04『孤立する日』
一度目は、生きている心地はしなかった。
二度目も、恐怖に打ち震えるばかりだった。
三度目には、恐れながらも、動く事が出来るようになった。
四度目ともなると、慣れてきて、冷静にそれを見つめられた。
五度目からは、それが日常であると感じ、動じなくなった。
所長室へは歩いていく事が出来ない。行政部、研究部、開発部、魔導学校、各部長の部屋にある移動用魔法陣を使う事でしか、行く事が出来ないのだ。
しかも、移動用魔法陣はそのままでは使えない。先ず秘書室に連絡をとり、許可をもらって、秘書室のほうから魔導器を制御して、移動用魔法陣を発動してもらわなければならない。
それゆえ、部長より下の役職にある人間が、所長室に入ることは滅多にない。
カーエスとフィラレスがファトルエルへ出発する時も、校長のドミーニクを通じて、一言の激励をもらっただけで、直接会う事はなかった。
だから帰って来た時も、ドミーニクにさえ挨拶をしておけば、それで十分だろうとカーエスは思っていた。
まさか、今を時めく魔導研究所の頂点に立つ男に呼ばれるとは思っていなかったのである。
カーエスは、それはそれで気が楽だと思っていた。彼は高い役職に就いている人間があまり好きではなかったからだ。
と言っても、そういう種類の人間に偏見を抱いている、というわけではない。もちろんそれも少しはあるが、理由の大半を占めるのは、へりくだった態度が苦手であるという事だ。
カルクのように、本気で尊敬している人物にならば、自然に敬意を持って振る舞えるのだが、全く知らない人間に、そうした態度をとることに大きな抵抗を感じてしまうのだ。
だから、こうして所長室にやってくるのは、あまり気の進む事ではなかった。
「所長、カーエス=ルジュリスらを連れて参りました」
そういってカーエス達の先頭に立って、所長室に魔法陣で移動して来たドミーニクが、彼らを迎えたアルムスに一礼する。
役職名にはないが、魔導士養成学校校長は立派な部長職で、今回の移動の許可をとったのはドミーニクだ。
「うむ、御苦労だった。カーエス君、長旅で疲れているところを呼びつけて済まないな」
(悪いと思とるなら呼ぶなっちゅうの)と、カーエスは内心で毒づいたが、それを口に出すほど彼は子供ではなかった。
かといって、明らかに気持ちとは相反する言葉を返すわけにも行かず、すこし迷った末に「いえ、気にせんといて下さい」とだけ、素っ気無く答えた。
「フィラレス君も御苦労だった」と、アルムスがフィラレスにも声を掛けると、フィラレスは驚いた様子で慌てて頷いた。
それに対し、アルムスは満足そうに頷き返すと、彼らの背後にいる三人に視線を移した。
「カーエス、後ろの客人を紹介してくれんかね?」
カーエスは黙って頷くと、向かって左端に立っているジェシカから紹介し始めた。
「向かって左端に立っている女性はジェシカ=ランスリア。ついこないだまでカンファータ魔導騎士団におりまして魔導騎士団勢としてファトルエルの大会に出場しとりました。
右にいるのがコーダ=ユージルフ。ファトルエルで、サソリ便の御者をやっとりました。他に便利屋も営んどるそうです。それから、真ん中にいるのがリク=エールで、」
今大会の優勝者です、と言いかけたのを、リクに睨まれ、カーエスはかろうじて飲み込んだ。今年のファトルエルの大会は、思わぬアクシデントで公式には優勝者が決定していない事になっている。
エンペルファータに着くまでの道中で、下手な名声は厄介な事になりやすいから、自分がファトルエルの大会の優勝者である事は黙っていてくれ、とリクに言われていたのだ。
「リク=エールで……?」と、アルムスに続きを催促され、カーエスは目一杯考えてから答えた。
「昔ここにいとったファルガール=カーンの弟子です」
「ファルガール=カーン!?」
素頓狂な声をあげてこの場にいる全員の注目を集めたのはドミーニクである。実はドミーニクは十三年前、ここで教師をやっていたファルガールを罠にかけたこの魔導研究所を追い出した張本人である、前任の魔導学校長・ディオスカスの腹心の部下である。
よってファルガールが、どのような経緯で魔導学校を去る事になったのかは、よく知っている。
