14『二つの涙』
涙は純粋なようで実にいろいろな面を持っている。
痛みに、恐怖に、苦しみに、悲しみに、悔しさに。
そして、感動に、喜びに。
小さな頃は涙を見せることは何でもなかった。
大きくなって自分の涙を見られることに恥を感じるようになった。
幼い頃は涙を見ても、分からなかった。
大人になって理解した。
涙は、心から湧き出てくるものなのだと。
彼は闇の中にいた。接地感はなく、浮遊感もない。
そして何も聞こえない。何も見えない。
手を顔の前に持ってきてみる。それでも何も見えない。
そのまま髪を触ってみる、やっと自分を確かめる事ができる。
……マタ、懲リズニキタノカ……?
その闇の中に突然見開かれた眼が語る。
……折角、生カシテヤッタノニ……
(うるさい! こっちが頼んだ訳じゃねー!)
彼は必死に言い返した。だが、とても冷静な状態とはいえない。極度の恐怖と緊張で、彼は今言った事を言ったそばから、忘れてしまっている。
……オヤオヤ、迷惑ダッタノカ? ソレハ済マナイコトヲシタ。
(いや、ただあんたが、後悔する事になるだけの話だ)
眼の形が微妙に変わり、小さく揺れた。どうやら笑っているらしい。
……ククク、心配御無用ダ……
その眼がカッと見開いた。
……今度ハチャント殺シテヤルサ……
その瞬間、放たれた眼光に彼は飲み込まれていく。
そして後には何も残らなかった。
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「ぷあっ……!」と、リクは跳ね上がるように飛び起きた。
そしてしばらく、息を止めていたかのように大急ぎで呼吸をする。
呼吸を整えると、寝汗でべったりくっついた服を引っ張る。
「あんまりいい夢は見れなかったみてーだな。」
彼は窓から表を見た。すっかり暗くなっている。
最後に見たのは夕方の薄暗い頃だっただろうか。ファルガールが部屋から出て行くのを見送ってそのまま寝てしまっていたらしい。あまり時間は遅くないようだった。
彼はもう一度寝ようとベッドに横になる。が、ちっとも睡魔がやってきてくれない。
(やっぱ寝んの早過ぎたかな)と、ここでリクはある事に気が付いた。(そーいや、ファルのいねー夜ってのは久しぶりだな)
しばらくぼんやりと天井を見ていたが、一向に眠れる気がしてこないので、リクはベッドから下り、汗に濡れた服を着替えて、部屋を出た。
ドアを潜ろうとしたところでリクは突然に声を上げる。
「うわぁっ!」
ドアを出たところでいきなりマーシアが立っていたのだ。
普通こういう鉢合わせは、双方驚くものだが、マーシアは何故か少しも驚いた様子を見せなかった。
「そんなに驚く事ないじゃない」
「……あんたの分も驚いてやった、と言う事にしといてくれ。ところでファルならいねーぞ。夕方にどっかに消えちまった」
「そう、どこに行くのか聞いた?」
リクは首を振った。
「いや、聞いてねーぞって言ったら……」
「『黙ってたのはお前に知られたくないからだ』、かしら?」と、マーシアはリクの言葉に割り込んで言った。
口調は違うが、一言一句外さなかったマーシアに、彼はほう、といたく感心した様子を見せた。
マーシアは微笑みを浮かべてさらに続けた。
「なら、あなたでいいわ。代わりに私と飲んで頂戴」
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そして二人は昨日の酒場にいた。
他に客はいない。がらんとした店内を見回して、リクはこの店は本当にやっていけているのかどうか余計な心配をした。
「フレスニー」
「水と何か軽く食べられるモンをくれ」
それぞれ注文が済むと、二人はテーブルの一つに向かい合って座った。
座るまではよかったが、何を話していいのか分からない。
確かにファルガールとマーシアは恋人同士らしいが、リクとマーシアは昨日会ったばかりの関係だ。
