08『もう二度と夢を潰えさせない』
諦めた時、そして命の灯火が消えた時。
それが夢の潰える時。
死んでしまった時には、次はない。
諦めた時は、別の夢に生きられる。
追い掛けるだけが夢ではない。
見るだけでいい夢もある。
しかし、それでは納得出来ない者がいる。
それが、適わぬ夢だと証明されない限り、
残る僅かな希望に、全てを賭ける者がいる。
「まあ、汚いところだけど、入んなよ」
ティタはそう言って、リク達を自分の研究室に迎え入れた。
その言葉は普通、謙遜に使われるべきものであり、そう言われると、そんなことはない、などと否定の言葉を返したくなるものなのだが、今回ばかりはそうはいかなかった。
“大いなる魔法”という大きな題材の研究に相応しく、決して狭くない研究室の中でいたるところに、いろいろな本、ファイルが積み上げられて、部屋の中で山脈を形作り、床には、びっしりと文字でうめ尽くされた紙が散乱しており、床を隠しているのを通り越し、既に積もり始めている。
そんな中を、数人の研究者らしき人間が、研究室の中を往来しており、部屋の隅には、積もった紙に埋まるようにして仮眠を取っている者もいた。
「汚いとは言わねーけど……」
「ホンマに散らかっとるなぁ……」
先頭に立っていた、リクとカーエスが、二人揃って呆れ返っている後ろで、ジェシカとコーダも、唖然としている。
正直な一同の反応に、ティタはカラカラと白い歯を見せて笑った。
「あははは、素直な反応だね。これでも、見え見えのお世辞を言うようなら、ここからたたき出してるとこさ。ちょっと待ってなよ、今イスを発掘するから」
ティタはそう言うと、部屋の一角にある本の山を、他の研究者にも呼び掛けて他の場所に移動させ始めた。そして、その大量の本が全て、そこからどけられると、そこには応接用の長椅子とテーブルが現れた。
「お待たせ。まあ座って座って。今、お茶くらい入れるからさ」
リク達は、研究室の雰囲気に、あるいはティタの雰囲気に戸惑いながら、言う通りに長椅子に腰掛けた。ほどなく、グラスに入った飲み物がリク達の前に出され、ティタは、満足そうに頷いて言った。
「よし、これで準備はOKだね」
それにあわせるように、リクが挙手をして言った。
「本題に入る前に一つだけ、聞いておきたいコトがあるんだけど」
「何だい?」
「あんた、さっきバトレアス、って名乗ったよな? ファトルエルにいるオキナ=バトレアス、オウナ=バトレアスとは何か関係があるのか?」
それは、彼女が名乗った当初から、ずっと聞きたかったことだった。もちろん、ミルドの方が、オキナ、オウナの肉親なのかもしれないし、ただ単に、たまたま同じ姓を持っていたという可能性もある。
「ああ、親父とおふくろだけど、知ってるのかい?」
「オウナの宿屋に泊まったんだよ。随分世話になった」
得心がいった表情で、リクは言った。
オキナ=バトレアスは、ファトルエルで学者をやっている老人だった。そしてオウナは宿を切り盛りしながら、彼を支えている妻だった。ファトルエルで起きた一連の騒動でオキナは、その一命を落としてしまったのだが、オウナは今でもファトルエルの宿をやっている。
リクは、特にティタの女性としての迫力に、オウナに似通ったものがある、と感じていた。学者としての性格はオキナから、女性の迫力はオウナから受け継がれたものだと考えれば、ティタは間違いなく彼らの子供だった。
(コレが三十年もしたらアレになるのかぁ……)と、リクは、オウナの夜中に会ったら失神しかねない顔を思い出しながら、ティタの整った顔立ちを見つめて苦笑した。
「で、親父とおふくろは、元気にやってたのかい?」
ティタの質問に、リクは少し顔を曇らせると、言いにくそうに話し始めた。
「あのな、オキナの事だけど……」
リクは、ゆっくりと言葉を選び、できるだけ丁寧に事情を説明した。
自分の師・ファルガールとオキナの関係。オキナがファトルエルの“ラスファクト”を探していたこと、それを見事に見付けられたこと。その成果をファルガールに託したこと。そして、ファルガールと同じものを狙っていた組織に殺されてしまったこと。