「どうかしたのかね、ドミーニク?」
「い、いえ……」
アルムスに問われたドミーニクは血色を失った顔を横に振って答えた。
察するにリクがここに現れたのは師を追い出した報復だとでも思っているのだろう。
「ところでカルクとマーシアはどうしたんだね?」
その質問には、ややぶ然とした態度でカーエスは答えた。
「カルク先生もマーシア先生も、ついでにクリン=クラン先生もファルガール=カーンに付いて行きはりました」
「何? ……では研究所の仕事はどうするのだ?」
「さあ……。俺には教えられる事を教えた言うてましたし、辞めるつもりちゃいます?」
カーエスの回答に、アルムスはしばし黙考し、一つ頷いて答えた。
「そうか、魔導研究所としては、貴重な人材を失ってしまったな」
そして、ちらりと机に置かれた時計に目をやると、背後のガラス張りの窓を見遣った。
「……そろそろだな」
「何がですか?」
尋ねたカーエスにアルムスは疑うような眼を向けた。
「まさか忘れていたのかね? ……なら危ないところだったな」
「……?」
まだ分からない様子で首をかしげるカーエスにアルムスはたった一言答えてやった。
「今日は“孤立する日”だよ」
「あっ……!!」
カーエスは思わず声をあげた。
やっと気付いた様子の彼をリクが小突く。
「“孤立する日”ってなんだ?」
「見れば分かる」と、カーエスはアルムスと同じように窓から見える空を睨んだまま答えた。
リクが周りを見回すと、ドミーニクも同じように空を見ている。その顔は揃って真剣なものだった。
しばらくしてカーエス達が見つめる空が暗くなり始めた。
そう思った途端、黒の塗料をこぼしたように空が一気に闇に染まり、続いて地震が起こりはじめる。
突然の出来事に驚いているリクにさほど驚いた様子を見せないカーエスが話し掛けた。
「この揺れの感じ、覚えてへんか?」
「まさか、大災厄!? だったらお前、何でそんなに落ち着いてるんだよ!? 早くなんとかしなくちゃヤバいんじゃないか!?」
慌てるリクとは対称的に冷静な様子でカーエスは頭を振った。
「いや、何もする必要あらへんねん。まあ見とれ」
その彼の言葉に応えるように空が光り。雷が市街に向かって落ちた。ところが、落ちる途中で障壁のようなものに阻まれ、何も破壊する事もなく消散する。
その落雷を皮切りに、続いて何発もの落雷がエンペルファータを襲った。しかしどんなに強い落雷でもエンペルファータの街中に届く事なく弾かれていく。
そんな落雷を放っていた雲の一部が下降して来た。他の暗雲より一際暗い色をしており、定まった形はないものの、その先端部には、目なのだろうか、寄り添った二つの輝点が目立っている。
「あれが、この大災厄のグランクリーチャーか?」
「エンペルファータの人間は《テンプファリオ》って呼んどるけどな」
「《テンプファリオ》……」
リクは復唱して改めてその圧倒的な存在を見上げた。
大災厄の核であるとされるグランクリーチャー。大災厄はグランクリーチャーと共に歩み、グランクリーチャーが滅びれば、大災厄も霧散する。ファトルエルでのそれは、巨大な蛇の姿をとり、《グインニール》という名で呼ばれていた。
リク達は、実際にそれと対峙し、その存在がどれほど圧倒的なものであるか、自らの身を持って体験している。
リクが目を向け直したその時、落雷が静まっていった。だんだん収まっていき、完全にあたりが静まり返った。
一瞬の沈黙の後、今度は雹が降ってきた。否、その大きさは雹というには大きすぎる氷塊だ。おまけに先が槍のように尖っている。氷塊が終わると、次は滝のような大雨だった。カーエスの話によると、この雨は骨も溶かすような強力な酸なのだという。
その次のものが圧巻だった。
大雨が終わって、再びあたりが静寂に包まれる。今度はいつもより長く沈黙し、次の瞬間、目のさめるような光のシャワーがエンペルファータに降り注いだのだ。
真っ暗だったエンペルファータが眩しく照らし出され、それを見ていたリク達も目を細め、やがて目を開けていられなくなった。
しばらく目蓋を通して明るさを味わい、轟音に耳を傾けた。そして暫くして目をあけると、そこには全く無傷のエンペルファータの街の姿があった。
