墓地墓地と、侵略開始
「雅さんをください」男が再び言う。
私は店内を見回した。幸運なことに、男の声が小さかったせいか誰も気がついていないようだ。それがわかれば、口元に笑みをのせるくらいの冷静さは取り戻せる。
「お客様……当店は人身売買を行っておりません」
非常識な馬鹿でも客は客。無視できないので馬鹿に見合った返事をした。男はにこにこと笑っていた。
「初めて笑ってくれた。ところでその切り返しは僕への鬱憤晴らしでしょうか?」
そのとおりだ。それ以外にあるはずもない。
少しでも気にしたらよいものを、男は笑みを浮かべている。とげの一つでも刺さるくらいの効果を期待しても、まったく無駄のようだった。
「あなたからのお電話を頂くために個人情報を提供したわけではありませんし、こうして仕事場まで来られる無神経さについては、大きな怒りを抱きます。どうやって人の仕事先まで特定されたのですか」
小声で言い返すと、男はほんのわずかばかり、たじろいだ。
「愛の力? ……冗談です。たまたまです」
くだらない。本当に偶然なわけがあるだろうか。
「お帰り願います」
畳みかけるように告げると、男がまっすぐこちらを見つめて口を開いた。
「仕事は何時に終わりますか?」
「お客様には関係のないことです。どうぞお引取りください」
そろそろ他の人の視線もある。どうしようかと思ったが、男のほうがあっさりと引いてくれた。
「終わるまで外で待っています」男は言って背を向けた。
名残惜しい顔をするくせに、外へ出て行く姿は颯爽だった。
そうして三時間後、バイトを上がると宣言どおり男はいた。コンビニの駐車場に、高級車が一台。運転席にいた男はこちらを見るやいなや車から飛び出してくる。
「雅さん!」
うっとうしいのに、それに慣れてきている自分が嫌だと思いながら、車のほうへ近づいた。
「本当に待っていたんですね。それで橋本さん、ご用件は?」
さっさと済ませてしまおうと私から切り出すと、男は目を見開いて歓喜した。
「初めて名前を呼んでくれましたね! 今日は記念日だ! 初めて名前を呼ばれた記念日……ああ、いいなぁ」男がすぐ目の前に立った。「あの、もう一回いいですか?」
「何を」
「橋本さん、と。あ、でも……聡って呼んでくれるならもっと嬉しいんですが」
興奮冷めやらぬ様子だが、男を喜ばす義理など私にはない。
「ご用件は」それだけ言って、口を閉じた。
男は、がっかりした表情をつくった。
「もう、サービスしてくれたっていいじゃないですか」
すねたような口ぶりの男を気にせず、私はバッグを肩にかけ直し、腕時計で時間を確かめる。お腹がすいた。この男の相手なんてしていられない。
「あ、お腹すきましたよね? どこかでご一緒しませんか」
「結構です」
嬉々として誘う男の車に乗るのはゴメンだ。
だが、男は迷ったふうに視線を中空に据えて考え、譲歩の姿勢を見せた。
「じゃあ、今日はこのまま帰ります」
無遠慮なくせに引くところは驚くくらいあっさりと引くようだ。というか、今日なぜコンビニまでやってきたのか。いったいどういう了見か不明である。だが解放されるならそれでよい。私はいちおう男に会釈して一歩踏み出した。しかしその途端、ぐいと引きとめられた。
「雅さん。また来ます。何度でも来ます。デートしてくれるまで、駐車場で待機しておきます」
「通報しますよ」
何度目かの脅し文句に、「それは困りましたね」と言った男は優しい笑みを浮かべていた。
相手をするだけ損なので、私はくるりと向きを変えて歩き始めた。
道すがら、ふと考える。
どうしてしっかりと拒絶できないんだろう。
ここ最近、馬鹿の一つ覚えのような告白をされ続け、いつしかそれも自然に受け止められるようになってきていた。お墓参り以外でも接触が増えたからか。
あの男、いかにしてこちらの勤務時間を嗅ぎつけているのか、アルバイトの日はコンビニの駐車場で待ち構え、休みの日は電話をかけてくる。
解せない。しかし一番に解せないのが、あの男をいちいち相手にしている自分だ。橋本聡と出会ってゆうに半年は過ぎている。ご飯に誘われても根気強く断り、向こうも我慢強く誘う――そのような平行線をたどっているが、このぶんではいつか情にほだされる日を迎えてしまうかもしれない。
ついにその日はきた。
今月の墓参りを終えた今日の朝、気がつけば私は食事だけという提案を受け入れていた。おまけにためらいつつも男の車に乗ってしまい、いよいよ毒されてきたのだと身をもって味わった。
「どこに行きましょう? 何か食べたいものはありますか?」男の声は弾んでいる。
「べつにファミレスでいいです。それかデパートのレストラン」
店内が広く人の多いところで、且つ土地勘もある地元のお店となると、そのどちらかが一番安心して過ごせると思った。相手の土俵に踏み入る愚は、おかしてはならない。
きっと男は私の意図をわかっただろう。しかし嫌な顔をせず、にっこりとうなずいている。その表情を見ていると、男の様子をうかがっているみたいで複雑な気分に陥った。別にこの男にどう思われようが知ったことではない……そう断言できないものが生まれているのが自分でもよくわかる。
「あ、雅さん。**百貨店はどうですか?」運転席から軽快な声が届く。
「はい、構わないですけど、橋本さんは……」私はちらりと横を見て、慌てて前に向きなおした。
「僕はご一緒できるなら、どこでも」
終始笑顔で運転する男の横は、とうてい落ち着くものではなかった。
駐車場に車を置いて、デパート内のエスカレーターに乗って上の階を目指す。私は、後ろに立っている男に声をかけた。
「そういえば、橋本さん……」
「はい」
少しだけ後ろへ振り向くと、目が合う。いつもまっすぐに見てくるので、この頃それが妙に恥ずかしい。私は気を取り直すように、一呼吸置いてからきいた。
「最初に私の名前を尋ねられたとき、本当に知らなかったんですか? 私の名前なんてすぐに調べがつくでしょう」
調べるのはこの男にとって造作ないはずである。自身の膝もとに情報があるのだ。となると、なぜ最初のころは「花子」と信じていたのだろうかと今さら疑問に思ったのだ。
男は、ああ……と合点のいった調子でうなずくと、手すりにのせていたその手を私の手の近くまで伸ばしてきた。触れるか触れないかの距離に驚いて、私は手を少しだけ前に置きなおす。すると、男は小さな笑い声を漏らした。後ろを振り向きたかったが、その勇気もなかった。
ややして男は言った。「調べたら楽でしょうね。でも、そんな簡単な方法よりロマンチックなほうが僕は好きです」
「あの方法のどこにロマンチックな雰囲気があったんですか」
「あれ……僕はロマンチックだなと思ったんですが。でも……」
何度も乗り降りして、気づけば目的の階にたどり着いていた。私の後ろにいた男はエスカレーターを降りると横に並んだ。そして、私の手を自然な動作で握った。
思わず男の顔を見上げる。すると、意地悪げな口調が降りてきた。
「刺激的な出会いだったでしょう?」
その言葉に、何も言えない私を満足そうに見下ろすと、男は繋がれた手を引いて歩き始めた。