19『蜂と蠍』
そこにあったのは壁。
昔は越えられなかった壁。
昔は越える必要はなかった。
だが、今となってはこの道の先に必ず立ちはだかっている。
昔は越える必要がなかった。
だから、越えられないままだった。
だが、いつかは必ず越えなければならない今、
きっと、俺は壁を越えられるようになる。
場の空気を振動させるほど激しい羽音をたてて、その場に浮遊する蜂《ジェングスタフ》と、いつでも飛びかかれるように地をしっかり踏みしめる蠍《シッカーリド》。それぞれの“暗獣”を従えて暗殺者と便利屋は対峙をしていた。
間合いを計っているのだろう。“暗獣”召喚の後からは、ジリジリと動く他は睨み合ったまま、双方動きを見せていない。
外見的に刃を交えなくとも、二人は戦っていないわけではない。自分がどう動けば相手がどう動くか、頭の中でシミュレーションを行っているのだ。
コーダは“砂影”を抜ける前、ニードと組んでいた。つまり、お互い手の内はほとんど読めることになる。そして二人で組んでいた頃は、多少の相性の悪さの問題もあって、戦えば十中八九ニードが勝つことも、お互いに承知している。
その結果が覆るとすれば、別れた後の二人がそれぞれ積み重ねてきたものの差だろう。今、二人が計っているのは、そのお互いが知らない部分である。
永遠にも感じられる数秒の沈黙の後、先に動いたのはコーダだった。
「無謀なる《猛進》の心よ、突き進む力を!」
コーダの魔法に助けられ、《シッカーリド》の巨体はまるで弾丸のように速く、かつ力強く“蜂使い”の暗殺者に迫る。
「愚かなる強攻を《羽虫の舞》踊りて嘲笑わん」
《ジェングスタフ》に乗ったニードは、対象の質量を限り無くゼロに近付ける魔法を使い、まるでどれだけ鋭い拳でも捕らえ切れない羽虫のように、《シッカーリド》の突撃をかわし、そのまま後ろを取る。そして、その蜂の“暗獣”はいかにも獰猛そうな複眼をぎらつかせ、その鋭い顎で喰らい付く。
が、《シッカーリド》は鉄甲で強化され、盾にも使えそうな広さを持つ鋏でその顎を受け止め、振り払った。そして、すかさず鋭い鉤針のついた尾を振るう。
しかし、《ジェングスタフ》はこれも持ち前の身の軽さでかわすと、そのまま《シッカーリド》の間合いの外にその身を移す。
「ふむ。“暗獣”さばきは昔と変わっていませんね」
“暗獣”の反応速度と制御にかけては、“砂影”の中でコーダは群を抜いていた。“暗獣”同士の白兵戦では彼の右に出るものはいなかったのだ。ニードにしても、《羽虫の舞》などで防御に徹すれば負けないが、それでも《ジェングスタフ》は強い顎以外に白兵戦で武器になるものはなく、決め手に欠けている。
それでも、ニードがコーダより圧倒的に有利だったのはニードの“決め手”が白兵戦略以外にあったからだ。
「それでは、昔は防ぎ切れなかった“コレ”はどうでしょうか?」
(……来る!)
ニードから更に、魔力が注ぎ込まれ、《ジェングスタフ》に更に魔力が満ちる。それと同時に力強く羽ばたかれ続けている羽音が更に大きくなった。
「音よ強く波打ち、《衝撃の音波》となれ!」
魔法の発動と共に、蜂の“暗獣”を中心に空気が揺らめき、波紋となって広がる。全方向攻撃となるため、“避ける”のは不可能だ。
となれば“防ぐ”しかない。
「“護りの左”ッ!」
コーダは《シッカーリド》を操り、先程も《ジェングスタフ》の牙を防いだ幅の広い左のハサミで自分の前を遮らせる。《衝撃の音波》は避けられない代わりに攻撃力は低い。生身の人間なら衝撃に吹き飛ばされるところだが、甲殻に覆われた《シッカーリド》はその程度の衝撃にはびくともしない。
“運搬モード”“全速走行モード”“対集団戦闘モード”と、場合によって幾つかの型を持っているコーダの召喚獣であるが、今回の型はそれらのどれとも違う。
基本的には“対集団戦闘モード”と同じく要所要所を鉄鋼で武装したサソリだが、両側に持つハサミは左側だけが異様に幅広く、分厚い。それもそのはずで、その左のハサミは“盾”の役割を果たすものだ。よって、ハサミの形はしていてもハサミらしい機能はほとんどない。
だが、この左のハサミを使って防御を行う時、このハサミを中心に魔力の防護壁が展開される。それが、一対一の戦いに特化した《シッカーリド》“決闘モード”の能力の一つである“護りの左”だった。
「多少、失望を感じざるを得ませんね。いくら防ぐしか手段がないとはいえ、昔と反応がまるで同じではないですか」
