01『国境破り』
地に引かれた見えない境目
たった一歩 されど遠すぎる一歩
実存しない線をまたぐ事のなんと難しいことか
風さえ遮れない壁のなんと厚く高いことか
たった一歩 たかが一歩
決意は法を振り切る心に
目的は柵を打ち抜く力に
覚悟を決めたら、踏み越えろ
「あれ? カルク先生、煙草なんて吸いましたっけ?」
とある山道を歩いている時、おもむろに煙草を加えて火を付けたカルク=ジーマンに対し、クリン=クランが人の良さそうな細い目を見開いて尋ねた。
おそらく意外だったのだろう。威厳に満ちた、精神的な堕落とは全く無縁そうな外見と、それを裏切らない自分の性格はよく知っている。それに、自分の記憶が正しければこの見るからに優男風である同僚の前で煙草を吸ったことは今までなかったはずだ。
「“ここ十三年は”吸っていなかったんだが、この間、麓の街に寄った時につい手がでてしまってな」
やや自嘲気味の表情で答えると、カルクは別段カッコつけるでもなく、旨そうにするでもなく、ただそれが必要な作業であるかのように煙を吸い、空中に吐き出す。
「だが、分かるだろう?」と、カルクは一回り若い旅仲間に同意を求めつつ、視線を前方に移した。
その先にあるものをクリン=クランも一瞥し、ああ成る程、と頷いた。
「良く分かります」
彼等の前方を行くのは一組の男女であった。男、ファルガール=カーンは灰色の髪を長く伸ばしており、長身に肉付きのいい身体は精悍の一言に尽きる。粗野だが大股で悠々とした歩き方は剛胆な印象を与える。
その隣を歩く女性、マーシア=ミスターシャはファルガールより頭一つ背が低い。だが男性のほうでもかなり背の高い方であるファルガール相手に頭一つ低いくらいで済むのだから、マーシアは下手な男より背が高い。簡単に結い上げられた黒髪の下から覗くうなじは色っぽく、後ろ姿にも関わらず、妖艶な雰囲気が溢れ出ているのが見て取れた。
しかし、問題は彼等の外見ではない、彼等の距離である。
「見ていて目の毒ですよね、あれは」
近いのである。マーシアはファルガールの腕に自分の腕を絡め、足並みはほとんど二人三脚、可能な限り密着した体勢で歩いていく。
「でもまだアレならマシなほうですよ。宿に泊まった時なんか、壁が薄かったりして隣の部屋から……」
「それ以上は言ってくれるな」
カルクは苦い顔をしながら煙草の煙を大きく吸い込む。
正直、ここまで辛いとは思っていなかった。
ファトルエルで、リクに言ったことに嘘偽りはない。自分は確かに、マーシアを愛しているが、彼女にとっての幸せは自分と結ばれることではなく、ファルガールと共にいることなのだ。だから、ファルガールが音信不通になって十年もの間、友人と同僚以上の関係は持たないようにしていた。
しかし、実際二人が再会を果たして十三年前以上の関係となった今、自分の中で妬ましい気持ちと後悔の念が込み上げてくる。
(ストイックなのだと自分では思っていたが……)
単に強がっていただけだったのだな。
「おいカルク、何ちんたら歩いてんだ、置いてくぞ」
ファルガールがマーシアの肩に手を回したままこちらを振り返った。
人の気も知らずに、という言葉が脳裏を掠めるが、ファルガールの意思に満ちた灰色の瞳を向けられると、それも消し飛んでしまう。
それに何より、彼と一緒にこちらに目を向けるマーシアの、ファトルエル以前の十年間とは打って変わって生き生きとした目を見ると、自分の選択が間違っていなかったのだと確認できる。
カルクは口にくわえていた煙草の灰を処理する為に携帯している金属製の小箱を取り出し、そこに吸い殻を放り込むと、少し速めに歩いてファルガールに追い付いた。クリン=クランもそれに続く。
「もうすぐ国境だな」
吸い殻入れを懐におさめると、代わりに折り畳んだ地図を出して広げながら言った。
現在彼等は、とある山中の峡谷を北上している。サソリ便が一台通れるか通れないか、大人にして五、六人が楽に横に並んで歩ける幅の道の両端からは崖が切り立っており、その角度はほとんど垂直で、感覚としては屋根のない廊下を歩いている気分だ。
カンファータとウォンリルグを仕切るようにそびえるクァルタイン山脈。標高は平均千メートルを軽く超えている山脈である為、まともに山越えをするのはたとえ魔導士であったとしても命懸けの挑戦となる。