全てファルガールから伝えられたことだが、それでもより詳しく、伝えられるように努力した。その熱意が伝わったのか、ティタも終始口を挟まず、真剣に話を聞いてくれた。
「そっか……親父は死んじまったのか……」
「ファルは、『あんなに強い志をもった人間はいなかった』って言ってた。ファルが他人を認めることは滅多にないんだけどな。それから、巻き込んで死なせてしまったことを凄く悔やんでたんだ」
リクがそう言い足すと、ティタは、柔らかい微笑みを口元に浮かべ、頷いてみせた。
「分かってる。あんたの師匠が悔やむことなんてないさ。自分の研究を一番信頼できる人間に託せて死んだんだ。研究者としては本望じゃないか」そして力を抜き、長椅子の背もたれに体重を掛けて続けた。「まあ、今度の大災厄騒動で、ファトルエルに現地調査に行かなきゃならないだろうし、その時おふくろに会いに行くことにするよ」
しばらくの間、沈黙が場を支配した。
ティタは、その間に自分の飲み物を一口口にすると、湿っぽい話題はこれまで、とばかりにパァン、と一度柏手を打つ。
「さぁて、本題に入るとしようか」と、ティタは脇に抱えていた分厚いファイルをテーブルに広げながら話しはじめる。「今までの証言は普通の客ばかりでさ、みんな決闘場に避難していて、空飛ぶクリーチャーがいた、くらいの証言しか得られてないんだ。あとは誰かが大災厄を倒したって事くらいかな。だからアンタ達の証言には、ちょっと期待してるんだよ。さっきの闘い方からしても、かなり前線で闘ってたんじゃない?」
身を乗り出すように尋ねられたリクは、暫く黙考した後、注意深く切り出した。
「……話してもいいけど、こっちも聞きたいことがある」
「情報交換かい? 別に構わないけど、アタシの研究は日常生活の役には立たないよ。トレージャーハンティングにもね。……で、どんなことが聞きたいんだい?」
先にリクの質問から片付けようとしたのか、ティタは一度開いたファイルを閉じて、楽な姿勢になる。
リクは、もう一度間を取り、深呼吸をすると、意を決したように尋ねた。
「大災厄を、どうやったら滅ぼせるか教えて欲しい」
流石のティタも一瞬動きを止めた。
その様子を見て取ったカーエスが、笑ってリクを指差して言った。
「気ィ狂うとるとしか思われへん発言でし…ぐぇっ」
「誰の気が狂っているだと!?」と、ジェシカが、カーエスの首を締めた。流石に魔導騎士団という軍隊にいただけあって、完全に極まっているらしく、カーエスは声も出せずに、ばたばたと手足を動かす。
ティタは、コーダに視線を移した。確認を取りたい意志が彼に伝わったのか、彼は頷いて答えた。
「兄さんは本気スよ。気も狂っていやせんし」
その答えを受けて、彼女はふう、と溜め息じみた息を漏らした。
「……ここにも夢見るヤツがいたんだね……」
「……?」
ティタの妙なつぶやきに、全員が小首を傾げた。
そんな一同の前で、ティタは立ち上がって言った。
「駄目。悪いけど、教えられない」
「……え?」
「アンタらで十七人目さ。“大いなる魔法”の情報を聞きに、アタシを訪ねてきたのは」
ティタは、リク達の方に視線を向けていたが、別のものでも見ているように遠い目をしていた。
そこに、リクが反論する。
「い、いや俺が聞いてるのは“大いなる魔法”の在り処じゃなくて、大災厄の滅ぼし方…」
「同じことさ」と、ティタがそれを遮って言った。「“大いなる魔法”は大災厄と密接な繋がりがある。結局大災厄を無くすには、“大いなる魔法”を見付けて、どうにかするしかないのさ」
「では何故、話せないのですか?」
絶句しているリクに代わり、ジェシカが尋ねた。
「……もう二度と夢を潰えさせないためさ」
ティタは、最初、自分を訪ねてくる人間に、勿体振らずに全てを話すことにしていた。自分も研究者として、夢を追い掛けている者であるし、“大いなる魔法”のような大きな夢を見ている者を応援してやりたいという気持ちがあったからだ。
