは時を数えるのも決め事も忘れ、大した時間も過ごすことなく駐車場を後にした。
誓いの音を鳴らしたところで曖昧な思考は誤魔化せず、アオが歩いて向かったのは結局いつもの小屋。
現在の待遇とこの先の展望。
逆らうフリをしながらも、やはりここへと帰って来てしまった。
小屋の中に1人入り、膝を抱えて座り込む。
額を膝に付け、丸くなる。
……このままこうやっとったら、ワシャ何日もつかのぅ…
「あそこへ帰ろうかのぅ…」
背くように額に聞いてみる。
「ワシャぁ何でおかんに捨てられたんじゃろうのぅ…」
気づかぬうちに、思考は自分を叩くことばかりし始める。
アオはそうやって時間を計るでもなく、ただ1人小屋の中でじっとりと座っていた。