だが飽く迄も壁ではなく山脈である為、所々に歩いて渡れる峡谷が存在し、数少ない例だが、ウォンリルグに入ろうとする者はこの峡谷を通り、その先でウォンリルグが管理、取り締まりをしている門を訪ねることになる。
「どうやって通るつもりなんだ? 今の私達では門前払いがいいところだぞ」
無論カルク達一行はその数少ない例の中に入らない、何の権利も名も帯びていない身である。
「なんとかなるさ」
「なってたまるか。それじゃ国境を設けている意味がないだろう」
特に“孤高の国”と呼ばれるウォンリルグへの出入国は非常に難しく、取り締まりも厳しい。強引に通ろうにも、門の中には非常に強力な結界が張ってあると言われている。
「同じ人間話せば分かる」
「そうは言っても“生きた駒”が相手なんだぞ」
徹底した上下格差の重視により、ウォンリルグの人間は上司に言われた範囲外の事は絶対にしない。そのことから、ウォンリルグで仕事に就く者達はしばしば“生きた駒”と表現される。
「まァ、駒でも生きてはいるんだろ?」
飽く迄も気楽に構えるファルガールに、更に言い返そうと、彼の顔を覗き込んだカルクはうっ、と言葉をつまらせた。十三年前までは、よく見た表情である。その反応に気付いてか気付かずか、ファルガールは高い空を見上げ、耳を済ませるように手を片耳に添えて続ける。
「何か、遠くで雷が鳴っているなァ。こっちに来なければいいんだが。いやァ、山の天気は変わり易いから困りモンだ」
カルクの耳には鳥のかん高い鳴き声しか聞こえないし、天然の双璧に細く切り取られた空にも雷雲どころか、積雲一つも見えない快晴だ。
答えを知るのが嫌で、何を企んでいる、とカルクは聞くことはしなかった。代わりに煙草をもう一本取り出して火をつけた。
ほどなくして、向かう先に行き止まりが見えてきた。峡谷の両側の崖に埋め込まれるようにして立っている鉄製の大きな扉が嵌め込まれている門だ。
その下には二人の門番らしき人間が立っており、一行が近付くと、彼等は一行のほうに一歩踏み出して言った。
「ここから先はウォンリルグ領だ。入国許可証がなければ入ることができないが?」
「そこをなんとか通しちゃくれねェかな」と、ファルガールが話すが、二人の門番が首を縦に振るはずがなかった。
「我々に許可証を持たない人間を通す権限は与えられていない。宗家と言えども、許可証を失えば、我々はここを通せない」
「まァ、そう言うなよ」
「我々に許可証を持たない人間を通す権限は与えられていない。出直すがいい」
ファルガールが食い下がるも、彼等が納得する様子は見せない。すると、今度はマーシアが進み出て、そのほっそりとした手で門番の腕を取って言った。
「ねぇ、門番さん、お願い。私達、どうしてもウォンリルグに入りたいの。どうにか取りはからってくれないかしら。……ね?」
その官能的な響きの声を聞けば、大抵の男は全てを投げ出してでもその“お願い”を聞いてしまうだろう。自他共にかなりの堅物と認められているカルクでも自制はできると思うが、動揺を隠せる自信はない。
ところが、門番達は微動だにすることすらなかった。
「我々に許可証を持たない人間を通す権限は与えられていない。これ以上しつこく不法入国を迫るようなら、我々は然るべきところに連絡を入れ、武力行使する」
「む、マーシアの色気に屈しないとは」
自分の恋人に色仕掛けなんかさせるな、と言いたかったカルクだが、何となく事の展開のノリについていけず、クリン=クランと共にやや呆れ気味に見守っているだけだ。
「やれやれ、仕方ねェなァ」と、ファルガールは頭を掻きつつ、数歩後退した。それを諦めと取ったのか、門番達の構えもゆるむ。
すると、ファルガールは空を仰いで言った。
「おや? 空が曇ってきたな」
「……?」
門番達は、ファルガールが何を言っているのか分からず、つい釣られて空を見上げてしまう。
ファルガールはその隙をつき、門番に肉迫すると、二人の腕を片手ずつに掴んで唱えた。
「手の中より痺れよ伝われ、《雷火の掴み》」
発動した瞬間、ファルガールの手の中からバチッという破裂音と共に、青白い光が一瞬走った。門番達は大きくビクンと震えると、あちこちに火傷を作った状態でその場に崩れ落ちるようにして倒れる。
