38『長い夜の始まり』
全ての者にとって始まりは驚きである。
驚きは謎となり不安となる。
それらを解いていく事が物語として紡がれて行く。
それらが全て氷解した時、ひとつの物語は終わりを迎えるのだ。
ファトルエルを囲む高い石壁の上には階段が通じており、上る事ができる。ここに兵士が上って外敵を防ごうと言うのだろう。
今ここに上っている人間は一人だった。複雑に編んだ黒髪、紫色の目を持ち、妖艶な印象を与える美女、マーシア=ミスターシャだ。
大会が始まってからというもの、彼女はずっとファトルエル中を歩き回っていた。他でもない。ファルガール=カーンを探すためである。
勿論ファルガールがこんな事で見付けられるとは思っていない。ただ、居ても立ってもいられず、こうして毎日一日中探し歩いている。
ずっと放ったらかしにしているフィラレスの事も勿論心配だった。誰にどう襲い掛かっても構わないこの大会である。そうして襲ってきた人間に対してあの“滅びの魔力”が発動する可能性は多分にある。
そうなったらこのファトルエルでも崩壊してしまうかもしれない。
それは十分に分かっている筈なのに、他人を傷つける事を何よりも嫌い、“滅びの魔力”の発動を誰よりも恐れているフィラレスが自分の意思でこの大会に参加したのだ。何かあるに決まっている。
だが彼女はそんなフィラレスよりファルガールを優先してしまった。
自分でも師として失格だと思う。
十年ぶりの再会で、マーシアはもう自分の気持ちを抑える事が出来なくなっていた。
会いたくて会いたくて仕方がない。
もう涙に暮れる日に戻りたくない。
しかしその気持ちは叶えられる事がなく、マーシアはただファトルエルの街を歩き回っていた。
もう通っていない道もない。この防壁の上で最後だ。
ファトルエル北門の真上まで来た時、マーシアはふと立ち止まって街を見下ろした。
決闘場以外はみな件の砂レンガで出来ているので、一番高い『ルーフトー・レスト』でも、この防壁の高さには全く及ばない。
つまり、防壁の上からならこの街全体を見渡せるのである。
(本当にファルガールはこの街の中にいるのかしら……?)
そんな事を考えながら街の景観をしばらく眺めているといきなり大きな地震が起こった。
かなりの揺れで、マーシアも思わず膝をつく。
地面の揺れは何故か止まらない。
次に北の方から轟音が鳴った。
何事かと、マーシアは音のした方に目を向けた。
そして彼女の目に入った光景は一瞬、彼女にファルガールの事を忘れさせた。
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「何と、それは本当か!?」
ファトルエル大決闘場の一室でその声を響かせたのは、カンファータ国王・ハルイラ=カンファータ十八世である。
その目の前にいる北門の門番兵が、手と片膝をついた姿勢のまま、頭を下げてもう一度報告した。
「はい。間違いございません。あれは大災厄にございます! 北門よりこのファトルエルに向けて接近中であります。あと三時間でこちらに到着するは必至!」
門番の口調は割としっかりしたものであったが、その表情はまるで地獄を見てきたかのように恐怖に満ちている。
ハルイラは座っていた大きな椅子から立ち上がり、端で控えていた儒者風の男に話し掛けた。
「……早急に対策を練らねばならんな。バスタ、お前はどう思う?」
バスタはカンファータ王国の宰相で、言わばこの国のブレインである。
その状況整理は理路整然とし、その判断は冷静沈着。そしてハルイラの行動力がその判断をするという形で今のカンファータは切り盛りされていた。
「あまり状況はよろしくありませんな。この地震で大分家屋が崩れているでしょう。そして大災厄がやってきて雨が降り注ごうものならば、一般住居はひとたまりもありますまい。
よって先ずはファトルエルの民に雨が近付いている事を警告しましょう。雨で街が崩れた事は過去にもあり、その都度ファトルエルは蘇っておりますから、雨の方は住民さえ助かれば良しとしましょう。
問題は他の災害です。幸いファトルエルには燃え広がるようなものはどこにもありません。雷などによる火事の被害は心配はいらないかと思われます。しかし他にも雷に直接打たれたり、竜巻きに飛ばされる者も居ます。
さらに心配なのはクリーチャーの存在です。クリーチャー達は他の災害とは違い、確実に人を狙い、殺します。今までのデータによるとこのクリーチャーによる被害が一番大きいのです。
