32『その目に見るまでは』
君は先の見えない夢を歩くなら。
私はその歩みを信じて付き添おう。
君が断崖からその身を落としてしまったら、
私は君に手を差し伸べよう。
君が闇の中にあり、その目が利かなくても、
私が声を持って、君を呼ぼう。
例え君が死に瀕し、苦しみの中に身を置いても、
私は決して君から目をそらさない。
君が諦めないのなら、
君の夢を見守る私もまた諦めない。
夢に死ぬか、叶えるか。それともその苦難に折れて諦めるか。
終わりを迎えるその日まで、私は君の夢を見届けよう。
「そ、そんな……」
ジェシカの全身から力が抜け、彼女はその場に崩れ落ちるように膝をつく。
何度手元の懐中時計に目をやっても、その文字盤は赤く染まり、ジッタークが彼女らに告げた限界の時刻を差している。
「おい、なにぼさっとしとんねん、さっさと行くで」
カーエスが声を掛けると、ジェシカは何も答えず、今にも泣き崩れそうな顔を彼に向けた。
もう、何もかも終わりだ。
望みは全て断ち切られた。
いつもの鋭さが欠片も見られず、絶望に満ちてそう語っている、力のない目を向けられたカーエスは、表情を消し、つかつかとジェシカに歩み寄ると、その胸元を掴んで引き寄せた。
「……見たんか?」
「え?」
特に抵抗もせずに引き寄せられた彼女が、ぼそっと尋ねられた言葉の意味がとれずに思わず聞き返す。
「見たんか? リクの死んだんを。それとも何か、おんどれとリクは心で繋がってて死んだら分かるようになっとるんか?」
そんなことがあるわけがないだろう、とジェシカは反射的に心の中で反論しようとしたが、声に出さずに次の言葉を待ったのもまた反射的な判断だった。
カーエスは、掴んだジェシカの胸元をぐいっ、と更に持ち上げると互いの鼻が付きそうになるまで顔を近付けて怒鳴る。
「諦めたんか!? リクを普段、様付けで呼んどるのはアイツを信用しとるからちゃうんかいっ! 尊敬しとるからちゃうんかいっ! おんどれの尊敬しとる男は医者が宣言した時刻にきっちり死ぬような男かいっ!? 第一おんどれも言うたやろうが! リクは生きるべくして生き、死せるべくしてやはり生きるて! アイツは諦めへん! 絶対に生きることを諦めへん! どんなに苦しくても、夢を捨てて死に逃げるような男やない!」
先の戦闘の際に、カーエスは敵の動きを見切る為に眼鏡を外し、目を露出していた。ここまで顔を近付けられると、“魔導眼”が、細部までハッキリ見えた。離れていても全てを見透かすような透明感のある蒼だが、近くで見るとその色の深さが伺える。その深さと青さは、まるで海のようだ。
怒鳴るだけ怒鳴ると、カーエスはジェシカを半ば突き放すようにして解放する。しかし、その目は離さなず、カーエスは静かな、それでいて良く通る声で続けた。
「……俺は、お前が一番それをよう分かっとると思とったよ」
ぼそりと、漏らすような声で付け加えられた言葉に、ジェシカはハッとして身を強張らせた。
「俺かてもうガキやない。もう望みはないのは良う分かっとる。奇跡を信じる気持ちも疑いまじりや。それでも諦める理由にはならへん。アイツが死んどるのを目にして本当に認めてまうのを怖がる気持ちはよう分かる。俺かて同じや。でも一応最後までやり遂げようや。アイツは諦めへん。だから、俺らも諦めへん。それが……アイツを信じとる人間としての筋を通す事になると思う」
言いたい事を全て言ったからか、カーエスは彼女から目を離すと、踵を返して向かう道に足を踏み出した。
「お前が行かんのなら俺だけでも行くで」
置いて行かれてしまう。
その瞬間、ジェシカはそんな孤独感を覚えた。何だかんだ言って、喧嘩ばかりしている二人ではあるが、それでもお互いを許せて来られたのは、リクを認め、信頼しているという共通の心があったからだろう。
今、自分が諦めかけた事は、リクに対する裏切りだった。そして、カーエスに対する裏切りでもある。ここで、付いて行かなくては、カーエスは自分を今度こそ許さないだろう。
「待ってくれ」
カーエスがぴたりと前へ進もうとする身体の動きをとめる。
ジェシカは、急いで立ち上がると、彼の隣に駆け寄った。
「済まない。悔しいがお前の言う通りだ」
「分かれば、ええ」
カーエスは短く答えると、走りながら懐から禁術の詰まった“圧縮卵”を取り出し、ジェシカに手渡した。