「ああ、なんてこった! おい大丈夫か!? 雷が当たっちまうとは不運な」
「それは大変ね! 脈はある!?」
本気でやっているのかどうか知らないが、取り敢えずファルガールは深刻そうな顔をして、倒れた門番を起こしてやった。そこにマーシアが歩み寄って様子を見る。
「脈? ……ああ、あるな。命に別状はなさそうだな、良かった」
「しばらく道の脇で休ませてあげましょう。クリン=クラン、手伝ってあげて?」
「………はい」
もはやツッコむ気持ちもなくしたのか、クリン=クランは力無く返事をして、ファルガールが倒れた門番を道の脇にどけるのを手伝う。
「ねえ、ファルガール。この扉はどうする? あっち側とこっち側両方協力しなきゃ動かせなさそうなんだけど」と、二人が門番を運んでいる間に、門を調べていたマーシアがファルガールに尋ねた。
「別に開けるこたァねェよ。融かしてくれ」
「あ、そうね」と、マーシアは納得したように頷くと、扉の前に立ち、扉に手を当てる。「熱よ、奪うがいい、形成す力を。《万物の融解点》に達することによりて」
詠唱と共に扉の、マーシアが手を当てた辺りが赤く光り始め、ドロドロと形を崩して融けはじめ、程なくして人一人通れるくらいの穴が出来た。
マーシアは出来映えを確認するように出来た穴から向こう側を覗くと、「あら」と、声を漏らした。
「ファルガール、やっぱり結界が張ってあるわ。扉を融かすだけじゃ通れないみたい」
流石に国境を守る施設となると防備は強力だ。物理的な門とともに門の間には強力な結界が張られており、物理的に扉を壊しても、その先には進めないようになっていた。
門番を横に退け終えたファルガールが一緒に穴を覗き込みながら答えた。
「そういうのが得意な奴がいるだろ?」
「あ、なるほど」と、マーシアも思い当たったのか、胸元で手を叩く。そして二人揃って後ろを振り向いた。
視線を向けられたカルクは、目を丸くして声を挙げた。
「まさか、私に結界を破れと!?」
「破れとまでは言わねェよ。俺達が通る間だけ穴を開けてくれりゃいいんだ」
確かに“完壁”と呼ばれるカルクは結界を扱いに長けている。それでも国を挙げて張られた結界はカルク個人では完全に破れるものではないが、確かに短時間に限り、穴を開けることは出来ないでもない。
だが、良く考えてみると、これはチャンスかもしれなかった。ここを通れるか通れないかは現在、カルク一人に掛かっている。今までは何か流されるように現状に行き着いてしまったが、今なら反論を試みることができるのだ。
「ファルガール、お前はウォンリルグがどんな国家だか分かっているのか?」
ウォンリルグは、一枚岩の国家であると言われている。国と、その国家元首であるマータ・ツァルアリータ以下、国民が家族のように一体となった国家で、国の意向と国民の意思が同調しているという奇跡的な国なのだ。
国民の動きはいちいち管理されている。もし街の外から人が来る場合は事前に連絡が届いており、もし遭難をして、連絡をしていない街に着いてしまった場合でも身柄を拘束された上、確認の為に連絡をする。
つまり、ウォンリルグに入ってから、どこかの街に入って食料等を調達しようにも出来ないのだ。即ち、密入国者はウォンリルグ国内で生きて行くのがとてつもなく困難なのである。
「だから、ここの国境を超えたらこの先、どうやって生き延びるべきか、そういう算段は先にしておくべきだと思う」
カルクの提言に、ファルガールはなんだ、そんなことか、とばかりに頭を掻きながら答える。
「問題ねェよ。食糧ならいざとなれば草でも食えるさ、どっかから失敬するって手もある」
「そんな無計画な。大体、グランベルク=ジャガントラとやらがどこにいるのか知っているのか?」
グランベルク=ジャガントラとは、今、ファルガール達が追っている組織の一員と思われる者の名だ。
ファトルエルの大会の際、ファトルエルの“ラスファクト”である《グインニール》と、マーシアの弟子であるフィラレスが持っている“滅びの魔力”を狙った組織が紛れ込んでおり、ファルガールや彼らの弟子達が交戦することになった。
組織の人間の内の一人・ハークーン=ネフラがその一人が、自分の“烙印魔法”という力を与えた者としてグランベルク=ジャガントラの名を挙げたのである。