天気の方はどうしようもありませんが、クリーチャーを迎え撃つ事は可能です。魔導騎士団を派遣しましょう」
「ふむ」
ハルイラはバスタの意見に頷いたが少し考えてから言った。
「しかし団長のシノンが死んで浮き足立っておる」
「そのための副団長です」
「ジェシカか……。しかしちと荷が重すぎるのではないのか?」
「だからといって今出撃しないわけにはいきません」
ハルイラの口から出てくるいくつかの否定の言葉をバスタにあくまで冷静に答えて行く。これが彼の仕事だからだ。
確かに今は隊長不在、副隊長の不調、更に言うなら大会に出ていたもう一人の主要戦力の欠落などの理由があるとしても、魔導騎士団の派遣を止め、ファトルエルの住民、観光客がクリーチャー達に殺されていく様子を黙ってみているわけには行かない。
「よし、ジェシカをここへ呼べ」
「恐れながら、陛下」
ハルイラの命令に部屋に控えていた衛兵の一人が一歩前へ進み出た。その衛兵は確か先程までジェシカの部屋の前で番をしていた男だ。
「どうかしたのか?」
「いえ、ジェシカ様はただ今、お出かけ中でございます」
その報告にハルイラが眉を潜める。
「どこに行ったのか分かるか?」
「何でも決勝を闘う参加者の陣中見舞いとか。名前は確か……」
「リク=エールか?」
自分が必至に思い出そうとしている名前をあっさりとハルイラに言われたので衛兵は意外そうな顔をした。
「御存じでしたか」
「うむ、ちょっとな……済まないが、ジェシカを迎えに行ってくれないか? すぐにここに参るようにと」
「陛下、それでは迅速さに欠けると思われます。先ず魔導騎士団を北門に配置しておき、ジェシカ様には北門に直接来て合流していただくのが上策かと」
「うむ、お前の言う通りだな。衛兵、聞いた通りだ。そうしてくれ」
ハルイラはバスタの助言に頷き、衛兵に向き直って指示し直す。
「はっ」と、衛兵はビシッと敬礼をして、きびきびとした歩き方で部屋の外に出て行った。
それを見届けてからバスタはもう一度口を開いた。
「陛下、この街には今、世界最高峰の戦力が揃っております。別働隊を設けてそれらの魔導士達に協力を呼び掛けてはいかがでしょうか? 上手く行けば大災厄を迎えても一人の死者も出さずに済むやも知れません」
「珍しいな。お前がそれだけ楽観的な考えを口にするとは」
「私もそう思います。しかし、この街は神を相手に回しても、立派に闘う事ができるような気にさせられるのです」
そう答えるバスタの口元には珍しく笑みが浮かべられていた。
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時は少し遡る。
決勝に進んだリクとジルヴァルトには大決闘場を中心とする中央広場の北と南にそれぞれ専用のテントを与えてもらっていた。
南にあるリクのテントには彼以外にもカーエス、フィラレス、カルク、クリン=クラン、そしてコーダがいた。
「うえぇ……もう動かれへ~ん……」
床に伏せたまま情けない事を出したのはカーエスだ。
“魔導眼”で時を操った後はいつもこうなってしまう。
『ルーフトー・レスト』に戻って休む方がいいのだが、こちらの方が遥かに近かったので一旦こちらで休憩してから、という話がずっと居座られてしまっている。
「ったく、情けねぇ奴だな」と、リクは呆れたように息をつく。
「そう言わないでやってくれ。“魔導眼”の本当の力を使うとこうなるのだ」
カルクがフォローを入れると、リクは口を尖らせて言い返した。
「それは分かってるし、あの刺青ジジイをぶっ倒したのはすげーと思うよ。でもさ、俺の時にはまだ全力出してなかったってのが一番気に食わねーの! ちっとも勝った気がしねーよ」
ちなみに刺青ジジイことイナス=カラフは禁術である“烙印魔法”を使った疑いでカンファータのファトルエル常駐兵に拘束され、連行されていった。そのうちにあの刺青は封印される事だろう。
しかしあそこでカーエスが全力を出していたらどうなっていた事か。
先ずリクはカーエスに勝てなかっただろう。
仮に勝てたとしても消耗しきったカーエスはイナスに勝てなかったに違いない。また、同じく疲れ切ったリクの声はフィラレスに届かなかっただろうし、もともと長期戦になって間に合わなかったに違いない。
とにかく、今とは全く違う展開になっていただろう。
表向き、リクがフィラレスを助け出したように見えるが、この救出劇の影の立て役者は他ならぬカーエスなのだ。
リクは自分の足元に寝そべって呻くカーエスを見下ろした。
(しかしこの男が影の立て役者ねぇ……)