コーダは答えない。声を出せば“本当の居場所”がニードに割れてしまうからだ。実は先程の交錯の際に《蜃気楼》を発動させ、彼の暗獣ごと幻影を生み出すと共に姿をくらませている。
《衝撃の音波》は主に相手の体勢を崩すために用いる魔法だ。即ち、この魔法の後には攻撃が来る。その攻撃が《蜃気楼》に向かって行われれば、ニードには大きな隙ができるというわけだ。
だが、事はそう上手く運ばなかった。
「とはいえ、《蜃気楼》で私を騙そうとした努力は買いますがね」
「なっ……!?」
離れた場所からだった直前の台詞とは全く違った場所――“真上”からの声にコーダは思わず漏らしてはならない声を漏らしてしまった。
万が一の話ではあるが聞き間違いかもしれない。そういった希望もこめて声のした真上を煽ぐが、その希望とは裏腹に、そこに確かに《ジェングスタフ》は存在していた。
「どっ……どう」
どうして《蜃気楼》で誤魔化したはずのこの場所を特定できたのか。
そのような質問をさせる暇も与えず、ニードは攻撃にうつる。
「魔力帯びし《魔砕の音波》よ、魔を破れ!」
再び空気が揺さぶられるのは感じるが、実際に音は聞こえない。だがその空気の揺らぎは魔力で出来ている“護りの左”の障壁を砕き、盾のような大きなハサミも大きく傷つけると共に弾き飛ばした。そこに現れたのはそれに護られていた《シッカーリド》の召喚主である。
ガードの無くなったコーダに、ニードは勝利の笑みを浮かべることもなく、ただ冷たい眼差しで見下しつつ掌を構えた。
「音よ、我が手に集れ! 凝り縮まれ! そして弾けよ! 討つべき者の腕の中で!」
そこまで唱えると、ニードは構えた掌をコーダに向けた。
「《炸裂する音波》ッ!」
パァン、と破裂音が耳に届くと共に衝撃が体内を走り、身体が中に浮いてすぐ後ろにいた《シッカーリド》に背中から衝突したのを感じる。次いで、身体の所々に裂傷が生まれ、激痛を訴え始めた。
「くッ……! さ、“裁断の右”ッ!」
痛みに意識を乱されながらも下された主人の命に、《シッカーリド》は広い左のハサミに隠れていた右のハサミを突き出して攻撃する。左のハサミとは違い、鋭く細いハサミだ。“裁断の右”はこのハサミを核に魔力で作った巨大なハサミで攻撃する技である。
《炸裂の音波》はその破壊力の代わりに、射程距離がかなり短い。そのため、この魔法が使用される時は空を飛び回れる《ジェングスタフ》を攻撃できる数少ない機会でもあるのだ。
“裁断の右”が持つ二枚の魔力の刃は《ジェングスタフ》を断ち切るべく、攻撃対象をその間に捕らえる。
「我、波に乗りて《音速》を得ん」
今にも断ち切られようとしていたニードが一つの魔法を発動すると、その姿がハサミの刃の間から消える。そして、そのままコーダの視界内からいなくなってしまった。
「参りやしたね……」
《炸裂の音波》で付けられた傷の痛みに顔をしかめながらコーダは独り漏らした。弱気な発言とは裏腹に、コーダの頭の中では今までの状況が、フル回転で分析されている。
途中から圧倒されたのは戦闘スタイルの相性の悪さがモロに出てしまった結果だ。
ニードは近距離の攻撃パターンはやや少ないものの、それでも《羽虫の舞》などをつかって相手を翻弄できるし、遠距離は今見せつけられたように音を使っての攻撃がある。
コーダの《シッカーリド》を使っての攻撃には遠距離からの攻撃はほとんどできないので、理論上は中距離から遠距離で戦っていれば、《シッカーリド》の攻撃が《ジェングスタフ》とニードに届くことはない。
くわえてニードの戦闘スタイルが《音速》を交えて、一撃を加えては相手の攻撃範囲の外に離脱するヒット&アウェイが基本であることが相性の悪さに拍車をかけている。つまるところ、時折攻撃をするために近付いてくる時以外に、攻撃する機会が全くないのだ。
しかし、勝機が全くないわけではない。
“砂影”を抜けた時から、ニードと対決することは目に見えていた。そしてかつての相方の能力は大体把握している。そのための対策は一応用意してあった。
ただ、今までの戦いの中で分からないところが幾つかあった。
その一つが、《蜃気楼》を使っていたのにあっさりと居場所がバレてしまったこと。《探査波》や《警戒網》で調べているとするならばコーダにも知覚できるはずなのだが、その痕跡もない。それを見破って接近してきた際、声がした方向とは別の方向から現れた。
