35『あなたのためのとっておき』
どこで使おう、とっておき。
今使おうか。
しかし未来にもっと必要な事があるかもしれない。
ないかもしれない。
今使って、後になって後悔するのは嫌だ。
今使わないで結局使わないのも勿体無い。
やっぱりやめよう、使うのは。
今は使わない。
未来でも使わない。
自分のためには使わない。
とっておこう、いつかのために。
とっておこう、誰かのために。
そして使おう、その時は勿体ぶらず。
いつか出会う大切な人。
あなたのためのとっておきだ。
「《炎》っ!」
「ここに敷かれしは《水の陣》、熱気は決して入るべからず!」
イナス=カラフの短い言葉が放つ炎の威力は絶大だったが、そのカーエスの張った水でできた壁はそれをもろともせずに、その防御力の程を見せつける。
更にイナスは唱える。
「《氷》っ!」
「ここに敷かれしは《炎の陣》、冷気は決して入るべからず!」
今度放たれたものはいくつもの大きな氷隗だったが、それもカーエスが寸前に唱えた魔法《炎の陣》の形作る炎の壁に敢え無く融解してしまう。
「《雷》っ!」
「ここに敷かれしは《土の陣》、電気は決して入るべからず!」
三つ目は雷だ。これもまた、カーエスがギリギリで発動させた魔法によって構成される土でできた壁によって遮断された。
イナスの度重なる攻撃をその都度防ぎ、直前のリクとの対戦で受けた傷の他は全く無傷で済んでいるカーエスだったが、戦況はあまり思わしくなかった。
レベル6、7はあろうかという規模の大きな魔法をイナスはたった一音発音するだけで発動させる事ができるのである。
速い、そして強い。
カーエスが眼鏡を外して“魔導眼”を使用し、魔導の先読みを持って相手の魔法を読み取っているからこそ、彼の唱える防御魔法は間に合うのだ。
同じタイミングで相手の魔法を圧倒する魔法が詠唱できるなら良いのだが、彼が同じタイミングで唱えられる魔法はレベル4が精々だ。話にならない。
とにかく防戦一方の戦況である。
「“魔導眼”か……。まさか生きてお目にかかれるとは思っていなかったよ」
「……知っとったか」
「伊達に魔導士はやっとらん。しかし、いかな“魔導眼”と言えど、我が魔導を止める事は不可能。盲目とそう変わらん。精々、研究のためにその目玉くり抜いて持ち帰ってくれるわ! 《炎》! 《氷》! 《雷》! 《水》!」
立続けに襲ってくるのは熱く激しい炎、冷たく固い氷隗、鋭く轟く雷、全てを洗い流すかのような水流だ。とても防ぎ切れそうにない。
しかし迷う時間さえなく、カーエスは舌打ちをして唱える。
「防げずも、全ての衝撃を《和らげる障壁》!」
淡い光がカーエスを包む。
そこにイナスが放った魔法達の応酬がやってくる。
カーエスを包んだ障壁がその威力を和らげるも、あっさりとカーエスを傷付け、吹き飛ばした。
「くっ……!」
少しばかりの呻きは漏らすもすぐに立ち上がり体勢を立て直す。《和らげる障壁》は魔法を完全に防ぐ事はないものの、確実にその威力を削ぎ取る事のできる魔法だ。使う時から多少のダメージは覚悟の上だ。
しかし速い。
このままの調子でやられ続ければ間違いなくやられる。イナスの実力は、もはや魔導士達の最高峰が集うファトルエルの大会のレベルをも圧倒している。
(なんであんなに速いんや……?)