いまいち似合わない。どちらかと言うと三枚目である。
ふと悪戯心が差したリクはカーエスの横腹を左足のつま先でちょんと突いた。
たちまち反応したカーエスは悲鳴をあげる。
「ひえぇぇぇっっ!?」
悶絶するカーエスの様子を見てリクは何となく滑稽に思えた。
(……面白い)
それからリクは何度もカーエスを小突き回した。
その度に悶絶し、床を転がるカーエス。
リクの足元を離れる時もあったが、運悪くコーダの足元に来てしまった。かれもリクの真似をしてカーエスの脇をつま先で突く。
今度はクリン=クランの前に来たが、やっぱり彼も面白がって脇を突いた。
最後はカルクの元に行き着き、彼に救援を求める。
「か、カルク先生ぇ……」
カルクはそんなカーエスから残念そうに目を反らした。
「済まないが、弟子に艱難辛苦を与えるのが師の役目なのだ」
「へ?」
目を丸くし、カルクの雰囲気がおかしい事に気付いて青くなるカーエスをよそにカルクはカーエスを、子供を谷に突き落とすように蹴飛ばした。
「うあああぁぁっ! カルク先生ぇ、あんたもかァッ!」
腹心に暗殺された某国某権力者の有名な台詞を真似て吐きながら、カーエスは更にのたうちまわる。ついにフィラレス以外に味方のいなくなったカーエスは蹴鞠のごとく円になったリク達の中を転げ回る。
フィラレスはそれには参加していなかったが、それを興味深そうに眺めている。
カーエスは何とかこの円の中から抜け出そうと必至でもがいた。
しかし包囲網は固くなかなか逃れられない。
だが火事場の馬鹿力と言うのか、不意にぽろりとカーエスは包囲網の外に出た。
この機会を逃す手はないとばかりにカーエスは痛む身体に鞭打ってテントの外に這って出ようとする。
ところが入り口を出ようとした所でカーエスは何かに頭を打ち付けた。
「痛っ……!」
「ん?」
カーエスの呻きにその人物は自分の膝に当たった物体を見下ろす。
その人物は大きく三つ編みに編んだ金髪の髪に碧眼、どこか気品を漂わせるきりっとした面持ちを持つ美女、その身体には魔導騎士用の軽い甲冑も着込んでいる。カーエスが頭をぶつけたのはそのすね当てだった。
「な、何やねん、あんた」
リクにまだこんな知り合いがいるとは知らなかったカーエスはぶつけた額をさすり、彼女を見上げた。
「カンファータ魔導騎士団副団長・ジェシカ=ランスリアだ。リク=エール様はおられるか?」
外見とはギャップのあるジェシカの迫力満点の喋り方に、カーエスは黙ってリクを指差した。
その名を聞いてリクは入り口の方に目を向ける。
「ジェシカ? ひょっとして陣中見舞いにきてくれたとか?」
「決勝進出を勝ち取ったとの話を聞いて居ても立ってもいられず、お邪魔させていただくことにしました」
そう言ってジェシカはつかつかとテントの中に入り、リクに恭しく御辞儀をした。
そんなジェシカの様子に全員があっけにとられている。
「リク、あんたもしかして貴族なん?」
「正真正銘の平民だよ。訳が分からんのだが、闘って勝ってから俺を慕ってくれてるらしい」
カーエスの疑問をリクが否定する。それでもカーエスは納得した様子は見せなかった。
その横で挨拶を済ませたジェシカがリクの周りを見回した。
「“完壁”のカルク=ジーマンに“双龍”のクリン=クラン……さすがリク様、客人もそうそうたる顔ぶれです」
「……いや、単なる縁なんだが」
「待ていっ」
そう言って立ち上がったのはカーエスだ。
「……お前動けなかったんじゃないのか?」
「そんな事はどーでもええわいっ」と、カーエスはリクの突っ込みを乱暴に流し、ジェシカをビシッと指差した。「ジェシカとか言うたな? おのれ何でリクに様つけてカルク先生に様つけへんねん!?」
「尊敬していないからだ」
あっさりとジェシカは答える。
そんな態度がかえってカーエスの感情を逆なでした。
「か、カルク先生を尊敬しとらんやと? じゃ、何でこのくそくだらんリクなんぞを尊敬しとんねん!」
最初は冷静に受け答えしたジェシカもこの発言に眉間に皺を寄せ、カーエスの喉元に槍先を突き付けた。
「それ以上リク様を愚弄すると命の保証はしないぞ」
「……」
あまりの速さにカーエスは絶句する。
「カルク=ジーマンは確かに偉大な魔導士だと思う。しかし私にとって、ほとんど関連の無い人物であり、尊敬の対象にはならなかった。
私が尊敬し、様をつけて呼ぶ人物はこの世に三人だけ……いや、今は二人だけだな。我が君であるカンファータ国王陛下、そしてここにおられるリク様だけだ」
数が減ったのはシノン死亡の為である。
