メイドの土産
目が覚めるとそこは、我が家のベッドだった。カーテンから朝日が漏れている。外からはゴミ収集車のメロディが流れていた。体を起こしてみると、ベッド脇のテーブルにメモを発見した。手にとって読む。
おはようございます、雅さん。よく眠れましたか?
可愛い寝顔を眺めていたかったのですが、帰ります。
他の男性と酔っ払うまで酒を飲んでは駄目ですよ。
もしかしたらと思うと、気が気でなりません。
僕以外の男が使いものにならなければ気も楽ですが。
施錠のため、失礼ながらバッグから鍵を拝借しました。
お返ししたいので、ご連絡お待ちしています。
昨日はとても楽しかったです。またデートしてください。
ついでに結婚してください。 橋本聡
やたら内容に無駄が多いメモだった。突っ込みたいところがいくつかあったが、昼からのアルバイトのためシャワーを浴びようとベッドを出た。
熱いお湯で汗を流してさっぱりすると、外のポストへ朝刊を取りに行き、ドライヤーで髪を乾かしてから化粧をした。
冷蔵庫のヨーグルトを食べているときにインターホンが鳴る。思わず自分の格好を見下ろした。キャミソールにショートパンツだ。近くにあったカーディガンを羽織りながら「はい」とインターホンに出る。画面は女性を映していた。
「山田様のお宅でしょうか。わたくし、橋本聡様より――」
橋本聡。
その名前を聞いた瞬間、勢いよくインターホンを切ってしまった。だがすぐにハッとする。あの男ならともかく、これでは外に立っている人に失礼だ。ショートパンツを脱いで、椅子の背にかかっていたジーパンをはいて急いで出た。
「すみません、ちょっとインターホンの調子が悪くて……」
口から出たホラに、女性は「お気になさらず」と微笑んだ。
彼女の格好は、白いブラウスに膝下の黒いスカート。シンプルなものだった。
「山田雅様でいらっしゃいますか」女性が澄んだ声で尋ねる。
「はい」
返答すると、女性が丁寧な仕草で一礼をした。
「突然の往訪、まことに失礼いたします。わたくしは橋本家に仕えております鈴木と申します。このたびは雅様に、聡様よりお預かりしたお品をお届けに参りました次第です。早速ですが、どうぞお納めくださいませ」
そう言った彼女から丁重に渡されたのは、封筒だった。
「はい、確かに」疑問に思いながらも受け取る。
「……あの」
その声に封筒から顔を上げると、彼女の含むような視線と絡んだ。
いまこの場で開けたほうがよいのかもしれない。
「拝見します」
そう言って封を開けてみる。出てきた用紙に驚いた。
婚姻届だ。
私は確認するように女性の顔を見た。目が合う。だが数秒経って、彼女のほうから逸らされた。
「では、確かにお渡しいたしました」
女性は取り繕うように言うと、慌てて頭を下げてみせた。その姿をどこか冷静に眺めながら、私も同じように謝る。
「あ、玄関先ですみませんでした」
「いいえ。こちらこそ、山田様の貴重なお時間を頂き、まことに申し訳なく……」
顔を上げた女性は再び頭を下げる。このぶんでは、封筒の中身を知らなかったようである。居心地悪そうにしているあたり、開封の確認だけするよう指示されていたのかもしれない。
「では、わたくしはこれで……。朝方に、たいへん失礼いたしました」
深々と一礼した彼女は、そそくさと去っていく。
その後ろ姿を見送り、しばらくして我に返った。家の中に戻ると、私は携帯電話に飛びついた。
着信履歴の一発目にはあの男の電話番号がある。私はあの男の連絡先を登録していないし、する気もないが、毎日のようにかかってくるので気がつけば履歴があの男で埋まるのだ。
電話が繋がると、「はい!」と勢いよく返事が聞こえてきた。それだけでうるさかった。
「雅さん! おはようございます! 初めてですね、あなたから連絡してくれたの。どうしたんですか、モーニングコールですか? デートのお誘いですか?」
そんなわけないだろう。