頼んだものが運ばれてくるまで、彼等の間は気まずい沈黙に支配された。
「お待たせしました」と、そこに助け舟のごとく注文したものがテーブルに運ばれて来た。
マーシアは赤紫色をした液体の満たされたグラスを手に取ると、リクに見えるように持ち上げて微笑みかけた。
「さあ、先ずは乾杯しましょう」
リクはそれに呼応して、水の入ったグラスを持ち上げて、マーシアのグラスと合わせた。
そしてそれぞれ一口飲む。
グラスを置くと、リクは頼んだ軽食である油で揚げた芋を摘んで口の中に入れた。
「き、昨日は何か悪かったな。ファルとあんたの仲を変に否定しちまって」
リクがつっかえながらも何とか切り出して謝ると、マーシアは、くすっと笑った。
「気にしないで、言われても仕方のないところは確かにあったもの」
「昨日、ファルがあんたに逢いたいと思ってても同時に思っていたことがあるって言ってたろ?」
「ええ、気が向いたら教えてやるって言っていたわね。で、教えてもらえたのかしら?」
リクは頷いた。
「今日、ファルが出ていく時にな」
「何て?」
「逢いたいとは思ってた、でも同時に逢っちゃいけねーとも思ってたんだとさ」
リクはマーシアの反応を待った。しかし彼女は静かにフレスニーを飲んだだけだった。しかし、グラスを口から離した後、先程まで口元に浮かべていた微笑みが消えていた。
マーシアなら分かると思ったのだが、この様子じゃあまり分かっていないらしい。
少し残念に思っていると、今度はマーシアから質問をして来た。
「ねえ、あなたといたこの十年でファルガールは何か変わった?」
「ん……? いや、大して変わってねーと思うけど。でも何でそんなことを聞くんだ?」
聞き返すと、マーシアはその答えとして彼女が昨日ファルガールに感じた違和感を語った。
それを聞いたリクは、納得すると共に、思い当たる事があった。
「自信がなくなった……か。やっぱりあの時のことかな」
「……聞かせて」
リクは頷いて話しはじめた。
ファルガールがやってきて暫くした時、自分の村が大災厄に襲われた事を、クリーチャーに、自分の目の前で両親を殺された事を。
マーシアはリクのいつもの明るさのない淡々とした口調に、リクには気の毒な事を聞いてしまった、と後悔したが、それでも聞きたい気持ちは揺るがなかった。
「気が付くと俺は何もない野原に寝ていた」
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嵐が過ぎ去った後の日は、必ず雲一つない快晴になると言われるが、そればかりは大災厄の場合にも例に漏れなかった。
昨日はあれだけ火を煽り、多くの人々を焼き殺した風が、何もかも忘れたかのように、やさしく幼きリクの顔を撫でていく。
彼はしばらく寝たまま動こうとしなかったが、やがて自分のそばに誰かが座っているのに気が付いた。
体を起こすと、その男が話し掛けてきた。
「目が覚めたか」
「おじさんも生き残れたの?」
リクの問いに、その男は憔悴し切った顔に苦笑を浮かべて頷く。
「ああ、なんとか、な」
「他の人は?」
男は黙って首を振った。
「生き残れたのは俺とお前だけだ」
二人はしばらく黙っていた。
その間にリクは、この男が数日前に村にやってきた魔導士だという事を思い出した。
「おじさん、あの嵐に負けちゃったの?」
男は黙って、こくりと頷いた。
だがそうやって首を下げたまま頭を挙げようとしない。
「おじさん、どうしたの?」
「ああ、自分が情けなくってな……。小僧、これを見てみろ」と、男は、首からペンダントを外してリクに渡した。何やら訳の分からない紋章を象ったものだ。それは子供のリクにはずっしりと重かった。
「これ何?」
「最強の証だ」
「さいきょう? 一番強いって事?」
そのペンダントを目の前に掲げながら、尋ねるリクに、男は怒りの混じった声で答える。
