ティア・ドロップ
* * *
僕が生まれる少し前から、世界中に恐ろしい病気が広まり始めていた。じわじわと人間を蝕んでいく病気に、特効薬なんてまだ見つかっていないし、進行を遅らせるための治療もほんの気休めでしかなかった。
幸い、僕の村は世間から遠く離れた山岳地帯にあったので、まだそれほど深刻な問題ではなかった。
けれど最近、次々と体の不調を訴える者が現れた。微熱が続く、食欲不振、ひどい筋肉疲労……死者がでるまでにさほど時間はかからなかった。
ある日、偉い役人たちが僕の村にやってきた。
なんでも、大都市の人口減少が止まらず、こんな田舎村にまで足を運んで健康な人間をかき集めているらしい。
一応の名目は、この病気の研究員を育成するため、ということだった。
僕は健康だから研究所に行くことになった。友達や知り合いのおじさんも一緒なので安心だ。
研究所に着くとまず、一ヶ月ほどかけて念入りに健康診断や体力測定を受ける。僕は異常なしだった。
友達の中にはすでに感染している奴もいて、その後彼がどうなったのかはわからない。
僕はまだ十五歳だから、正式な研究員としてではなく研修生として入所した。それでも仕事を与えられるくらいだから、よほど人が足りないのだろう。
研究所での僕の仕事は、「天使」を飼育することだった。
仕事に就く前日、僕は彼女の部屋に案内された。
真っ白な部屋の真っ白なベッドの上に、真っ白なワンピースを着て横たわる少女。名前はエリーゼ。まだ七・八歳に見えるけれど、実際には二十歳を超えているらしい。
彼女は、現在発見されている唯一の免疫保持者だった。
生まれてすぐに研究所に保護され、「天使」として大切に育てられている。
「天使」に自由はない。
赤ん坊は、泣くと反応が返ってくることから学習すると聞いたことがある。
だけど彼女は泣いても笑っても反応は与えられなかった。それどころか、彼女の目の前でものを動かすことも、彼女のそばで音を立てることも、食事と検査以外に彼女に触れることも禁じられていた。
限りなく無に近い状態の中で、彼女は成長を止められて生きている。
説明してくれた研究員は言った。
「これは『天使』が反乱しないために仕方なくやっているのです。『天使』に逃げられたら、もはや人類に希望はありません」
天使が自由を手に入れるのは、いったいいつになるだろう。
翌朝から僕は、ベテランの研究員に付き添われて「天使」の飼育に取りかかった。
毎日決まった時間に食事を与え、熱をはかり、簡単にベッドの周りを掃除する。週に一度、検査と研究のために採血をすることになっていたけれど、これは僕には無理だから研究員がやってくれた。
一ヶ月もすると、僕は一人で彼女の世話を任されるようになった。
その頃から、この仕事がたまらなく嫌になる。エリーゼに対する想いが強くなってしまったからだ。
あるとき僕は、誤って食器を床に落としてしまった。大きな金属音が部屋中に響く。
「しまった!」
つい声を発してしまう。
すると、エリーゼの体が微かに動いたように見えた。
もしかして、まだ感覚神経は生きているのか?