内心呆れつつ、携帯電話を耳から離してみた。手もとにおさまっているそれを見下ろしていると、受話部分から元気な声が聞こえてくる。
「あ、昨日はありがとうございました。とっても楽しかったです。またどこかに行きたいですね。どうでしょう、近々またご一緒に。何なら今日でもいいですよ! 雅さんのお仕事が終わったら迎えに行きますね!」
一方通行なのに、会話をしているように思えてくるのはなぜだろうか。馬鹿らしくなって、電話を耳にあて直した。
「あの、橋本さん」ようやく口を挟む。
「あー、声を聞くと姿が見たくなります。雅さんが恋しいなぁ」
このまま放っておいても勝手に喋るだろう。しかし電話代がかさむだけで何の得にもならないので、私から口火を切った。
「さきほど女性が尋ねてきましたけど。封筒のアレ、何のつもりですか」
あの婚姻届、残すは証人欄と、私のところを書くだけの状態だった。
「うちのメイドから、もらいましたか?」男は晴れやかに言う。
「メイド?」
「そう、メイドです」
あ、あの人メイドさんなのか。清潔感のある人に見えたし、何だか納得……ではなくて。
私はため息混じりに苦情を申し立てた。「あのですねぇ、朝っぱらから何なんですか一体」
「何ときかれると……婚姻届ですが」
特に気にも留めていないような言い方が、無性に腹立たしい。
「非常識にもほどがあるので、こちらで処分しました」
そう言うと、「え!」と驚愕する声がした。何を驚くのか。
だが、この男は素晴らしかった。素晴らしいほど曲解する人となりだった。
「雅さんは古風な方なんですね。順序を大事になさるなら、僕達どこからスタートでしょう? 婚約指輪? 結納? あ、釣書? もしやラブレター……とか言わないでくださいよ」
その段階はとっくに過ぎた付き合いですもんね! という声が聞こえたが、その上から被せておく。
「もういい、あれはもういい、忘れます。だから鍵を返して。今すぐ」
この男のペースに呑まれる前に、話の決着をつけねばならない。それよりも、メイドさんに預けるものを間違っているだろう。あれを渡すひまがあったら、鍵を返せと思う。
「鍵ですか」男は、それだけ言って沈黙した。
「バイトに行けないんです」
本当はスペアを持っているけれど、少し困らせるために催促した。
「あ、そうですね、失念していました。では今からお持ちしますから、鍵をかけたらまたお借りしてもいいですか?」
「何で。いやです」
信用できない人に鍵を預ける馬鹿はいないと思う。自業自得とはいえ、鍵を預けるかたちになってしまった自分は棚上げにしておく。そうでないと自己嫌悪に陥ってしまうから。
「そんな……」男のうな垂れた声がした。「合鍵、まだ作ってないのに」
「さっさと返せ」
どうやら、危ないところだったようだ。これは早く持ってこさせないといけない。
「わかりました、今から伺います。鍵をお借りするのは、またの機会ということで」弱弱しい声が受話部分から漏れた。
またの機会……は聞かなかったことにして、先ほどそういえばと思い当たったことを私は尋ねた。
「何でうちを知ってるんですか」
あまり記憶にないが、昨夜送ってもらったことや、メイドさんが来たことを考えれば、その疑問にぶつかる。
男は、一呼吸置いて答えた。「……霊力?」
「馬鹿を言うな。さっさと鍵!」それだけ言って、電話を切った。
深く息を吐いたあと、手元の婚姻届を見下ろす。さっきは処分したと勢いで言ったし、そうするつもりだったが、どうにもゴミ箱行きの決心が鈍る。
結婚する気など毛頭ないが捨てられない。ゴミにできないのはどうしてか。かといって大切に仕舞おうというわけではない。ちょっと記念に、くらいの気持ちが妥当だろうか。いや、それも違うような。なぜそんな心境になるのか、自身でも不明だった。
男の書いた字を見る。綺麗な字だ。誰が見てもきっとそう言ってしまうと思う。
どんな気持ちで一字々々を書いたのだろう。
私はしばらく婚姻届を眺めていた。