しかし、情報を受けて、出かけた誰一人、二度と魔導研究所に帰ってくることはなかった。中には、もっと詳しい情報を持ち帰ってきてやる、という約束をした者もいたが、やはり帰ってこなかった。
「皆いい目をしていたよ。自信をもっててさ、アタシは訪ねられる度に、こいつなら行けるかもしれない、そう思ったのさ。……でも、誰も帰ってこなかった」
決定的だったのが、七人目の男だった。この頃には、ティタもいい加減、むやみやたらと情報公開することに疑問を感じていたのだが、魔導研究所出身で、魔導士として非常に優秀であり、そのことをティタもよく知っていた。この男なら大丈夫かもしれない、そう思って、自分の知っていることを教えてやった。
やはり、ティタから情報を聞き出し、喜んでその場所まで行ったのだが、一年後、その男の両親がティタを訪ねてきた。何でも、彼の仲間として同行した男が、命からがら逃げ帰ってきて、両親に彼の末路を伝えたのだと言う。
そして、どれだけ息子が惨い死に方をしたのかを聞かせ、それを情報公開したティタの責任だと言ってなじった。
「その時に、アタシは気がついたのさ。アタシは夢を応援したんじゃない。人の夢を潰えさせていたんだってね」
「でもティタさんが情報公開しないと、そこには行き着けないんでしょう? それだったら話さないことも、夢を潰えさせることになるんじゃないスか?」
コーダの反論に、ティタは首を横に振って答えた。
「それは違うよ。大体、アタシに聞かなくても、この部屋にある本を全て読む気力があれば、自分でも調べられる。それに……」
「それに?」
「追い掛けなくても、夢は夢なんだよ」
がた、と音を立てて立ち上がったのは、さっきから黙って話を聞いていたリクだった。
「今の言葉は納得出来ねーな。……追い掛けるからこそ、夢に意味があるんだ。夢は、ただ存在しているだけじゃ、人に強さを与えない」
夢を見る。それを叶えようと努力する。努力しようとする力は、志だ。
それが意志を強くし、前に向かう力を与えるのだ。
コーダも、ジェシカも、カーエスも、そしてリク自身も、ファトルエルの決闘大会を通して、それを学んだ。
「……それは分かる。その夢はアンタを強くしているかもしれない。でも、“大いなる魔法”の夢は、きっとアンタを殺すよ」
「それは、ただの結果の一つだろ? 適うかもしれない、“大いなる魔法”が存在する限り、可能性はあるだろう?」
それでもティタは一歩も譲らない。
「あったとしても、アンタからは、それを感じられないね」
「それを感じさせればいいんだな?」
僅かに、彼女が漏らした言葉の隙を、リクは見逃さなかった。彼らを挟んでいたテーブルをまわり込んで越えると、そこで呆然と立っているティタに詰め寄った。
「適うかもしれない、あんたにそう思わせればいいんだな? そうすれば、教えてくれるんだな?」
リクは、その隙をこじ開けるように矢継ぎ早に言葉を繋ぎ、その度に少しずつティタに詰め寄り、その鼻先に人指し指を突き付ける。
ティタは、その展開に戸惑いを感じながら、詰め寄ってくるリクに、少しずつ後ずさっていく。彼女は、しばらく彼の目を見ていた。そして、全てを諦めたかのように手を振ると、呆然と彼に向けていた視線を睨みに変えて、言った。
「ああ、そうだよ。面倒だけど、あんた用に試験を作ってやる。アンタが、その試験の結果でアタシを納得させたら、教えてやるよ」
その答えに満足したように、リクが不敵な笑みを浮かべて言った。
「充分だ。あんたを必ず納得させてみせるよ。……ところでジェシカ」
「何でしょう、リク様?」
「そろそろカーエスを放してやった方がいいんじゃないか? さっきから全く動かなくなったみたいなんだが」
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ところ変わって、こちらはダクレーの研究室。
ミルドとダクレーは、フィラレスの魔力を測定していた。
ミルドが主任だった頃から、定期的な魔力の測定は欠かしていない。魔力が増大し、今付けている魔封アクセサリーでは耐えられなくなる事も考えられるからだ。