イナスの魔導の速さは目に見えて異常だ。
魔導を行う際に詠唱する言葉を呪文と言う。あれは自分の魔導を助ける補助で、同じように魔力を動かす事が出来れば、特に唱える必要はない。しかしいかな上級の魔導士と言えども、これを行える魔導士はほとんどいない。
いるにしろ、そうして発動した魔法は実用的なレベルに達しないほど発動が遅い。結局呪文を唱えて魔導を行うほうが速く確実なのである。
しかしイナスは何も唱えていないというわけでは無いが、たった一音の呪文であれだけ大規模な魔法をあれだけ速く発動させている。
呪文ではない。呪文ではない何かが、あの魔導を補助しているのだ。
あの言葉はその何かを呼び覚ますためのキーワードなのかもしれない。
「もう一丁行くぞ! 《炎》! 《氷》! 《雷》! 《水》!」
今度もカーエスは《和らげる障壁》を唱え、幾らか負傷しながらもなんとか危機を乗り越える。
そして体勢をもう一度立て直した時、偶然自分に向けられていたイナスの右手の掌を見た時、彼の疑問は氷解した。
「……“烙印魔法”……!?」
「気付きおったか……その通りだ!」
イナスが着物の上着の裾を掴み上げて腕を振り上げる。
そしてイナスの肌が露になった。
カーエスはそれを見て思わず顔をしかめた。
そのイナスの肌には所狭しとばかりに痛々しく青黒い色の刺青が施されていたのだから。
ほとんど元のままの肌は残っておらず、遠目に見ると、イナスの肌の元の色がこの青黒い色であると勘違いしかねないほどだ。カーエスが先程見たのは右手の掌にあった刺青である。
「私が短く唱えればこの刺青が発動し、私の魔力を刻まれたプログラム通りに織り上げる仕組みだ……呪文を唱えるより遥かに確実で速い」
「……痛うなかったんか?」
カーエスが驚愕に満ちた眼差しで刺青を凝視して訪ねる。
そんなカーエスの反応を楽しむかのような笑みを浮かべ、イナスは答えた。
「ああ、痛かったね。これは全部一度に彫られたものだ。あの時は本当に死にそうになった。しかしその代償の価値はあったというわけだ」
「何でそんなにまでして……」
「強くなりたかったのか、か? 愚かしい質問だな。魔導をより完璧により迅速に使いこなせるようになる事、それは即ちより、より多くの目的をより簡単に達成できるようになる事を指す」
当然だ、決まっている、と一般常識を説明するかのように言い切るイナスだったが、対するカーエスはその精神をいまいちよく理解出来ない。そこまでして果たさなければならない目的があるのだろうか。
大体“烙印魔法”は今の世界には存在してはならないものだ。
昔は戦争のため、強い戦士を手っ取り早く得るのに盛んに用いられたそうだが、あまりに安易に魔法が使えてしまう。
魔法は本来、宇宙の基盤を揺るがしかねないほどの可能性を持った力であるため、そのようにあまりに気安く使われてしまうと、魔法の重要性が忘れられてしまう恐れがある。
そういった理由で、ある戦争が終わった後、魔導研究所はその事をよく説明した上で“烙印魔法”の使用を禁止するよう各国に要請し、これを機会に様々な魔法の危険性を考慮した、“全世界による魔法についての使用制限条約”が国際会議で採択されたのだ。
禁じられた魔法を使ってまで遂げなければならない目的。つまり彼らはどんな事をしてでもその目的とやらを達成しなくてはならないらしい。
その目的までの行程の中にフィラレスの誘拐がある。
(何やワケ分からんけど……コイツら本気でヤバいで……)
止めなければ大変な事になる。そう、カーエスは感じた。
「さて、冥土の土産はここまでだ。タネがバレたところで決めさせてもらおう」
そう言って、イナスは攻撃を再開した。《炎》、《氷》、《雷》、《水》のいつもの連続攻撃、カーエスがそれを《和らげる障壁》である程度防ぎ、体勢を崩す。そこに、イナスは更に踏み込んできた。
「《速》ッ! 《力》ッ!」
