15『二人を見守るのは』
傍観。その事に関係せず、ただ黙って見ている事。
見守る事は傍観する事なのだろうか。
確かに見守る者はその事には関わらない。
口を出さない。
手も出さない。
しかし、ただ見ているだけだろうか。
見守る者はその人々を想いながら見るのだ。
事がうまく運ばなければ、彼は悲しみに暮れるだろう。
事が成就すれば、彼は密かに祝うだろう。
彼は確かに口は出さない、そして手も出さない。
しかしそれはその者達の事を想えばこそ、出さないものなのだ。
その者達の真の幸せが彼の願いなのだから。
リクは真夜中の大通りを歩いていた。
一人ではない。もう一人、マーシアを背負っている。
彼女はあの後、マーシアは泣くままに痛飲し、そのまま眠ってしまった。
リクはしばらくそのままにしていたが、その内に酒場の閉店時間が来てしまい、追い出される事になった。
しかしマーシアが起きる様子がないので、店主に魔導研究所の人間が泊まっている宿を教えてもらい、今に至る。
時々身体がふらりと傾く。リクはその度に足を踏ん張って倒れるのを防いだ。
それはマーシアが重い訳ではなかった。
事実、昨日遥かに重いファルガールを担いでもここまでふらふらではなかった。
彼の足元を危なくさせているのは、今日飲んだ一杯のカルである。
これが異常にきつく、たった一杯飲んだだけで彼の顔は真っ赤になり、頭がガンガンしている。
(明日から大会なのに……)
そうして心配できるところを見ると、幸いにも思考力は大して落ちていないようだ。
昨日と違うのは酒だけではなかった。
背負っている人間が美しい女性だと言う事である。
背中からの柔らかい感触、耳もとに掛けられる寝息。性に関する云々はファルガールからすでに教えてもらって知っているが、まだ女性というものに目覚めていないリクにはこういったものに全く免疫がない。
加えて酒も入っているので、彼の心臓の鼓動と、顔の赤さは尋常なものではなかった。
昨日昼間に見た、担架を運んでいた連中に見つかったら、有無をいわされずに連行されるに違いない。
「ファルガール」
不意に耳もとで声がしたので、彼はもう少しで飛び上がりそうになった。
(……何だ寝言か)
「ファルガール……お願い、戻って来て……逢いたい………貴方に逢いたい……」
肩にぽたぽたと水滴が落ちるのを感じた。
肩越しに見ると、マーシアの目からまた涙がぽろぽろとこぼれていた。
恋をすると、逢えなくなるだけでこんなに辛くなるものなのだろうか。
(いや、ただ逢えなくなったんじゃねー、十年も逢えなかったんだもんな)
ファルガールはリクにこんな姿は見せなかった。
彼は昨日を除いて酒をいつも一杯で止めていたが、それはあれ以上飲むとこうなるのが分かっていたからかもしれない。
(俺も恋をしたらこうなるのかな)
そろそろ教えてもらった宿が見えるはずだ、と顔をあげると、リクは宿の入り口のところに誰かが立っているのに気が付いた。
その少女、フィラレスは腰まで届く長い真直ぐな黒髪を夜風になびかせてジッとこちらを見つめている。
「フィリー」
声を掛けるとフィラレスはリクの方に駆け寄って来て、心配そうな目でマーシアを見る。
「ああ、マーシアか? 心配すんな、只の飲み過ぎだ。それよりベッドまで運ぶから部屋まで案内してくれ」
フィラレスはこくりと頷くと、リクの先に立って宿の中に導いた。
魔導研究所勢の泊まっている宿『ルーフトー・レスト』は大通りに面しているだけあって、リクの泊まっている旅宿とは格が違った。
先ず建材のレンガがより丁寧で見栄えのよい仕上がりになっており、強度が増したのか、構造がいいのか、何とその建物は三階建てというつくりである。
内部は壁紙や絨毯が敷き詰められ、その絢爛さたるや目を見張らずにはいられない。
この分だと食事もさぞ豪華で、中の設備も充実していて、値は目玉が飛び出さんばかりに高いのだろう。
(何よりもベッドが本物だしなぁ)