喉に槍を突き付けられたままでも、カーエスは負けずに言い返した。
「そんでも強さで言うたら、おそらくカルク先生の方が強いし、俺かて、リクに勝つ可能性は十分あるで」
「私がリク様を尊敬するのは強さだけではない。私が真に尊敬するのはリク様の志だ。リク様のお陰で私は長年の疑問にやっとケリをつける事が出来た」
「……俺のお陰ねぇ……」
二人の会話を完全に傍観していたリクがぼそりとつぶやく。
その横にコーダがやってきてにこりと笑った。
「俺が兄さんを気に入った理由もきっと志ってやつッスよ」
「便利屋になった時は、まだほとんど初対面だったろ?」
リクに突っ込まれたコーダは苦笑いしてぽりぽりと頬を掻く。
しかしどこか真剣な雰囲気で答えた。
「何となく分かるんス。……この人の為に働きたいってね」
「コーダ……」
と、そこに大きな地面の揺れがリク達を襲った。
立っていた面々はバランスを崩す。
哀れなのはカーエスで、突き付けられていた槍先がジェシカのバランスの崩れでサクッと鼻の頭に突き刺さったものだ。
「さ、刺さったぁ! 鼻に刺さったぁ!」
「鼻の頭に刺さったくらいで死にはせん。少し大人しくしろ」と、ジェシカは悪びれた素振りもなく、カーエスを床に押さえ付ける。
「なんスか? この揺れ!」と、コーダ。
「俺に聞くな!」と、リク。
「ただの地震ではないな」と、カルク。
「かといって誰かが魔法で起こしたものでもないようですね」と、これはクリン=クランだ。
フィラレスは四つん這いになって少し不安げな表情を見せている。
各自コメントが終わった後も、絶える事なく地面は揺れ続けた。
リク達はテントが倒れてくる事を恐れて一旦、外に出る。
外には何事かと外に出てきた一般市民がたくさんいた。
その一般市民の間に交わされる会話を聞いても何が起こっているのか全く把握出来ない。
だが、その中にリクは驚くべき人物を発見した。
人々の間をすり抜け、大通りを北に向かって走る、灰色の髪と眼を持つ巨漢。
そしてリクとカルク、クリン=クランが共通して良く知る人物。
三人は同時に叫んだ。
「ファルッ!」「ファルガール!」「ファルガール先生!」
その男、ファルガール=カーンはリク達の目の前まで来ると、その足を止めた。
そしてリクに向かって軽く手をあげる。
「よ。二日振りか? 長ぇようであんまし時間経ってねぇな」
「よ。じゃねーよ! 何だこの揺れ? ファルなら知ってるんだろ」
リクはファルガールの正面に迫って問いつめる。
いつものパターンならここでとぼけて誤魔化すところだったが、今回ばかりはファルガールもふざけるような真似はしなかった。
「ああ、あんまし説明してる時間はねぇから手短に済ませる」
その神妙な面持ちに、全員がごくりと息を飲む。
「俺がファトルエルにやってきたのはこの街にある“ラスファクト”を調べるためだった。理由は後で話す。
“ラスファクト”は自己防衛能力を持つ物質でな。魔力がそれに触れると自分を壊そうとしているんだと判断してその防衛能力を発動させてしまう。で、俺はヘマをやってここに眠ってた“ラスファクト”に魔力を触れさせちまった。で、防衛能力が働いちまった、というこった」
ファルガールは“ラスファクト”が発動してしまった事に気が付いたあと、その後の衝撃に巻き込まれないように、そこから逃れた。
しかし丸二日掛かった行程をどうしてすぐに戻れたのか。
それは旅宿『バトラー』の部屋に敷いていた“引き返しの陣”のお陰だ。ある一定範囲からならば、ちょっと呪文を唱えるだけで簡単に陣を敷いたところまで戻れるという魔法の道具なのである。
そしてバトラーの部屋に転移したファルガールは大通りに出てここまで走ってきたというわけだ。
「で、その自己防衛能力が働いたらどうなる?」
カルクが質問をした横から、一行に駆け寄ってくるものがいた。
「ジェシカ様っ!」
件の衛兵だ。彼はジェシカの傍まで来ると敬礼をして言った。
「魔導騎士団に召集令が掛かりました! 直ちにファトルエル北門にお向かい下さい。北より大災厄がファトルエルに向かって接近中です!」
「「「「「「大災厄!?」」」」」」
衛兵の報告に、ファルガール、フィラレス以外の人物が声を揃える。
「はっ。魔導騎士団には街に向かうクリーチャーの掃討が命ぜられました! ただ今魔導騎士団は指揮官不在で浮き足立っております! このままでは大きな被害が出るのは避けられません! 何とぞ一刻も早く北門にお向かい下さい!」
驚愕を表情に満ちさせる一同を見渡し、ファルガールは言った。
「……そういう事だ」