ダクレーは、直接フィラレスに接しようとする事はほとんどなく、時々フィラレスに質問をするくらいで、後はミルドに指示し、彼に任せる形で測定を続けていた。
「そろそろいいかな」
ミルドはそう呟くと、フィラレスにさっきから持たせていた水晶玉を取り上げ、傍の机に置いてあった魔力測定器の丸い窪みに、その水晶玉をはめた。手から漏れた魔力を拾った水晶玉が魔力測定器の中に流れていき、それを測定する方式だ。
魔力測定器に取り付けられた指針がメモリの上を移動していく。ある時点まではミルドは、ただそれを見つめているだけだったが、その内に表情が目に見えて凍り付いていった。
「すごい……どんどん上がっていく……」
指針が止まり、ダクレーが、それに示された数値と、ミルドがまとめたデータのファイルを見比べた。
そして、今にも舌舐めずりしそうな笑みを浮かべる。
「ファトルエル出発前の軽く三十倍……クックッ、なかなか研究のしがいのある数値だ」
しかしこの魔力の増加に関しては、ミルドはある程度分かっていた。
フィラレスの持つ“滅びの魔力”はどういうわけだか、成長し膨らみ続けている。今、彼女が付けている魔導アクセサリーは、付けた当初、“滅びの魔力”を完全に抑え込み、彼女自身が発動させない限り、外に漏らさなかった。
ところが、今では微弱ながら彼女が“滅びの魔力”を発動していないときでも魔力がもれるようになっている。
特に“滅びの魔力”が暴走した後は、いつもとは比べ物にならない程跳ね上がるのだが、それでも精々一・五倍くらいまでで、三十倍は明らかに異常を超える変化だ。
魔封アクセサリーの制御から漏れた魔力だけでも三十倍、それを外した状態に換算すると、一体“滅びの魔力”自体はどれだけ大きく強くなったのだろう。
フィラレスに魔封アクセサリーを与えて、かなり時間が経っている。
こうして疑問を抱くまでミルドは忘れかけていた。魔封アクセサリーで抑えていない“滅びの魔力”の脅威を。
ファトルエルの決闘大会は、世界最高峰と言われている。それほどレベルの高い魔導士達が集まる所だ、それらの攻撃に遭うか、何かの拍子に“滅びの魔力”が何度か発動したとしても何ら不思議はない。
しかも、彼女は先ほど自分で“滅びの魔力”を発動させ、収めてみせたばかりだ。今でも信じられないが、彼女の自分の魔力に対する意識は明らかに変化している。
「フィリー、ファトルエルの大会中に何回滅びの魔力を発動させた?」
一応、聞いてみた。変化の度合いからして、回数は問題ではなかったが、聞かずにはいられない。
フィラレスは少しの間、首を傾げて指折り数えていたが、やがてミルドに向かって三本の指を立てた手を突き出してみせた。
「三回か……。やっぱり回数は問題じゃないな……」
口の利けないフィラレスに、これ以上詳しい事は聞けない。あとでカーエスにでも聞かなくてはならない。
「ミルド君見てくれ、このデータを!」
フィラレスと向かい合って座り、思考にふけっていたミルドの背後から、ダクレーが一枚の紙を渡して来た。
その紙は、常人には理解し難い記号と数字で埋め尽くされていたが、ミルドは、これが今日の様々な測定の結果であることを読み取った。
「量、質、全ての数値が大会前を軽く凌駕している! 大会以前の“滅びの魔力”の数値では怪しいものがあったが、今は何ら問題がない! 大会さまさまだよ!」
彼が何を喜んでいるのか、ミルドには分からなかった。
大会前の“滅びの魔力”の数値で“どうして”怪しいのか。そして今、より膨らみ、より強くなった魔力となったことで“どんな”問題がなくなったのか。
少なくともミルドにとって、フィラレスの“滅びの魔力”の強大化はあまり歓迎すべき事ではなかった。どうすれば彼女からこの忌わしい魔力を完全に制御、もしくは消去できるようになるのか。それが彼の専門である魔導制御の、一つの最終的な研究課題だったからだ。
ダクレーの研究が、それを目指すものではない事は明らかだった。
「そろそろ聞かせて頂けませんか? あなたの研究が一体何を目指すものであるのかを」
ミルドはダクレーに向き合って尋ねた。
ダクレーはくっくっ、と嘲るように笑って言った。