フィラレスに案内してもらい、マーシアをベッドに横たえながらリクは思った。
豪華な食事よりも、立派な建物よりも、部屋に涼しい冷気を満たしている“冷しの札”よりも、それがうらやましい貧乏性、リクである。
昨日の事なのに、羽毛製の本物のベッドを見ていると、昨日ぶつけた額が痛くなった気がした。
「これでよし。フィリー、俺はこれで帰るから後頼むな」
フィラレスはこくりと頷き、もう一度こくんと頷いた。
彼女に見送られて部屋を出ると、そこにはカルクが立っていた。
「リク君、少し話がある。付き合ってくれないか」
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リクはカルクが使っている部屋に通された。
やはり女性にはいろいろと物入りなのか、マーシアとフィラレスの部屋にくらべると随分と荷物が少ない。
そして、マーシアとフィラレスが相部屋であるように、彼の部屋にももう一人の宿泊人がいる。
「あ~っ! おんどりゃ昨日のナンパ野郎やないか! 何でここにおんねん!」
リクを迎えたカーエスのはっきり歓迎されていない怒鳴り声である。
「私が誘ったからだ」と、リクの背後にいたカルクが簡潔に答えると、カーエスは思いきり嫌そうに顔を歪めた。
「えぇっ!? 何でですか?」
「少し彼と話す事がある。済まないが、お前は少し席を外しておいてくれ」
敬愛する師匠と、軟派な男が話をし、しかも自分は除け物。これでカーエスは納得できるはずはなかった。
しかし、これは師の指示である、従わない訳には行くまい。が、そこで終わるほど、カーエスは往生際の良い人間ではなかった。ドアを閉めた瞬間、どこから取り出したのかコップを取り出し、ドアに当てる。そしてそれに耳を付けた。
(さ~て、どないな話なんやろ?)
「君は大会には出ないのか?」
「エントリーはした」
「私の育てたカーエスは強いぞ、勝てるか?」
ドアの向こうではカーエスが顔を綻ばせていた。
さて、リクがどう答えるのかと、耳を澄ませる。
しかし、間を置いてリクの口から出た言葉はその問いに対する答えではなかった。
「……話って何だ?」
「分かるだろう? マーシアと君の師匠の事だ」
その答えにリクは少し顔を曇らせた。
相談された訳でもなく、まして当事者のどちらもいない状況で、部外者二人で話すというのはどうも気が進まない。
それを察したカルクは静かだがはっきり聞き取れるような声で言った。
「あの様子じゃ、また泣いたのだろう?」
「また?」
俯けていた顔を上げ、聞き返す。
しかし、カルクの言葉に見事に引っ掛かってしまった自分に気付き、また俯いた。
それでもカルクは答えた。
「十三年前、魔導研究所を出てからもファルガールはマーシアに月一回手紙を書いていた。毎月、同じ日に手紙は届いた。マーシアはその日が近付くと心を踊らせて待っていたんだ。
しかし十年前それは突然ぷっつりと途絶えた。それから毎月手紙が届いたその日はマーシアが落胆し、涙に暮れる日に変わった。
五年前、フィラレスが彼女の元に来てからは、それは止まった。師が弟子に弱いところを見せる訳には行かないからだろう。
だが泣いて悲しみを外に出す事が無くなっても悲しみは毎月同じ日に湧き、“冷炎の魔女”の仮面の下で溜まり続けていったんだ。
そしてファルガールから連絡が途絶えて十年が経ち、今回の大会の日がやって来た。
表にこそ出さないようにしていたが、マーシアは手紙が届く時のように心を踊らせていた。十三年前、弟子を探してこの大会に出場させるという言葉を今も信じていたからだ。そして昨日マーシアはファルガールと逢う事が出来た。
……今まで溜まっていた悲しみと、とうとうファルガールに逢う事が出来た喜びがぶつかりあって彼女はこれまでにないくらい情緒不安定になっている。
今日もファルガールに逢いにそちらの宿に行ったんだと思うが……どうやらそれは叶わなかったらしいな」