手っ取り早いキーワードを口にすると、露になった刺青が発光する。そしてイナスのスピードが増し、筋力が飛躍的に上がる。
強化した身体で、イナスはカーエスの鳩尾に拳を叩き込んだ。
「ぐ……あっ!」と、カーエスは息が詰まり、声にならない呻きをあげる。
「ククク、哀れだが、これで終わりだ!」と、そんなカーエスにイナスは嗜虐的な笑みを浮かべ、更に唱えた。「《爆》っ!」
鳩尾に触れたままのイナスの拳から光が発生し、それはどんどん広がって爆発した。
打ち消す事も、防ぐ事も出来なかったカーエスは、モロにダメージを受け、もんどりうって倒れる。
倒れたカーエスを満足げな顔で眺めていたイナスだったが、次の瞬間その表情は凍り付いた。
「なっ……!?」
その視線の先で、カーエスが立ち上がっていた。
衣服はぼろぼろ、その下に覗かれる肌は傷だらけだ。そしてその傷は尋常ではないほどに深い。息も荒いのを通り越して、絶え絶えと言った感じだ。
まさに瀕死。立っていられる筈はない。
そんなカーエスの口元に微かな笑みが浮かべられた。
それを見たイナスは一瞬悪寒が背中を走った。
「ワレ、冥土の土産や言うたのう……?」
「なっ…!? どっ……!?」
困惑を見せるイナス。
その笑みは更に広がる。
「アホやな…冥土の土産は大抵無駄になるって相場が決まっとるのに」
そう言ってカーエスは構えた。そして少し落ち着きを取り戻したイナスを見据える。
「冗談はさておき、そろそろ決着つけよか……。俺か、ワレか」
「馬鹿を言うな! お前に勝ち目はない!」
不可解なものを振り払うようにイナスが怒鳴る。
カーエルはそれをあっさりと否定して言った。
どことなく、その蒼い瞳は光を発しているように見える。
「あるんや。まだ俺にはとっておきがある。ワレなんぞ問題にならんくらいの凄い魔法が。
せやけど、ごっつ時間掛かんねん。スキ見てやられへんくらいな。せやから、この魔導やっとる間は無防備でおらなあかんちゅうこっちゃ。その間、好きに攻撃してええで。俺はそれに耐えてみせる。耐えて、この魔法を完成させてみせたる。
この魔法が完成したら俺の勝ち。その前に俺が倒れたらワレの勝ちや」
そのカーエスの言動のあまりの不可解さに、イナスは眉を歪めた。
(私が問題にならない? 今まで全く歯が立たなかったくせに? とっておき? 好きに攻撃させて耐えられたら勝ち?)
いくつもの疑問符が彼の頭の中を駆け巡る。
しかしカーエスはそんなイナスの反応を全く気にせず、始めた。
「行くでっ! 万物の流れを司る時よ! 我が時の流れを隔絶せよ!」
唱え始めたカーエスに、イナスは取り敢えず攻撃を始めた。
「《炎》! 《氷》! 《雷》! 《水》!」
炎が、氷隗が、雷が、水流がカーエスを襲ったが、カーエスは何ら防御行動をとらない。
それらはあっという間にカーエスを飲み込み、吹き飛ばす。
しかし、カーエスはすぐに立ち上がって続けた。
「隔絶された我が時よ! 我が魔力の導きに従え!」
さらにイナスは《速》、《力》と、繋げ、今度は顎にその拳を叩き込む。
カーエスは少し下を噛んだが、倒れる事だけは堪えた。
(まだや、まだいける……! もし、ここで俺が倒れたら……!)
フィラレスはどうなるだろう。おそらく、イナスはいち早く決闘場の中に飛び込み、リクやコーダと対峙しているジルヴァルトの元に助太刀に行くだろう。
ジルヴァルトもイナスと同じか、それ以上の強さは持っていると考えた方がいい。すると、一人でも手こずるこの状況、二人揃うと手が付けられなくなる。そうなると、リクは敗北し、フィラレスはイナス達の目的通りに連れ去られる。
連れ去られた後、何をされるだろうか。
なりふり構わない連中の事である。あまりいい待遇はされないだろう。
このとっておきは絶対に完成させなければならない。
これはフィラレスのためのとっておきなのだから。
(止めなあかん! こいつは俺が止めなあかんのや……!)