今のファルガール達の目的は、そのグランベルク=ジャガントラが属する組織の目的を掴み、それを阻止することであった。彼らが狙っていた“ラスファクト”や“滅びの魔力”は強大な力だ。それらを必要とする目的は何なのか。それは下手をすると世界全域を巻き込む災厄を引き起こしかねないものだ。
「食べ物は自然から採れても、情報は人からしか手に入らんぞ。そもそも奴がウォンリルグにいるという保証もない」
今まで通ってきた街などでも必死で情報収集をしたのだが、便利屋に聞いてもグランベルク=ジャガントラという名前やそういった活動をしている組織に心当たりがないという。ただ、グランベルクやジャガントラという名前が、ウォンリルグでよく聞かれる響きであるといった漠然とした推測しか得られなかったのである。
便利屋に聞いても分からないということは、比較的開放的なカンファータやエンペルリースではなくウォンリルグにいるのだという予想は妥当だとも言えるが、ファルガールの場合、何故か初めからグランベルク=ジャガントラはウォンリルグにいると断定し、全く疑いや迷いを持っていなかった。
ファルガールは元々、言動に迷いを見せない人物だが、今回ばかりは何故そこまで自信を持って行動できるのか、さっぱり分からない。また確かに破天荒な性格ではある、しかし少なくとも、ウォンリルグに不法入国するに際し、カルクが指摘した事くらいは思い付かないほど頭が悪くないはずだ。
ファルガールには大きな信頼を寄せているつもりだが、元々心配性の気もあるカルクなのでここまで傍目に無謀な行動をされると流石に不安になってくる。というより、ファルガールはそれを分かっていて、わざと計画や事実を知らせずにカルクを困らせて楽しんでいる節があるのだ。
否、そうに違いない。
「……好きにしてくれ」と、半ば諦めたように呟くと、カルクは結界の前に立った。「魔力よ退け、魔導よ乱れよ、見えざる壁に《綻び》を」
呪文の詠唱とともに、光を放つ手を結界に当てると、一見何もないように見える、マーシアが開けた扉の穴からぱりん、とヒビが入り、光が崩れ落ちて行くのが肉眼で確認できた。
「うむ、御苦労」
何故か偉そうにカルクに労いの言葉を掛けると、ファルガールは酒場の入り口をくぐるかのような気軽さで、結界の穴を通り抜ける。
「ありがとう、カルク」
「さすがカルク先生ですねぇ」と、続いてマーシア、クリン=クランが通り抜け、最後に穴を維持していたカルクが通り抜けると、結界の穴が自動的に修復され、塞がってしまった。
それを見届けて、改めて門の向こうを見た時、カルクは顔をしかめた。
予想はしていたが、やはり国境を超えたウォンリルグ側にも門番がいたらしい。しかし彼等は今、ファルガール、マーシア、クリン=クランの足下に倒れ伏していた。カルクが目を離している僅か数秒の間に沈黙させられたようだ。
「心配はしていたが、やはりこっちでも落雷があったみたいだなァ、感電しちまってる」
「落雷で火事も起きたのね、火傷もしてるわ」
「それでも、みんな怪我が軽くてよかったですねぇ」
三人が三人とも、白々しい口調で含み笑いを浮かべている。クリン=クランはどうやらカルクを裏切ってファルガール側についたらしい。
荷物の中に胃薬は入っていただろうか。
カルクが目の前の光景を忘れるべく思いをめぐらせていると、ファルガールがカルクに近づいて笑いかけた。
「随分シケたツラじゃねェか、カルク」
「誰のせいだ。誰の」
げんなりした様子で、ため息と共に応えたカルクの肩にファルガールは手を置いて言った。
「心配いらねェよ。食料のことも、情報のことも、ちゃんとアテはあるんだ」
馬鹿な、とカルクは顔を上げてファルガールに視線を移す。人の流れを著しく制限している“孤高の国”ウォンリルグにコネクションなど作れるはずが無い。
しかし、カルクが見たファルガールの表情からは今までのふざけたノリが消え去っており、でたらめを言っているようには見えなかった。
「本当に大丈夫なんだな?」
確認するようなカルクの問いに、わずかに皮肉の混ざった笑みを口元に浮かべてファルガールは頷いた。
「ああ、故郷に帰るだけのことだ。心配なんて要るはずがねェだろ」