「街に着いた時に話したったやろ? この街にはドーム状にバリアが張られとるって。あれがそうなんや。“セーリア”って呼ばれとる魔導器で発生させたモンなんやけど、見ての通り大災厄でさえ破る事は適わへん。この魔導研究所で生み出された数々の発明品の中でも最高の部類に入るモンや」
信じられない面持ちで、目の前の光景を呆然と見つめていたリクは、カーエスの説明ではっと我に帰った。
「街が安全なのは、よく分かった。でもさっきの、大災厄が発生するのを予測していたみたいだったのは? “孤立する日”って何なんだ?」
「エンペルファータでは定期的にアレが起こるねん。約二百日おきやったかな。大災厄がやってくると街の中は安全やけど街の外に繋がる交通機関が全部使われんようになるよって、大災厄が起こる日を“孤立する日”って呼ぶんや」
これで、さっき今日が“孤立する日”であると知ったカーエスが驚いた理由が分かった。エンペルファータ到着がもっと遅れていれば、今頃リクたちはあの大災厄の中だったのだ。
「ははは、顔が青ざめているな」
アルムスが、リク達の様子を見て小さく笑った。
「まあ、それも無理はない。殊に君たちは、ファトルエルで存分に大災厄の恐ろしさを十二分に味わったのだからね。決闘大会を見に行っていた所員から聞いたのだが、誰かが、グランクリーチャーと闘って、大災厄を退けたらしいな」
アルムスの言葉に、リク達は心の中で苦笑する。その、グランクリーチャーと闘ったという人物は自分達に他ならないからだ。
そんな心中をよそに、アルムスは続けた。
「そこで君たちに相談がある」
「相談……?」
その単語に、リクは反射的に聞き返した。
おそらく、エンペルファータ市長兼魔導研究所所長という、長たらしい肩書きの人間が、わざわざ自分達に会ったのは、大会の労いなどではなく、その“相談”のためだったのだろう。
「“セーリア”の無い街で、大災厄を相手に死傷者ゼロ、というだけで、おそらく史上初めての事だ。しかも大災厄を防ぐだけではなく、グランクリーチャーを倒して退けたとなると、人類始まって以来の偉業と言えよう。これは、大災厄対策研究に大きな革新をもたらすだろう。
そこで、大災厄対策の最先端をも担う魔導研究所としては、ファトルエルを襲った大災厄に関して、少しでも多くの証言を集めたい。そこで、実際にその大災厄を体験した君たちに、“大いなる魔法”の研究を行っている者に会ってほしいのだ」
それはこちらこそ願ってもない話だった。
リクが魔導研究所に来たそもそもの理由は、大災厄についていろいろな事を調べられると思ったからだ。それなら自分で難解な資料を紐解くよりも、専門家に聞いた方が早い。
「それなら明日といわず、今からでも」
「それはありがたい話だ。それとフィラレス君」
いきなり話を振られたフィラレスは、びくりと反応した。
彼女の目が自分の方を向くのを待って、アルムスは続けた。
「君はこれからミルドの研究室に行ってくれ。君の魔力を今日の内に検査してしまいたいそうだ」
フィラレスはこくりと頷いて、了解の意を示した。
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他の者が去った後の所長室で、アルムスは机の上の伝声器に向かって話し掛けた。
「ああ。今そちらに向かっている頃だろう」
『ありがとうございます、所長』
通話の、丁寧でいて、どこか人を馬鹿にしたような響きがある声の主は、ダクレーのようだ。
「コトがコトだからな。例の話を、彼女に持ちかける時は、くれぐれも注意してくれよ。彼女自身はともかく、ミルドが反対するのは目に見えている」
アルムスの注意に伝声器の向こうのダクレーはくっくっ、とやはり卑屈な感じの笑いを漏らして応えた。
『大丈夫です。説得は必ず成功するでしょう。どのみち今日は使えるかどうかを確認するだけですからな。今日のところは心配いりませんよ』
またくっくっ、と笑いを漏らし、ダクレーは通話を切った。
アルムスも“伝声器”のスイッチを切ると背後にくり広がる大災厄の光景を眺めやった。そしてが砕けない障壁をがむしゃらに攻撃し続けるグランクリーチャー《テンプファリオ》を見つめた。
「本末転倒か……この世で一番、皮肉な言葉だ」