カーエスは続けた。
「ここに我の流れし時あり、その時の流れは《三倍速》!」
カーエスが唱え切ると同時にイナスが拳をカーエスの胸に当てる。
「止めだ! 《爆》!」
拳が光を放ち、爆発する。
しかし、カーエスは吹き飛ばなかった。
爆発した時にはその場にはもう、カーエスはいなかったからだ。
「……!?」
いきなり目の前から消えられ、眼を見張るイナス。
しばらく辺りを見回し、カーエスがいない事を確認した彼は、少し恐怖におびえた眼で恐る恐る自分の背後を覗いた。
果たしてカーエスはそこにいた。
「俺の、勝ちやな」
イナスが感嘆の声をあげるより先にカーエスが動いた。
「《…》………!」
あまりにも早口すぎて何を言っているのかイナスには聞き取れなかった。しかし、その後彼を包んだ炎は明らかに《鷲掴む炎》だった。
イナスは《散》を唱えようとしたがもう間に合わなかった。
あっけなくイナスは初ダメージを負う。
しかし、《鷲掴む炎》によるダメージよりも、全く何が起こっているのか分からない事による精神的ダメージは大きい。何しろ“烙印魔法”まで使った自分より速く魔法を発動させたのだから。
種明かしをすると、先ず“魔導眼”の秘密から話さなければならない。
“魔導眼”は、持っているだけで魔力を肉眼で確認できる事は既に述べた。ただし、これはただ持っていただけ場合の話である。
つまり“魔導眼”はまだ潜在能力があり、それを引き出して使う事によってあらゆるものを可視化できるのである。風を見る事はもちろん、温度や、湿度、匂いまでもその気になれば肉眼で見る事ができる。
そして、時の流れさえも。
時の流れを見る事が出来れば、技量によって限度はあるが、魔力を利用する事によりある程度、操作する事も可能になる。例えば自分の中の時の流れを速めたり、遅くしたり、だ。
この場合、カーエスは“魔導眼”で時を見て魔法で自分の中の時の流れを速め、身体の速さ、口の速さ、魔導の速さも全て速くしたのである。
ただし、これは客観的に見た場合の表現である。
カーエス自身は速くなったと感じる事はない。逆に周りが遅く見えるのだ。
「………《…》…!」
いきなりイナスの身体が空中に飛び出した。《打ち上げ》だ。
「……《…》…!」
今度はカーエスがそれを追って《飛躍》で空中に飛び出す。カーエスは打ち上げられ、かなりの速度で上昇するイナスを軽く追い抜かし、その先で止まると、後から上がってくるイナスに向けて掌を差し出す。
「……、……、………! ……《……》!」
その掌の先に異常な速さで魔力が凝縮し固まって行く。そしてそれを押し出すようにして放出した。その魔力がイナスに当たると、イナスは何かに力強く突き飛ばされたかのように下に向かって降下して行く。《ぶちかまし》だ。
そしてカーエスも降下しながらイナスが地面に激突するタイミングをはかり、そして唱えた。
「……! ………《…》!」
すると大地がアッパーカットでもするかのように鋭く速く隆起し、墜落してきたイナスをもろに突き上げる。最後の止めは《大地の拳》だ。
イナスはひとたまりもなく吹っ飛ばされてそのままぐったり倒れ、動かなくなった。
かろうじて生きてはいるようで時々ピクピクと手足を動かしている。
カーエスも無事に着陸すると、その場に大の字になって倒れた。
時の流れを操ると、カーエスは彼の持つほとんどの力を根こそぎ持って行かれる。つまり、後のない魔法なのだ。だからこそのとっておきである。リク戦で使わなかったのはあの後フィラレスを探し、救う事を計算に入れていたからだ。
彼の思い描く形ではなかったが、間接的に彼女を救うために、カーエスはとっておいた力を全て使った。
「ふう……疲れたァ……」
彼の頭上に広がる空と同じくらい清々しい笑顔で、彼は言った。
そんな彼を祝福するように、大きな鐘の音がその空に鳴り響いた。