「落としなや」
受け取った“卵”はカーエスのものか、それとも卵から生まれようとしているリクの命の脈動か、仄かな熱を彼女の手の平に伝えた。
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沈黙が医務室を制してから随分長い時間が経ったと思う。もっとも完全な沈黙ではなく、リクが咳をしたり、呻いたりした時、ジッタークが軽くリクを診て、簡単な指示を飛ばすだけだ。
ジッタークも、ミルドも、コーダも、そしてフィラレス自身も赤の刻が近付くにつれて時計に目をやる頻度が増して行く。先ほどまで桃色だったのが、今はもうかなり赤みが増している。リクの容態も、それに伴って悪くなっていた。咳などの頻度が増し、息が切れたように荒くなっている。
ジッタークは、できる限りの事はやろうと、かなり頻繁にリクの熱を計り、咳を収めようと薬を投与する。ミルドは心配と焦りを露にした表情でリクを見守っている。コーダからはいつもの朗らかな雰囲気が影を潜め、不安を表に出さないようにしているのか、無表情のまま、淡々とした様子で、この部屋の元々の主である魔導医師やその助手とともにジッタークを手伝っていた。
フィラレスは、彼の傍らに座り、両手で包み込むようにしてリクの右手を握っている。もう彼から握り返してくることはなくなっていた。時計を見るたびに、絶望感が彼女を遅い、彼女はリクの手を握った両手に額を押し付けるようにして祈る。
やれる事がなく、頻繁に時計に目をやっていると、時の流れが遅く感じる時がある。先ほどまでは、それがもどかしく感じていたが、ここまでぎりぎりとなると、逆にそれがありがたい。
しかしいくら遅く感じていても、時は確実に進んでいる。
そして時は訪れた。
赤の刻少し前、リクの容態が急変する。
突然激しく咳き込んだかと思うと、血の塊を吐き出し、ジッタークが苦しまないように処置を施す前よりも酷い状態に陥ってしまう。ジッタークがそれでも慌てず冷静に対処するが、何を試しても効果が見られない。押しても引いても変わらない容態に、ジッタークの顔がついに焦りに歪んだ。
「カーエス……!」
呟かれた同郷の若い魔導士の名に、ジッタークがリクを診ながらもずっと心の奥に感じ続けていたとみられる不安が滲む。医者は、その不安を患者やその家族に悟られてはならない。それが出来ない状況ということは、それほど状況が切羽詰まっているという事だ。赤の刻が限界だと言ったジッタークの言葉は、善くも悪くも裏切られる事はなかった。
フィラレスは祈りをさらに込めるように、もともと強く握りしめていたリクの右手を全力で握りしめた。その時、彼女はある事実に気付き、顔を上げる。
彼女の手のひらに伝わって来る熱が下がってきている。もともと高熱が出ていたので、それは良い事なのかと思ってしまったが、熱かった手がどんどん冷たくなって行くにあたり、フィラレスは感じてしまった。
行ってしまう、と。
失われて行く熱は、去り行く彼の存在。そうと決まったわけではないが、それでもフィラレスはそう直感したのだ。
もはや肉体を繋ぎ止めていても、意味はない。それよりも心を繋ぎ止めておかなくては。
それにはどうすればいいか。目を閉じて、フィラレスは自問する。自分にできる事は何か。
答えは、暫くして出てきた。
呼び掛ければいいのだ、“死出の道”にいる彼に。
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カーエスとジェシカは廊下をひた走る。もう邪魔は入らなかったが、あちらこちらに配置されている魔導士達は嫌でも目に入る。カーエスの魔導学校の生徒として研究所で過ごした時間は八年以上、と長い部類に入るものだ。しかし、この状態が何を表しているのかさっぱり分からなかった。魔導士の一人を掴まえて問いただしてやりたい気もするが、今は時間がない。
否、できるなら足を止めたい気分だった。先ほど、絶望に足を止めてしまったジェシカを叱咤したカーエスだったが、リクが死んでいるところは想像出来ないものの、理性でどうやってジッタークの告げた時刻である赤の刻を超えて生きていられるのか全く分からない。想像が付かないだけに、現実にそれを見るのが怖かった。
