あだになる
霊園を抜けると、あの男は追いかけてこない。先月と同様、私が早足で去ると男は諦めたように立ち止まるのだ。常識の分別はあるのかもしれない。しかしそこでありがたい気持ちになるのが、二度目の出会いにして毒されたように思えてならなかった。
霊園前でバスに乗り、最寄の停留所で降りる。家路へと歩きながら、これからのことを考えた。あの男のことだ。
自宅に着いて鍵を開け、静かな玄関に入る。靴を脱ぎ、手洗いとうがいをしたあと、仏間に向かった。我が家で唯一の和室だ。畳の匂いと白檀の香りが溶け合っており、私はそれを深く吸い込んだ。
祖母が亡くなる前、一軒家のここで私は祖母と暮らしていた。私ひとりでは大きすぎるが、家事やら何やらと、することが多い。今になって思う。亡くなった祖母は、どれだけ家のことや私の世話をしていたのだろう。数年前、私が高校在学中に祖母は倒れ、看病の甲斐なく死んでしまった。生前、祖母の使っていた部屋は仏間になった。
私は仏壇の前に座り、仏壇下の引き出しを開け、お墓参りセットを仕舞ってから奥にあるはずのメモを探す。
「……あった」思わず声が漏れ、紙切れをつかむ腕を抜いた。
メモには、控えていた霊園の連絡先がのっていた。善は急げと、さっそく行動にうつす。携帯電話を手にし、メモに書かれた番号を押した。耳にあてて待っていると、数秒で繋がる。電話に出た声は女性の、マニュアル通りのような応対で始まった。私は何から話すか迷ったが、とりあえず橋本聡なる男がうちのお墓の前をうろついており、迷惑していることを伝えておいた。一通り話し終えると、先ほどまで電話口から聞こえていた流れるような口調が途切れる。電話越しでも女性の困りきった表情が目に浮かんだ。 そりゃあ内容のおかげで女性も困るだろうが、こちらも困っているのだから仕方がない。
女性は「折り返しご連絡させて頂きます」と区切ったあと、私の名前と電話番号を尋ねてきた。
私が告げると女性は復唱する。それから、現場の見回りをするのと、発見しだい対応すると約束してくれた。そこで通話は終了した。が、体よく電話を切り上げられた感があった。
とりあえずの静観というところだろうか。
それから日が経って、新しい月に入った。
今回は祥月命日に行くのはやめ、三日ほど繰り上げてみた。本来行く日と、その前後一日はあの男を警戒して最初から却下。
念のためもう一日あと一日……という具合で早めにしたから大丈夫だろうと思い、バスに揺られて霊園に到着する。
しかし期待は裏切られるものだ。
「あっ、こんにちは! やっぱり今日も綺麗だなぁ。会えて嬉しいなぁ。もう、待ってたんですよ! にしても、今月は早いですね? 山田雅さん」
男は手を振って、微笑んでいた。
聞き間違うわけがない。確かに男は言った。
山田雅――教えていない、私の本名を。
呆然と立ち尽くす私の前で、男は饒舌だった。
「どうして黙っていらしたんですか。名前を教えてくれたっていいじゃないですか。花子も違和感ないくらい可愛かったけど、雅はもっと素敵ですね。あなたにぴったりだ。あれ、雅さん、固まってますけど、どうしました? 大丈夫?」
男を前にようやく体のこわばりが解け、私は勢いよく問いただした。
「どういうことですか。なぜ名前を知っているんですか」
「実は霊力を使ってですね」
男の冗談めかした物言いに、腹が立ってくる。
「ふざけないでください」
「……ええと、うちに連絡してくださったじゃないですか」
男はそう言ったが、私はこの男に連絡をしたのではなく、霊園の案内資料等に記載された番号に電話をかけ、そこに出た女性へ言ったのだ。なぜその内容が、男に漏れているのか。
眉根を寄せた私に、男は欲しかった答えをくれた。
「やはり昨今はより『お客様の声』を大事にすべきですから、そういった視点はきちんと掬っていかないと!」
そういえばこの男は霊園管理の会社と関係していたのだった。男の言い分では、苦情がきちんと上まで届いたということなのか。よくわからない。
まあしかしお客様の声なんて言っているくせして、そのじつ大事にしているのか不明である。だってまったく改善されていないではないか。
「いやあ、それにしても今日まさか会えるなんて。素晴らしい偶然ですね。運命ですね!」
男は自然に手桶と柄杓を私の手から持っていった。
「返してください」
抵抗してうったえても、都合よく無視された。
「雅さん、何かありましたら直接僕におっしゃってくださいね。霊園管理の事業には僕も関わっているので、何なりとお申しつけくださってけっこうですよ!」
はりきった声音の主が霊園にたむろするのが厄介だ。何とかしてもらえないだろうか。その点だけお願いしていたというのに、ぜんぜん聞き入れてもらえていない。
まさにどの口が言うのかという状況に、いらいらした。とんでもなく、いらいらした。
しかめっ面を隠さずに、私はお墓の掃除を無言で始めた。
「雅さん。一緒にお墓参りさせてくださいね」
少しだけ首を傾げた仕草のせいで金髪が揺れている。
男は人から奪った手桶と柄杓を使って掃除の手伝いを勝手に担い、世間話を延々と振ってきた。私が反応を示さなくても、めげずに楽しそうなおしゃべりを続けている。ずっとにこにこしている。
見た目のいい人間というのは、こういうときでも武器になるのかと思った。くやしいことに、ほんのちょっとだけ顔のよさに目が行った。でも気のせいだ。気のせいで済ませておく。
男は口だけではなく手も動かしていた。はえた雑草を素手で引き抜き、墓石まわりに落ちた枯れ枝や葉も取っている。
これはいったい何なのだろう。
納得できない状態ができあがっている。追い払いたいのに、何も言えない。自分のなかでくすぶる癪の種を外から突っつかれているようで、気持ちが荒れる。
男の存在は胸くそ悪い、気持ち悪い、気味悪いの三拍子。そこへ、思うようにならない不本意な自分を意識させられて、気分はよくない。
笑顔を絶やさない男へ一言たりとも話すものかという決意を胸に、私は黙々と作業に徹した。そして、複雑な心境を抱いたまま、今日も強引だか一歩引いているのだか判別しがたい男の行動――霊園の土地の境界までのお見送りとご挨拶を背中に受けて、帰宅の途についた。