試しに僕は、次の食事の時間からエリーゼの耳元で少しずつ話しかけることにした。
他の人たちに気付かれないように、小さな小さな声で、こっそりと。
「おはよう、エリーゼ」
「今日はいい天気だよ」
「さぁ、食事の時間だ」
「明日は採血の日だね」
なんでもいいから話しかけた。
はじめのうちは体がぴくりと動く程度だったけれど、次第に視線が動くようになり、やがて首を動かそうと力を込めるのがわかるようになった。
僕の彼女に対する想いは、ますます深くなる。
「なんとか、彼女を助ける方法はないかな……」
誰に相談することもできないこの恋に……おそらく恋に……僕は毎晩頭を悩ませた。そしてそのたびにあの研究員の言葉を思い出し、胸が苦しくなった。
人間の存続と、天使の自由……
ついに、研究員たちがエリーゼの変化に気付いてしまった。
採血のときに、彼女が抵抗したためだ。
すぐに僕は違う職場へ異動になった。
それで彼女のことが忘れられるなら、それでもいいと思った。けれど、こうしている間にも、彼女は狭い部屋に閉じ込められて、僕たちのために利用されているんだと思うとやりきれなくなった。
とうとう僕は罪を犯した。
僕の替わりの飼育係を襲い、エリーゼの部屋に侵入した。エリーゼはまた以前のようにじっと宙を見つめている。
僕は慎重に彼女を抱き上げた。筋肉の発達していない彼女は、見た目よりずっと軽かった。
勢いよく部屋を飛び出した僕に、あわてる研究員たち。
「道をあけろ!」
僕は彼女の喉元に果物ナイフを押し当てて叫んだ。
天使を奪われ、彼らの顔からは血の気が失せていく。
そのときの僕は我を忘れ、彼女を救ったという満足感でいっぱいだった。
研究員たちの泣き声や罵りも耳に届かず、ただ出口を目指して走った。
外だ!
エリーゼ、外に出られたんだよ!
これで僕たちは自由なんだ。
もう痛い思いをして血を採られることもないし、好きなときに好きなだけゴハンが食べれるよ。
小鳥の鳴き声を聴くこともできるし、きれいな花をたくさん見よう。
さぁ、何からはじめようか。
僕はすっかり舞い上がっていた。
久しぶりの外の世界は、人間の姿がなくしんとしていたけれど、やはり気持ちが良かった。小川で汗を流し、冷たい草の上でエリーゼと手をつないで眠った。
それからエリーゼは順調に成長していった。
まず、表情が豊かになった。なんとなく声が出るようにもなった。僕の言葉は理解できているらしい。好きな食べ物は喜ぶし、嫌いな食べ物は見向きもしなかった。
研究所を脱出したときよりは背が伸び、体重も増えた。関節は硬いままだったけど、支えなしで地面に座ることまでできるようになった。
とても幸せだった。
どれくらい時間が過ぎただろう。
僕は倒れた。
エリーゼは免疫を持っているから何も心配ないけど、僕は普通の人間なんだ。
日に日に体力が落ちていくのがわかった。
動けなくなった僕のそばに、エリーゼは不思議そうに首を傾げて座っている。
ごめんね、エリーゼ。おなかすいたよね。一人で何か探せるかな……
……君は感染することはないけれど、そうすると君は独りぼっちになってしまうかもしれないね。
僕はまちがっていたのかな。僕には君があんな部屋に閉じ込められているのが堪えられなかったんだ。
でも、もしもずっとあの部屋にいれば、君が悲しんだり苦しんだりすることはなかったんだよね。
僕にはわからないよ。君を連れ出したことが良いことか悪いことかなんて。
僕はただ君のそばにいたかった。君が普通の女の子のように笑っているところを見たかった。幸せになりたかった。
ごめんね、エリーゼ……
僕の言葉が終わるか終わらないかのうちに、僕は頬に冷たいものが落ちるのを感じた。
僕の顔をのぞき込む、エリーゼの涙だ。僕は初めて見る。
彼女の涙は何度も僕の頬を打ち、やがて僕の口の中に転がり落ちた。
甘い……
ふと気付くと、僕は見覚えのある部屋にいた。真っ白い部屋。天使の部屋だ。
やがてドアが開き、以前僕が殴った飼育係が食事を運んできた。彼は動けない僕の口の中に無理やり味のない食べ物を押し込んだ。
僕は天使になっていた。天使の涙を一粒口にしたとき、僕も天使になれた。
エリーゼは今、どうしているかな。隣の部屋かな。他にも天使は見付かったのかな。この研究所には、空き部屋はたくさんあったから。
なぜだか涙が溢れてきた。長い夢を見た朝のように、誰にも気付かれずに泣いた。
天使になったいま、僕には恐れるものは何もない。
だから涙を流し続けよう。エリーゼもきっと泣いているだろう。
誰かが僕たちの涙を見付けてくれるまで、嬉しかったことや悲しかったことをたくさん思い出して、涙を流そう。
* * *