そういってカルクは、ちらりと部屋の側面の壁に目を向けた。
その壁の向こうはマーシアとフィラレスの部屋だ。
「また、ファルガールはどこかに消えてしまったんだろう? アイツはやると言ったら最後までやる奴だ。マーシアに手紙を送る事だって、奴ならマーシアの元に帰ってくるまで続けるはずだ。
それをやらない、と言う事は、ファルガールはまた何かを始めた。その一環として、マーシアに手紙をかかない事を始めてしまったんだと私は思っている」
そこまで話すとカルクは突然、リクの肩を掴んで聞いた。
「……リク君、ファルガールに何があったんだ? ファルガールはどうして、マーシアに手紙を書かない事を始めてしまったんだ!?」
その様子に、リクは驚いて一瞬、戸惑ってしまった。
カルクの印象はてこでも動かない岩石のようだ。
しかし、今自分の肩を掴み、自分を見つめるその目の迫力は彼が常に漂わせる威厳とは全く異質なものだ。
“冷炎の魔女”と言われるマーシアも今日、彼の前に感情をさらけだした。
その目の迫力に耐えきれず、リクは今日マーシアと話した事をカルクに話した。
それは言葉で話すのは難しく、ところどころでどう話していいのか分からなくなった事もあったが、カルクは辛抱強く話を聞いた。
話し終わった後、長い話に気を使ってか、カルクはリクに水を用意し、自身も一杯飲みながらベッドに腰掛ける。
そして神妙な顔で俯き、「そんな事があったのか……」と、一言漏らし、顔を上げてリクに礼を言った。
「ありがとう。良く話してくれた」
「聞いてどうするつもりだったんだ?」
リクが訪ねると、カルクは再び顔を俯けて答えた。
「どうもしない」
「どうして?」
「君が最初話をするのを渋ったように頼まれてもいないのに部外者の私がこの問題に首を突っ込むのはいい事ではない」
「部外者? それは違うだろ」
そう言って、リクは意味深長な視線をカルクに送る。
カルクは顔を上げ、しばらく正面からその視線を受けていたが、やがて目をぎゅっと瞑って深呼吸をし、立ち上がって部屋の窓まで歩いて行き、彼に背中を向ける。
「その目には嘘を付けそうにないな」
背中を向いていてもリクはカルクからずっと目を離さなかった。
「……君の思っている通りだ。私はマーシア=ミスターシャを愛している」
その待っていた言葉を聞いた瞬間、リクの脳裏に昨日のマーシアの涙が蘇る。
思い出したように、彼の心の中にざわめきが起こるのを感じ、気が付くと彼はカルクの背中に向かって声を張り上げていた。
「だったら何故、マーシアと付き合おうとしねーんだ? 頭のいいあんたの事だ。ファルの事なら気にしなくていい事は分かってるはずだ!
十年以上も恋人を放ったらかしにしたんだ、誰も責めたりしねーよ。いや責められるとしても、愛してるならどうして十年以上も一人にさせたんだよ! そうすれば一人の女があんなに辛い目に遭わずにすんだんだ!」
リクの言葉にカルクは再びこちらを向いた。その表情は、これまでにないくらい穏やかなものだった
「リク、私はファルガールも好きだ。周りが許そうとも私が私を許さないだろう。そしてそれが真にマーシアの為になるならば、自らの責めを甘んじて受けてでもマーシアをファルガールから奪っただろう。しかしそれではマーシアは本当の幸せは掴めない」
「そんなの分からねーじゃねーか。でもあんたが一人にさせた事でマーシアは今確実に辛い思いしてるんだぞ!」
「辛い思いは、後で掴む幸福に一層の輝きを与えてくれる。ずっと続く幸せは、その中にいる者にとっては普通の事でしかない。それが生温い偽りの幸せなら不幸にさえ感じるものなんだ」
そして声を荒げて息を荒くするリクにカルクは微笑みを浮かべて言った。
「……君は優しいな。ほとんど他人事なのに、君は真剣にこの事を考え、理解しようとしている。ほとんど初対面のマーシアや私を本気で心配してくれている」
「……っ!」
リクはその微笑みから逃げるように、踵を返し、背を向けて部屋を出ていった。