できるのはただ願う事、祈る事、奇跡が起こる事に賭けて、自分達の役目を果たす事。
既に赤の刻を過ぎている今、どんな状況であれ、医務室の面々は自分達の帰りをまっているのだろう。否、その前にこの研究所の異様な雰囲気の中で医務室は無事なのだろうか。対集団戦に強いと思われるコーダはとっくに帰っているはずので、攻め込まれても戦闘力が足りないという事はないだろうが、それでも戦闘の影響で治療に支障が出ているという事はあり得る。
(何でこんな事になってるんやろ……)
カーエスは心の中で自問した。リクはただ、夢を果たす為の情報を得ようとエンペルファータに寄ったに過ぎない。それなのに何故命を狙われたりしなければならないのだろう。誰に迷惑を掛けるでもなく、ただ真直ぐに夢を目指しているだけの男なのに。何故、夢に挑む前にもかかわらず命を落とさなければならないのだ。
夢に挑む途中で果てるなら本望というものだが、それも出来ないのは端から見ている自分でも納得が出来ない。
結果の事など知らないが、挑ませるくらいはさせてやりたい。
それに、フィラレスの事もある。あれだけ純粋な気持ちを抱いているのだ。リクが死んでしまっていたら、どれだけ悲しんでいる事か。彼が、現実にみるのが一番辛いのは彼女の嘆きだ。“滅びの魔力”という厄介なものを保持しているが為に今まで絶望の中にいたのが、やっと最近生きる喜びを見出してきたところだったのに。今度また絶望に落ちたらもう這い上がって来られないかもしれない。
(こんだけ死んだらあかん理由があるんや……ここは生きとこうや、リク)
生きているのかどうかも分からない夢見る青年魔導士に、心の中で語り掛ける。初めは気に喰わない男だったが、今は素直にリクという人間を認められている。それは自分でも不思議な感情で、劣等感を抱いているわけでも、卑屈になっているわけでもなく、ただ純粋に信じている。
最後の角が見えてきた。ここを曲がれば視界に医務室が入る。一歩ごとの振動が直接響いているように、激しく鼓動した。
ふと、その医務室の方から何かが聞こえてきた。
(……笛の音……フィリー?)
繊細でいて良く通る、透き通った笛の音。あまり吹くのを聞いた事はないが、初めてそれを聞いた時には正直に感動してしまった音を聞き違えるはずがない。
その音に、思わず足を止め、ジェシカと顔を見合わせる。
まさか、鎮魂の曲ではないかと思い、また走り出しながらも耳を傾けるが、どうもそういう感じの曲ではないようだ。
優しさと暖かさに溢れた、言うなれば母のような慈愛に満ちた曲。安らかな眠りを願う曲というより、爽やかな目覚めを誘う曲。
角を曲がると、医務室の外にはミルドが立っていた。足音で気が付いたのだろうか、角を曲がった瞬間に、ミルドが彼等の方に顔を向ける。そして、ミルドからも彼等に歩み寄ってきた。
「カーエス君! ジェシカさん!」
名前を呼ぶが、後の言葉が続かない。きっと言う事が色々あり過ぎて、どれから話そうか迷っているのだろう。そこで、それを助ける為かカーエスが質問をする。
「リクは……?」
その質問に、ミルドは力強く頷いて答えた。
「まだ、生きてるよ。大丈夫」
その答えに、カーエスとジェシカが顔を見合わせる。
お互い、思わず笑みが零れてしまう。
しかしその笑みはすぐに影を潜めた。
「でも、どうやって……?」
折角生きていたのだから、疑う必要もないのだが、やはり気になる。ここに来る間、どうしても絶望感が振り払えなかったのは、リクが赤の刻を過ぎても生きていられる、という根拠がどうしても思い付かなかったからだ。
今度の質問に、ミルドは興奮したような、それでいて不可解そうな、とにかく複雑な苦笑と共に答えた。
「まあ、見れば分かるよ」
そう言って二人を医務室の扉の前に導いた。ミルドはタイミングを計って開けてやろうとしているのか、ドアの取っ手を握って待っている。
二人がドアの前に並ぶとミルドは、力強く頷いてみせると、ドアの取っ手を回し、ゆっくりと開けた。
ドアと枠に隙間が出来た瞬間、先ほどから途切れることなく続いているフィラレスの笛の音が一掃大きく、強く、そして優しく二人の鼓膜を揺する。
その調べはリクの目覚めを願うと共に、二人の帰還を祝福しているように聞こえた。