その答え次第ではその対策も役に立たないかもしれない。
「どうしました? あまり考え込んでるとかえって相手の思う壷ですよ」
左側からニードの声がした。声からすると相当近距離に居る。
反射的にそちら側に注意が行きそうになるが、今ちょうど、先ほどの事を思い出していたこともあり、理性でその本能を押し退け、《シッカーリド》に乗って《飛躍》で空中に離脱する。
その次の瞬間“右側に現れたニードによって”《炸裂の音波》が放たれ、先程までコーダのいた場所の地面に放射状の裂傷が刻まれた。
「……なるほど」
先ほどは驚く間もなく攻撃に移られたので、多少混乱していたが、こうして上空から見てみると分からなかったことも見えてくる。
要するに、全て“音”なのだ。
まず、《蜃気楼》を見破ったことにしても、あれは《ジェングスタフ》が常時発している羽音が反射されて戻ってくる音で敵の位置を認識しているからだ。コウモリ等が超音波を飛ばし、その反射で障害物を避けるのと同じ原理である。
そしてもう一つ、声のした方向とは違うところにいる現象。これもやはり音を操作した魔法だ。自分の口から発せられる言葉の音波を曲げて違う方向、違う距離から聞こえるようにしていた。
昔、パートナーとして行動していた時にはそのような魔法を使っていなかったので知らなかったが、こうした音を使った幻惑魔法を使って、相手を撹乱しつつ攻撃と離脱を繰り返すのが彼の現在の戦闘スタイルなのだろう。
理解すると同時に、コーダは確信した。これなら自分が対ニード用に用意していた『対策』が使える。
《シッカーリド》に乗ったコーダは、地面に降り立つと同時に《ジェングスタフ》とニードに向き直った。
「よく、避けられましたね。誉めてあげます」
「別に誉めてくれなくてもいいスよ。……すぐにそんな気分じゃなくなりやスから」
そう言って、不敵な笑いを浮かべようとしたコーダだが、失敗した。
予想以上に先ほど《音波の炸裂》で受けた傷は深い。恐らくこれ以上闘いを長引かせるわけにはいかない。そのためにも、仕掛ける策で一気に決めなければならない。
(やれるか?)
コーダは心の中で自らに問い、そして口中で笑った。
こんな時、自分が主人と仰ぐ魔導士ならこんな疑問は抱かない。そんなことを聞けばきっとこう言う。
(やれるか、やれないかじゃない――やらなければならないんだ!)
改めてコーダはかつて兄と呼んだ暗殺者を見据えた。
大蜂《ジェングスタフ》の背で、ニードは再び攻撃を始めようと呪文を紡いでいる。
「音よ強く波打ち、《衝撃の音波》となれ!」
《ジェングスタフ》から放たれた音波がコーダに襲い掛かる。コーダの意思か、《シッカーリド》の能力の一つなのか、ほとんど反射的に反撃のために集中するコーダを“護りの左”が覆い隠す。
「魔力帯びし《魔砕の音波》よ、魔を破れ!」
しかし、《衝撃の音波》と同時に急接近するニードも即座に対応した。《魔砕の音波》でコーダを護る《シッカーリド》の左バサミを弾き飛ばす。そして迫る《衝撃の音波》が防御の解けたコーダに襲い掛かる。
コーダが、動いたのはその時だった。
「我ら手放さん、世界を認める覚えと心地! 光よ、失せるべし。音よ、去るべし! ここに成されるは《識覚なき領域》!」
発動した魔法は、肉迫する音波に対抗するようにコーダを中心にして広がった。その光を反射しない闇色の球体はコーダとニード、そして彼等が駆る召喚獣をも丸ごと飲み込んだ。
何も見えない。何も聞こえない。何の匂いもしない。
状況がさっぱり掴めなかった。《衝撃の音波》がコーダにに届く直前、彼を中心に黒い球体の領域が広がっていき、自分もそれに飲み込まれたところまでは覚えている。攻撃が彼に届いたかどうかは確認していないが、状況をからして防がれていると考えた方がいいだろう。
「こ、この空間は……?」
思わず漏らしてしまった言葉、こちらは聞こえた。但し、普段とは聞こえかたが違う。確信は持てないが、これは“体内を通る音”のみ聞こえているのだろう。
接地感はあるので触覚は死んでいない。同じ理由で気温も同じように感じられた。それなのに、今も続いているはずの《ジェングスタフ》の羽音の振動は感じられない。
これらの事実から察する《識覚なき領域》の特性は、“物質内を除く空間には光や音、匂いが存在できない”ということ。
即ち――
(――音波を使った魔法は一切使えない……!?)