「ああ、そうだ。信じるか? ……信じられるわけねぇよな。……でも俺は信じてたんだよ。昨日まで俺は一番強く、一番正しい、何でもできるって、本気で思ってたんだ。
ところが昨日はあのザマだ。嵐の中で誰一人助けられなかった……あの嵐の中じゃ、俺は無力だった。俺の正しさなど誰の助けにもならなかった。俺は……俺は何もできなかった……!」
男は拳を地面にぶつけた。そして、そのままわなわなと震える。
リクがその男の顔を覗くと、その目から涙が溢れていた。
大人の男が泣くのを見たことがなく、大人の男は泣かないものなのだと思っていた彼にとってその涙は衝撃的なものだった。
そんな彼にリクは立ち上がって言った。
「僕ね、前はよく虐められて泣いてたんだ。でもね、父さんに言われたんだ。泣くほど悔しいのか、だったら強くなって、泣かないで済むようになってみろって。僕、毎日練習して街で一番ケンカ強くなったんだ。あれからほとんど、泣いた事なんてなかったよ。
だからさ、おじさんも悔しくて泣くんだったら、あの嵐より強くなればいいよ。そしたら泣く事なんて無くなるよ」
男は突然顔を上げた。
「“大いなる魔法”より強くなる? そんな事が出来ると思うか?」
「父さんは何でも目標をもって、努力すれば必ず出来るようになるって言ってたよ」
男は、血で赤黒く固まっている袖で涙を拭い、リクの方に向き直った。
「……手伝ってくれるか?」
リクは無邪気に頷いた。「うん、いいよ。」
「俺はファルガール=カーンだ。お前は?」
「僕はリクだよ」
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「よく思い出してみりゃ、俺も大それた事言ったもんだよな。とにかく、ファルが泣くのを見たのはあれが最初で最後だった」
「そんな事が……」
このリクの話でマーシアは全て理解した。
何故ファルガールが変わってしまったのか、何故自分に逢いたいと思っても、逢ってはならないと、自分を制し続けて来たのか。
自信を潰された者はその後三種類に別れる。
止めてしまう者、執着する者、そしてやり直す者。
前者二つはよくある話、そしてファルガールは一番難しい最後を選び、その上、自らの幸せを戒めた。
自分の恋人と逢うという幸せを。
マーシアの心情は複雑だ。
自分と逢うという行為が幸せにとられたというのは嬉しい。
だが、昨日は偶然逢ってしまったが、これからは一層自分を警戒する事になるだろう、そうなるともう二度と逢えないかもしれない。
「余程それがこたえたのね……。ただ自信を無くしただけじゃ、そこまでストイックになりきれない。自分が助けられれば在るはずだった幸せを思うと、彼は幸せになるわけにはいかない……」
そしてファルガールは夢を果たすまで自分に逢おうとしないだろう。
今度の夢は果たせないかもしれない。
果たしても、彼は気に病み、まだ自分と逢おうとしないかもしれない。
もう、ファルガールは自分の元に戻ってこない……?
いつの間にか、マーシアの目からは涙が止まらなくなっていた。
それからマーシアは止め処なく流れる涙で出た水分を補うかのようにフレスニーを次々とあおっていく。
リクはあまり飲み過ぎないように注意しようと思ったが、この状況でそれは野暮だと思い直した。
リクから見ると、マーシアはいつもその口元に笑みを浮かべ、掴み所のない女性だと思っていたが、目の前にいる女性はそれとは全く違う女性だ。
そして、こちらが本当のマーシアなのだろう。
思い出のファルガール、そして目の前のマーシア。
リクはこの日二つの涙を見た。
そして長年、一緒にいたファルガールの本心を垣間見、“冷炎の魔女”の本当の姿を目の当たりにした。
リクは飲まずにはいられなかった。
酒はファルガールのいつも飲むカルにした。
飲んで、思い知った。
ファルガールが飲んでいた酒の苦さと、強さを。