「それは明朝話す。今夜中に今回のデータを含めた最終的な計画書を作るのでね、楽しみにしておきなさい」
そう言って、ダクレーは再びファイルに目を落とす。
少し苛立ちを感じながら、ミルドは奥の部屋に姿を消そうとするダクレーをしばらく見ていたが、ハッと気がついたようにフィラレスに向き直った。
「あ、ごめんごめん。今日のお仕事は終わりだから、フィリーはカーエス君のとこに行っていいよ。約束してるんでしょ?」
フィラレスは、こくりと頷いた。
それを確認すると、ミルドはダクレーの後を追おうとしたが、肘の辺りに抵抗を感じる。振り返ってみると、フィラレスがミルドの袖を掴んでいた。
「……何?」と、ミルドが聞くとフィラレスはミルドを見つめたまま、くいくい、と袖を引っ張った。
「……つまり、僕にも来て欲しいと?」
フィラレスはこくこくと頷く。照れで頬が少し紅潮している。
その仕種はとても愛らしく、気持ちも嬉しかったが、ミルドは一刻も早くダクレーから計画とやらを聞き出さなければならない必要性を強く感じていた。
「でも、僕もダクレー主任を手伝わなきゃいけないし……」
ミルドが誘いに応じる事を躊躇していると、ダクレーが、丁度奥の部屋から戻って来て言った。
「クックッ……。気にするな、行って来たまえ。書類の作成は一人いれば十分できる仕事だしな」
「はあ……しかし……」
「遠慮はいらん。私を手伝うより、我らが姫君の誘いに応じる方が先だろう? クック…、違うかね、ミルド君?」
それでも迷いを見せるミルドに、ダクレーは念を押すように言う。
それがミルドにはダクレーらしくない発言に聞こえた。つまりダクレーは、むしろミルドがダクレーを手伝う事で明日話す計画とやらがミルドに漏れる事を恐れ、ミルドを遠ざけようとしているのではないか。
もしそうなら手伝ったところで、ミルドには与えても計画が漏れる心配のない仕事しかまわして来ないに違いない。
無論、計画について問い詰めたところで彼は話さないだろう。
(しかし、何故明日までなんだ……?)
それはおそらく、明日になれば自分に計画をばらしても差し障りがない状況に変わるのだろう。その状況変化の内容までは読めない。
少し前までは研究所に対して感じる事のなかった不透明さが、今露骨に現れている。それは、はっきり言って不快なものでしかなかった。
「……ではお言葉に甘えさせて頂きます」
「あ、待ちたまえ」と、ダクレーは思い出したように、フィラレスと連れ立って研究室を出ようとするミルドを引き留めた。
そして彼が振り向くのを待って続ける。
「明日は、緑の刻(午前六時頃)には研究室に来ておいてくれ。姫君は普段通り、黄の刻(午前九時頃)でいい」
「承知しました。では失礼します」
そう言って、ミルドは部屋を出た。
扉が閉まった後、ミルドはその場で少し立ち止まり、腰のすぐ傍にある両手を力一杯握りしめた。
(……こんなにイヤな感情を持つのは初めてだな)
ミルドは、自分自身を温厚な方だと思っていた。しかし今は額に青筋を立てているのではないかと思われるほど、憎しみと怒りに心を支配されている。
アルムスやダクレーの不可解な言動も、その負の感情の原因にはなっているのだろうが、ミルドは薄々自分で気が付いている。
本当の苛立ちの原因は、自分が主任を解任された事にあることを。
(僕にだってプライドはあるんだ……、自分の研究を取り上げられて、黙っていられる訳がない)
ふと気が付くと、隣に立っているフィラレスが、頭一つ分低い位置から不安そうにミルドの顔を見上げていた。
「ああ、ごめん。カーエス君達、きっと待ってるね。少し急ごうか」
フィラレスがこくりと頷くのを確認し、ミルドは少し早足で歩き出した。
背後から聞こえるフィラレスの足音に耳を傾けながら、ミルドはその胸中に反芻する。
(ダクレー達が何を考えているのかは分からない。しかし、もしそれがフィリーに危害を加えるようなら、僕は絶対に黙ってはいない。絶対にフィリーは守ってみせる……!)
例え自分がティタを巻き込み、その上、研究所を去る結果になったとしても。