しかし、この感覚を奪う魔法はある欠点を持っていた。それは魔法の対象が空間自体であるため、術者自身も何も見えない、何も聞こえない状態になってしまうのである。こう考えればお互い様だが、この状況でコーダが得たイニシアティブは大きい。
まず、コーダはこの状態に陥ることを知っていた。ゆえに混乱することはない。
次に、コーダはこの《識覚なき領域》での闘いの練習をしていた。
最後に、先ほどニードが悟った通り、音の存在しない領域を作った今、ニードの得意な音波を使った攻撃は封じられてしまっている。
この《識覚なき領域》は。コーダが“砂影”を抜けた後、いつかは闘うことになるであろう元相棒対策として学んだ魔法だ。だから園くらい有利に働いてくれなければ困るのである。
「そろそろスね。我ここにおらず……《居留守》」
短く魔法を唱えると、コーダの身体を薄い魔力の膜が覆っていく。その次の瞬間、前方から魔力の波、ニードがコーダの居場所を確かめるために使用した《探査波》がやってきた。しかし《居留守》によって作られた魔力の膜は《探査波》を受け流し、何の反応も返さない。
先程まで、ニードはコーダの位置を音波で把握していたようだが、肉眼でも音でも確認できない今、《探査波》を使って探してくることはお見通しである。
それを受け流し、相手から自分の居場所を隠すことができた今、コーダの位置を確認する術を失ったニードが取る方法は一つしかない。《警戒網》の感度を最大に挙げ、接近して攻撃するところを撃退することだ。
確かに、ほとんどの攻撃が近距離のものであるコーダ相手ならば、相手の攻撃を待ってカウンターを狙うのは正しい判断だ。
しかし、
「……一応俺もあるんスよ? 遠距離用の攻撃魔法」
先ずは、ニードの場所を特定しなければならない。しかし《探査波》を使えばニードにこちらの位置が知られてしまう。
だが、コーダはそれ以外に相手の居場所を特定する方法も用意していた。
コーダは地面に手をつくと、唱える。
「現れよ、汝の奥に仕舞われた記憶よ。語れ、汝の心に飛び交う思いよ。我は受け入れよう、《読み取り》て全てを受け入れよう」
人だけではない。物にも記憶はある。コーダは地面と大気の記憶を読み取ることで、この辺一体の情報を獲得しているのだ。その情報の結果、ちょうど前方に大型の飛行物体の存在を確認した。間違いなく《ジェングスタフ》だ 。
「方向、十二。距離、三十。動き、無し」
コーダは確認するようにそう、口にすると、それに呼応するように《シッカーリド》の反り返った尾がその方向を指し示す。
「壊す力宿りし光よ《シッカーリド》の尾に集え! 其が向かうは破るべき壁の立ちふさがる道! その先に伸びるは真実への道標!」
呪文の詠唱が進むにつれて、《シッカーリド》に魔力が充実していき、そしてそれは尾に集中していくのが感じられる。
それが溜まりにたまった時、コーダはそれを呪文を締めくくることで開放した。
「《砲撃》ッ!」
その瞬間、《シッカーリド》の尾からは堰を切ったような奔流にも似た光線が発射された。それは真直ぐちょうど効力のきれかけていた《識覚なき領域》の闇を切り裂いてコーダが狙った場所―――《ジェングスタフ》を貫いた。
「……!?」
突然《警戒網》に侵入してきた魔力流に、ニードは反射的に《ジェングスタフ》から飛び下りた。
その直後、《識覚なき領域》が解けて彼が目の当たりにしたのは、無敵を誇っていた彼の“暗獣”が一条の太い光線に貫かれ、崩壊して魔力として還っていくところだった。
「じぇ、《ジェングスタフ》……! バカな……」
自分の“暗獣”を倒されたことで、膝をついてしまったニードに、《シッカーリド》を従えたコーダが近付いてくる。
目が合った時、ニードはコーダに向かって苦笑してみせた。
「どうやら貴方にしてやられたようですね、コーダ」
「……昔、アンタは俺にとって越えられない壁でやした」
“砂影”にいる時は、どこをとってもコーダはニードに勝てなかった。一生叶わないとすら思っていたのである。しかしながら、その時、相棒であり兄貴分だったニードはコーダにとって越える必要のない壁ではあった。
しかし一族を抜けた後、コーダはニードと必ずどこかで闘うことになると覚悟していた。暗殺者一族を抜けた身としてニードは必ず自分を追って来ると思ったからだ。
その時からニードは便利屋・コーダにとって越えなければならない壁となった。
「多分、俺が今日アンタに勝てたのはその必要性のお陰スよ」